第58話 三つ目の世界へ『先生はいる』と返したら、向こうから『直哉は帰った?』と聞かれた
《人 いる 先生》
壁面モニターに表示された三つの意味を前に、誰もすぐには動かなかった。
三十一年前に消えた榊原直哉と、画面の向こうにいる冬木玲子さんしか知らなかったはずの通信規則。
それを第三境界の誰かが使った。
ただし、意味が分かったからといって、それだけで文章まで決めつけていいわけではない。
「これ、『先生がいる』って意味で合ってるんですか?」
俺が尋ねると、冬木さんは手元の古いノートを見たまま首を振った。
『そこまでは分からないわ』
「分からない?」
『これは日本語じゃないもの。単語の順番に文法なんてほとんどないのよ』
冬木さんが対応表をカメラへ近づける。
『《人》《いる》《先生》。だから、《先生という人はいるか》かもしれないし、《人がいる、先生》と呼び掛けているのかもしれない。《先生、人はいる》という報告だって、無理をすれば読める』
「思ってたより不便だ……」
『最初は光を何回点滅させるかから始めたんですよ? 三語も送れるなら、当時の私たちなら大喜びです』
「比較対象が三十三年前なんですよ」
少しだけ、会議室の空気が緩んだ。
けれどノアは解析画面から目を離さない。
「質問符号みたいなのは?」
『後から作ったけれど、この信号には入っていないわね』
「じゃあ質問とは限らない」
『ええ』
分からないことを、都合よく分かったことにしない。
さっきまで俺たちが何度も確認していた方針が、ここでも必要らしい。
セレフィナが机の上で指を組んだ。
「そうなりますと、まず決めるべきは意味の解釈ではなく、こちらから応答するか否かですね」
全員の視線が集まる。
俺へ、ではなかった。
水城さんたち地球側。
ノアたちアステリア側。
そして冬木さん。
それぞれが考えている。
俺一人が答えを出す会議ではない。
そのことが、今はずいぶん自然になっていた。
「技術的には?」
水城さんがノアへ尋ねる。
「通信だけならできる。門は開けない」
「送信によって境界接続が開始する可能性は?」
「ない。WORLD COREにも確認する」
ノアが王権端末をこちらへ寄せたので、俺は入力した。
《第三境界へ通信を返すだけで、境界接続は起動する?》
返答はすぐだった。
《起動しません》
《通信路と境界通行路は独立しています》
「向こうから通行路を開けられるようになったりは?」
《なりません》
「通信によって渡る情報は、こっちが送った内容だけ?」
今度は少し間が空いた。
《現在使用中の低帯域通信方式では》
《はい》
俺はノアを見る。
「低帯域?」
「たぶん、今向こうが使ってる古い信号方式。文字どころか意味の塊を少し送るだけだから、余計な情報が漏れにくい」
「今の俺たちには、逆に都合いい?」
「かなり」
ノアが頷く。
「高性能な通信を繋ぐ必要ない。このまま話せるなら、このままがいい」
新しい技術を見たらすぐ高性能化したがりそうなノアが、古い仕組みを残そうとしている。
俺がじっと見ていると気づかれた。
「何」
「いや、本当に慎重になったなと思って」
「三百年研究してるから」
少し胸を張る。
「失敗もいっぱいした」
「そっちも三百年分?」
「聞かないで」
聞かない方がよさそうだった。
◇
応答する方向で話がまとまったのは、それから十五分ほど後だった。
ただし、何を返すかでさらに時間がかかった。
地球側は個人情報を必要以上に送らないことを提案し、セレフィナは国家間――相手が国家かどうかすら分からないので厳密には世界間――の初接触として、断定的な表現を避けるよう求めた。
リゼルは、向こうが冬木さん個人を探している可能性がある以上、本人の意思を最優先すべきだと言った。
そして。
「冬木さんは、どうしたいですか?」
俺が聞くと、彼女は少し驚いた顔をした。
『私?』
「先生って、たぶん冬木さんのことですよね。少なくとも、その可能性が高い。だったら俺たちだけで返事を決めるのは違うかなって」
しばらく沈黙したあと、冬木さんは笑った。
『不思議ね』
「何がです?」
『三十三年前は、私たちが向こうの子に何を見せるか、研究室で勝手に決めていたの』
笑みが少し苦くなる。
『直哉君によく怒られたわ。《本人に聞けないからって、本人抜きで全部決めていいわけじゃない》って』
その言葉には覚えがあった。
世界は違っても、時代が違っても、結局似たところへ戻ってくるらしい。
『返したいです』
冬木さんが言った。
『でも、私が直哉君を探すための通信にはしたくない』
「いいんですか?」
『よくはないわよ。聞きたいことなんて山ほどあります』
即答だった。
『生きているのか。どこにいるのか。どうして帰ってこなかったのか。三十一年も何をしていたのか。帰ってきたら正座させると言ったけれど、たぶん正座だけじゃ足りないわね』
「増えてる……」
ミーナが小さく笑う。
冬木さんも笑ったが、すぐ真面目な顔へ戻った。
『でも、向こうにも人がいるなら、その人は直哉君の消息を知らせるためだけに存在しているわけじゃないでしょう』
俺は何も言えなかった。
三十三年前。
向こうにいた少女を「研究対象」にしないよう守ろうとした榊原直哉。
今。
その榊原直哉を探す側になった冬木さんが、同じことを言っている。
『まず、返事だけしましょう』
「何て?」
冬木さんは少し考え、古い対応表の二か所を指した。
『《先生》《いる》。それだけ』
「向こうから来た言葉をそのまま使う?」
『ええ。これなら、新しい情報はほとんど渡さない。それに、もし相手が私を探しているなら十分でしょう』
セレフィナも同意する。
「妥当だと思います」
水城さんも地球側の担当者と確認し、送信を了承した。
最後にノアが通信経路を再点検する。
「門、閉じたまま。境界値、変化なし。送れる」
俺は画面越しの冬木さんを見る。
「送ります?」
『お願いします』
「俺が?」
『今、その装置の認証を持っているのは如月さんでしょう?』
「それはそうですけど」
『私は文章を決めました。皆さんが安全を確認した。如月さんが送る。それでいいじゃない』
なるほど。
誰か一人の返事ではない。
そう思えば、少し気が楽になった。
俺は王権端末を使い、第三境界の低帯域通信へ二つの信号を設定する。
《先生》
《いる》
「送るよ」
リゼルたち四人が頷く。
水城さんも。
画面の向こうの冬木さんも。
俺は送信した。
◇
返事は、すぐには来なかった。
一分。
五分。
十分。
何もない。
ノアが計器を確認しても、通信自体は正常に送られている。
「届いた?」
「装置までは」
「相手が見たかは?」
「分からない」
当然だった。
既読機能なんてない。
三十三年前どころか、石と光から始まった通信方法である。
俺のスマホより不便なのは当たり前だ。
二十分を過ぎたところで、水城さんが言った。
「今日はここで区切ってもよいかもしれません」
「待たなくていいんですか?」
「相手が人間だとすれば、こちらと同じ時間感覚で生活している保証もありません。返事を急かすべきではないでしょう」
確かに。
そもそも向こうが昼なのか夜なのかすら知らない。
「監視は交代制で継続します」
セレフィナもそう言い、アステリア側の担当者を追加で配置しようとしたところで、俺は少し嫌な予感がした。
「追加って何人?」
「現時点では三交代で四十二名を」
「多くない?」
「通信、魔導、境界、言語、警備、記録を含めておりますので、かなり絞りました」
「絞って四十二人……」
「地球側は二十六名です」
水城さんが補足した。
「合わせないでください。余計に大きく見えるから」
世界を一つ挟んだ先から返事を待つだけで、六十八人。
俺が昔ゲームをしていた頃なら、チャット欄を眺めながら一人で夜更かししていたところだ。
三百年経つと、既読待ちまで国家事業になるらしい。
「蓮様はお帰りになって構いません」
ミーナが当然のように言う。
「また?」
「また、です」
「返事来るかもしれないよ?」
「来ましたら連絡いたします」
リゼルまで加わる。
「蓮さんがこちらで画面をご覧になっていても、信号が早く届くわけではありません」
「昨日も似たこと言われた」
「昨日も事実でしたので」
正論が強い。
俺は諦めて立ち上がった。
「冬木さんも休んでくださいね」
『あなたに言われるとは思わなかったわ』
「俺も最近ずっと言われてるんです」
『では、お互い言うことを聞きましょう』
「そうしましょう」
通信を切る直前。
冬木さんは一度だけ、画面の端に表示された《先生 いる》という送信履歴を見た。
『三十三年前には、こんな日が来るとは思わなかった』
「俺も七年前には、自分が異世界の国家会議に出るとは思ってませんでした」
『人生、分からないものね』
「本当に」
今度こそ通信を終えた。
◇
結局、返事が来たのは四十三分後だった。
俺はまだ施設を出ていなかった。
帰ろうとしたところでミーナに夕食用の弁当を渡され、それを受け取ってエレベーターへ向かっている途中、ノアが走ってきた。
「蓮」
「返ってきた?」
「来た」
さっきまで帰れと言っていたリゼルたちまで戻ってくる。
「冬木様へも連絡します」
セレフィナが既に端末を操作していた。
「寝てたら起こさない方が――」
「まだ通信終了から一時間も経っておりません」
「そうだった」
一日が長すぎて時間感覚がおかしくなっている。
数分後。
俺たちはまた同じ会議室へ戻った。
冬木さんも再接続する。
『来たの?』
「はい」
『内容は?』
「まだ解析前です」
ノアが受信列を映す。
今回も同じ古い通信方式。
ただ、前より長い。
冬木さんのノートと照合し、機械的に一致する部分から意味を割り出していく。
最初の二語。
《先生》
《いる》
こちらの返答を繰り返している。
「確認?」
『たぶん』
次。
《よい》
冬木さんが小さく息を吐いた。
『《よかった》に近い使い方をしていた記号です』
向こうの誰かが。
冬木玲子が生きていることを知って。
喜んだ。
それだけでも、相手が単なる自動装置ではないことが少しずつ現実味を増していく。
でも信号は、まだ続いていた。
次の記号。
人。
そして固有名を示す前置き。
「名前来る」
ノアが言った。
表示が切り替わる。
《直哉》
冬木さんの表情が固まった。
その後ろに。
一つ。
意味を示す記号。
《帰る》
「……帰る?」
俺が聞く。
冬木さんは対応表を見た。
『そうね。帰る、戻る。もともとは《元の場所へ移動する》ために作った記号』
さらに。
最後に、質問を意味する信号が付いていた。
今度は間違いない。
三十三年前の対応表にも明確に残っている。
だから。
向こうから届いた文章は。
《先生 いる よい》
そして。
《直哉 帰る ?》
冬木さんが、何度もその並びを見直した。
『……直哉君は』
声が震えている。
『向こうには、いないの?』
誰も答えられない。
けれど。
もし、この読み方が正しいなら。
第三世界の誰かは。
榊原直哉がそこにいると伝えようとしているのではなかった。
逆だった。
彼らも。
榊原直哉がどこへ行ったのか知らない。
そして三十一年ぶりに繋がったこちら側へ。
こう尋ねている。
《直哉は、帰った?》
三十一年前。
榊原直哉は第三世界へ辿り着いた。
そこまでは、ほぼ間違いない。
だが。
その先で。
彼は、第三世界からも消えていた。




