第59話 三つ目の世界へ『直哉は帰っていない』と伝えた翌朝、会社に世界間連絡用の席ができていた
《直哉 帰る ?》
三つ目の世界から届いた問いを前に、俺たちはすぐには返事をしなかった。
答えだけなら簡単だ。
榊原直哉は、少なくとも地球へは帰っていない。
三十一年前に失踪してから現在まで、帰還したという記録はない。
けれど、それを単純に《いいえ》と返してしまっていいのかは別の話だった。
「エルグランドへ戻った可能性は否定できないんですよね」
俺が確認すると、ノアが頷く。
「WORLD COREに記録はない。でも記録欠損がある。だから『戻ってない』とは断定できない」
セレフィナも同意した。
「相手方が《帰る》をどこまで広い意味で使用しているのかも不明です。地球へ戻ることなのか、エルグランドへ戻ることなのか、あるいは単に第三境界を離れることなのか。それすら確定しておりません」
「三語くらいで話してる弊害がすごいな……」
『当時の私たちも、毎日それで困っていましたよ』
画面の向こうで冬木さんが苦笑する。
『だから《はい》と《いいえ》の次くらいに作ったのが、《分からない》だったの』
「そんなに早く?」
『必要だったのよ。分からないことだらけだったから』
それは妙に納得できた。
三十三年前。
異世界と最初に会話した人たちは、何かを知るための言葉より先に、自分たちが知らないことを伝える言葉を作った。
今の俺たちにも、その方が合っている。
最終的に送る内容は、冬木さんと地球側、アステリア側で確認してから決めた。
《直哉》
《先生 場所》
《帰る いいえ》
ここまでが、確実に言えること。
そして続けて、
《直哉》
《今 場所》
《分からない》
知ったふりをしない。
希望でも悲観でもなく、今分かっている事実だけを返す。
「送ります」
俺が言うと、全員が頷いた。
送信。
数秒で信号は境界設備へ入り、それ以上は何も起こらなかった。
もちろん、門も開かない。
そのまま十分待ったが返事はない。
二十分経っても変わらなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
最初に言ったのは冬木さんだった。
「いいんですか?」
『よくないわよ。できるなら朝まで待ちたいもの』
やっぱりだった。
『でも、それをやったら直哉君に怒られるわ。《先生、自分が年寄りなの忘れてます?》って』
「言いそうですね」
『昔から生意気だったのよ』
そう言いながら笑う。
待っている人だからこそ、待つことを選べるのかもしれない。
第三境界の通信監視は交代制で続ける。緊急性の高い信号が届けば連絡するが、そうでなければ朝まで俺たちを呼び戻さない。
その方針まで決めて、今度こそ解散になった。
◇
翌朝。
俺は普通に会社へ行った。
本当に普通に。
電車に乗り、駅から歩き、いつもの時間に社員証を通す。
昨日は政府からの正式な立会要請で特別休暇になったが、今日は何も予定が入っていない。
三つ目の世界は気になる。
榊原直哉も気になる。
向こうからまた通信が来るかもしれない。
だからといって、俺が二十四時間ずっと王権端末を抱えて待つ必要はない。
昨日までの俺なら少し不安だったかもしれないが、今は違う。
アステリア側にはノアたちがいる。
地球側にも専門家がいる。
何か起きれば連絡が来る。
それでいい。
「おはようございます」
いつものように挨拶しながら部署へ入る。
何人かがこちらを見た。
そして。
俺の机の横を見る。
「……何これ」
見慣れない小さな机が増えていた。
幅は五十センチくらい。
上に電話が一台。
タブレット端末が一台。
書類立て。
それだけ。
正面にはプレートまである。
《世界間緊急連絡専用》
俺は鞄を持ったまま固まった。
「俺の席、増殖してるんですけど」
近くの同僚が笑う。
「如月さん専用じゃないらしいですよ」
「じゃあ何ですか、これ」
「昨日の夕方、総務の人が設置してました」
俺は課長を見る。
課長は朝のメールを確認しながら、何でもないことのように言った。
「政府から連絡体制の相談が来た」
「政府から会社に?」
「正確には、世界間技術検証施設から政府経由でだな。お前の個人携帯へ何でも連絡する運用をやめたいらしい」
俺は少し驚いた。
「やめるんですか?」
「お前、社員だからな」
「はい」
「勤務中に異世界から呼ばれるたび、個人携帯持って廊下へ消えられても困る」
「それは本当にすみません」
「謝らなくていい。それを個人で処理させてる方がおかしいって話になった」
課長が顎で小さな机を示す。
「緊急連絡はそこへ来る。会社側でも内容を三段階に分けるそうだ。今すぐ本人が必要、勤務終了後でいい、単なる報告。この三つ」
「会社で異世界からの連絡をトリアージするんですか?」
「俺も昨日初めてそんな言葉を仕事で使ったよ」
課長も少し疲れた顔をしていた。
俺は端末の横に置かれた紙を見る。
《世界間関連連絡取扱要領》
作成者。
日本側の担当部署。
その下に。
《協議:アステリア王国対地球連絡調整室》
「……アステリア側にもこんな部署できたんですか?」
「昨日できたらしいぞ」
「昨日!?」
「設置まで三時間だったそうだ」
俺は額を押さえた。
やっぱりあいつらだった。
ただ。
説明書を読み進めていくうちに、少し印象が変わった。
勤務中の俺へ直接連絡していいのは、生命の危険、境界異常、本人認証が即時に必要な場合だけ。
研究上の質問。
確認可能な過去記録。
返信を急がない第三境界からの通信。
そういうものは全部、専用窓口が一度預かる。
緊急性がなければ、休憩時間か退勤後まで俺には渡さない。
「これ……俺を呼び出すための仕組みじゃないんですね」
「逆だ」
課長が言った。
「呼び出さないための仕組みらしい」
俺はもう一度、作成者欄を見る。
アステリア側の責任者として、セレフィナの名前があった。
たぶん昨日、俺が帰った後に作ったのだろう。
俺へ相談せずに。
三百年前なら、それが少し怖かったかもしれない。
今は。
「……そっか」
ちょっと嬉しかった。
俺が会社へ行きたいと言った。
だから仕事を辞めさせるのでもなく、世界側を止めるのでもなく、両方できる仕組みを勝手に作った。
元部下ではない。
今の彼女たち自身の判断だ。
「ちなみに」
課長が続ける。
「会社側でも担当を五人決めた」
「五人?」
「お前が休みの日に世界が滅びると困るからな」
「そんな軽い言い方で世界滅亡を業務に入れないでください」
「俺だって入れたくなかった」
近くの席から笑い声が上がった。
昨日まで第三世界の存在を巡って国家機関と会議していたのに、今日は会社でいつものように笑われている。
その落差に、ようやく少し日常へ戻ってきた気がした。
◇
午前中は何も起きなかった。
本当に。
何も。
メールを返し、資料を確認し、打ち合わせへ出る。
十一時頃、一度だけ専用端末が光ったが、俺には誰も声を掛けなかった。
気になって何度か見てしまう。
十一時半。
また光る。
それでも何も言われない。
「……あれ、見なくていいんですか?」
とうとう俺から総務担当へ聞いてしまった。
「優先度三なので、お昼休みにまとめてお渡しします」
「内容は?」
「勤務終了後でも問題ない情報です」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「俺の話なのに」
「如月さん本人も了承した運用だと伺っています」
「了承した覚えないんだけど」
「アステリア側からは《本人が仕事を続けたいという意思を最優先した制度》と」
「セレフィナ……」
やられた。
でも、たぶん文句を言ったら、
《蓮様がお仕事を続けたいと仰いましたので》
と涼しい顔で返される。
しかも正しい。
仕方なく仕事へ戻った。
十二時。
昼休みになった瞬間、俺は専用端末の前へ行く。
総務担当が笑いながらタブレットを渡した。
「二件です」
「第三境界?」
「はい。一件目は午前十時四十七分。二件目は十一時二十三分。どちらもアステリア側で解析済みです」
画面を開く。
一件目。
《直哉》
《先生 場所》
《帰る》
《行く》
俺は読み方に迷った。
その下にノアの解析注記がある。
《暫定解釈:直哉は「先生のいる場所へ帰る」と伝えていた可能性》
「……榊原さん」
三十一年前。
第三境界から消えた。
でも。
突然いなくなったわけではなかった。
少なくとも向こうの誰かには。
地球へ帰るつもりだと伝えていたらしい。
なのに帰っていない。
では。
どこで消えた?
すぐ続きを開こうとして、指が止まる。
一件目には、セレフィナからの補足も付いていた。
《蓮様。これは緊急事態ではございません。まず昼食をお取りください》
「……見えてるのかな」
思わず周囲を見る。
当然セレフィナはいない。
「どうしました?」
総務の人に聞かれた。
「何でもないです」
俺は昼食を買ってきた。
そこまで管理されるのもどうかと思うが、昨日も一昨日も食事を忘れかけている。
今日は言うことを聞く。
半分ほど食べてから、二件目を開いた。
こちらは一件目より長かった。
解析にも時間が掛かったらしい。
《直哉》
《帰る 前》
《ことば》
そこで一度区切られている。
「言葉……?」
続く。
《先生》
《ため》
《残す》
俺の手が止まった。
榊原直哉は。
三十一年前。
第三世界を離れる前に。
冬木玲子へ。
何かを残した。
さらに最後。
《渡す できる》
その下には、ノアからの注記。
《相手は「榊原直哉が冬木玲子へ残した情報を、こちらへ渡せる」と伝えている可能性が高い》
俺は立ち上がりかけた。
そして。
座り直した。
緊急じゃない。
命に関わる話でもない。
門が開いたわけでもない。
俺一人で何かを決める必要もない。
端末を見ると、既に水城さん、冬木さん、アステリア側の担当者へ同じ情報が共有されている。
さらに。
セレフィナからもう一行。
《本日十九時より合同確認を予定しております。蓮様がご都合よろしければ、ご参加ください》
「……ご都合よろしければ、か」
前なら。
来てください。
確認してください。
判断してください。
だったかもしれない。
俺は予定表を見る。
今日は定時で帰れる。
《参加します》
それだけ返した。
送信して。
昼食の続きを食べる。
向こうに三十一年前の手紙みたいなものがある。
本音を言えば。
今すぐ読みたい。
冬木さんだってそうだと思う。
それでも。
十九時まで待てる。
世界は、その間にもちゃんと回る。
俺が張り付いていなくても。
◇
午後六時五十七分。
世界間技術検証施設の会議室へ入ると、既にリゼル、セレフィナ、ノア、ミーナが揃っていた。
「お疲れさまでございます、蓮さん」
リゼルが立ち上がる。
「仕事終わりで悪いね」
「いえ。本日は私たちも通常業務を終えてから参りました」
「通常業務あるんだ」
「ございます」
「そりゃそうか」
セレフィナはアステリアの宰相だし、リゼルは近衛騎士団長だ。
三百年ぶりに俺が帰ってきたからといって、本来の仕事が全部消えたわけではない。
ノアだけ少し眠そうだった。
「ノア、寝た?」
「六時間」
「合格」
「何で蓮に判定されるの」
「最近ずっと逆に言われてるから」
ミーナが笑いながらお茶を置く。
十九時ちょうど。
冬木さんが映像通信へ入った。
『こんばんは』
「こんばんは」
いつもより少し緊張しているように見える。
無理もない。
水城さんが改めて午前中に届いた信号を説明した。
《直哉は、先生のいる場所へ帰ると言っていた》
そして。
《先生のために言葉を残した》
《渡すことができる》
冬木さんは最後まで聞いてから、静かに尋ねた。
『どうやって渡すの?』
それが問題だった。
現在使っている低帯域通信は、単純な意味の記号を送るためのものだ。
文章。
音声。
映像。
そんな大きな情報を送れる容量はない。
「門を開く必要はない」
ノアが先に言った。
「本当に?」
『それならよかった』
冬木さんが明らかに安心した。
「でも今の通信方式じゃ無理。別の古い通信路があるみたい」
「安全性は?」
「まだ調査中。だから今日は繋がない」
「了解」
俺がすぐ答えると、ノアが一瞬こちらを見た。
「何?」
「いや」
少しだけ口元が緩む。
「蓮も慎重になった」
「誰のせいだと思ってるんだ」
ただ。
ノアの説明には続きがあった。
「向こうから、もう一個だけ情報が来てる」
「何?」
「残したものの種類」
画面へ信号が表示される。
冬木さんと照合する。
古い記号。
俺には読めない。
でも。
冬木さんは見た瞬間に分かったらしい。
『……声』
「声?」
『この記号、声よ』
俺はノアを見る。
「音声が残ってる?」
「たぶん。ただし、今の通信路じゃ送れない」
三十一年前。
第三世界を去る前。
榊原直哉は。
冬木玲子へ。
文章ではなく。
自分の声を残していた。
冬木さんが画面へ近づく。
『直哉君の?』
「そこはまだ確認できません」
水城さんが慎重に答えた。
「相手からは、《直哉》《先生》《声》《残す》に相当する信号が届いています。ただ、それが本人の肉声なのか、別の形式なのかまでは――」
『十分です』
冬木さんが遮った。
そして。
一度目を閉じる。
『十分だから、急がないで』
俺たちは黙った。
『三十一年待ったんですもの』
冬木さんが笑う。
『あと何日か安全確認するくらい、待てますよ』
強い人だと思った。
たぶん。
待つしかなかった時間と。
自分で待つと決める時間は。
同じではない。
「じゃあ」
俺はノアを見る。
「安全に受け取る方法を調べよう」
「うん」
「門は開けない」
「うん」
「徹夜もしない」
「……」
「ノア」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「分かった」
リゼルが横で小さく笑い、セレフィナも肩の力を抜いた。
俺たちは。
三十一年前の声を。
今日。
無理に聞かなかった。
ただ。
会議を終える直前。
第三境界から最後に一つだけ、新しい信号が届いた。
自動解析が走る。
短い。
今まで何度も使われてきた記号だった。
《待つ》
その後に。
《長い》
そして。
《先生》
冬木さんが目を見開く。
俺は画面を見る。
三十一年間。
榊原直哉を待っていたのは。
地球の冬木玲子だけではなかった。
三つ目の世界の誰かもまた。
ずっと。
冬木玲子へ。
榊原直哉の声を渡す日を。
待っていた。




