第57話 三つ目の世界に消えた研究者の名前が残っていたので、恩師に知らせたら『門を開けないで』と止められた
《LAST OPERATOR》
《NAOYA SAKAKIBARA》
表示された名前を見たまま、しばらく誰も動かなかった。
三十一年前、地球から消えた大学院生。
地球とエルグランドの接続を最初に見つけ、向こう側にいる少女と光と石だけで会話を始めた男。
研究が終わった後も一人で接続装置を作り続け、ついには自分自身がエルグランドへ渡った。
そして、建国より遥か昔の遺跡に記録を残していた。
そこまでは分かっている。
けれど今、その名前があるのはエルグランドではない。
三つ目の接続先。
俺たちが今日初めて存在を知った、別の世界の境界装置だった。
「……同姓同名って可能性は?」
俺が言うと、ノアはすぐ否定しなかった。
代わりに解析画面へ向き直り、識別情報の周囲に残っている壊れたデータを一つずつ確認していく。
「ゼロじゃない。でも低い」
「名前以外に照合できるものは?」
「今探してる」
水城さんも地球側の記録端末を操作していた。
「榊原直哉さんが研究時代に使っていた識別番号、端末署名、当時の接続装置に残っていた機器固有情報を照合します。ただ、三十年以上前の設備ですので、全て残っているとは限りません」
「お願いします」
俺が答えるより先に、セレフィナが周囲へ指示を出した。
「本日の現地調査はここで終了しましょう。新たな操作は行わず、受信監視のみ継続。取得済みの情報は複製したうえで、アステリア側と地球側に一部ずつ保管してください」
「門は?」
王城管理局の担当者が尋ねる。
「内殻には触れません。ただし外殻を閉じることで観測に影響が出る可能性がありますので、ノアと地球側技術班の判断を優先してください」
「開けたままでいい」
ノアが答えた。
「境界自体は閉じてる。外側の扉を閉めても安全性はほとんど変わらない。それより今は受信を切りたくない」
「では地下区画そのものを封鎖します」
「承知しました」
話が次々に決まっていく。
俺は一度も命令していない。
というより、俺が何か考えるよりずっと早く、各部署が必要な判断を終えている。
リゼルだけは周囲の動きに加わらず、俺の近くにいた。
「蓮さん」
「うん?」
「本日はもう、こちらへ残られる必要はないかと存じます」
「でも榊原さんの照合が――」
「結果は届きます」
「第三世界からまた信号来るかもしれないよ」
「その監視も専門の方々が行えます」
反論できない。
そこへミーナまで加わった。
「朝からずっとこちらにいらっしゃいますので、一度お戻りになった方がよろしいかと」
「二人とも帰らせる気満々だね」
「はい」
リゼルが隠しもしなかった。
三百年前なら俺が最後まで残ると言えば、それだけで全員が付き合っていたかもしれない。
今は普通に帰される。
少し寂しいような、かなり安心するような、不思議な気分だった。
「分かった。帰る」
そう答えたところで、セレフィナがこちらへ戻ってくる。
「その前に、一点だけご相談がございます」
「何?」
「冬木玲子様へお伝えするかどうかです」
俺はもう一度、画面に残る名前を見た。
冬木さん。
三十三年間、向こう側に人がいると信じ続けていた人。
榊原直哉が消える一週間前に残した手紙も、ずっと保管していた。
伝えるべきだとは思う。
けれど。
「まだ榊原さん本人がいると分かったわけじゃない」
「はい」
セレフィナもそこは即座に同意した。
「名前が記録されていることと、生存していることは全く別です。誤解を招く伝え方は避けるべきでしょう」
「でも隠すのも違うよね」
「私もそう思います」
結局。
今日分かった事実だけを伝えることになった。
第三の接続先が存在したこと。
その装置が現在も稼働していること。
生命反応があること。
そして、最後に手動操作した人物として《NAOYA SAKAKIBARA》という名前が残っていたこと。
生存については何も分からない。
それ以上は言わない。
「連絡、明日にする?」
高齢の人へ夜になって突然こんな話をするのもどうなのかと思ったのだが、水城さんが時刻を確認した。
「先方へまず概要だけお伝えして、面会の希望を確認します。こちらの都合で押しかけることはしません」
「それでお願いします」
俺たちはそこで一度、地下を出た。
◇
結局。
冬木さんから返ってきた答えは、
《今日聞きます》
だった。
しかも政府施設へ呼ぶ必要すらなかった。
自宅から安全な映像通信へ参加できるよう、政府側が機材を用意すると伝えたところ、娘さんの協力もあって一時間もしないうちに接続準備が整ってしまった。
俺が地球へ戻った時には、すでに世界間技術検証施設の会議室が確保されている。
また国家規模の話になっている。
「俺、今日普通に会社へ行く予定だったんだよな……」
会議室の椅子へ座りながら呟く。
「朝の時点で既に普通ではございませんでした」
ミーナが温かいお茶を置いてくれた。
「確かに」
今日は諦める。
リゼル、セレフィナ、ノアも残っていた。
水城さんたち地球側担当者も数人だけ同席する。
やがて壁面モニターへ、見覚えのある白髪の女性が映った。
『こんばんは』
「こんばんは。遅い時間にすみません」
『まだ寝る時間じゃありませんよ』
「すみません」
『年寄り扱いしたでしょう』
「ちょっとだけ」
冬木さんが笑った。
その様子は前に会った時と変わらない。
ただ、水城さんが事実を一つずつ説明していくにつれて、表情から笑みが消えていった。
三つ目の世界。
稼働中の境界装置。
生命反応。
最後の手動操作者。
榊原直哉。
全てを聞き終えても、冬木さんはすぐには口を開かなかった。
膝の上に両手を置き、しばらく画面の外を見ている。
『……そう』
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「冬木さん」
『生きている、とは言わないでくださいね』
俺が何か言う前に、先に釘を刺された。
「はい。そのつもりです」
『名前は、人じゃないもの』
静かな声だった。
『記録が残っていた。それは嬉しいわ。でも直哉君が今もそこにいる証拠ではない』
「俺たちもそう考えています」
『よかった』
そこで初めて、少しだけ表情が緩む。
そして次に聞かれた。
『門は開けましたか?』
「外側の扉だけです。第三世界への接続はしてません」
『絶対に、まだ開けないで』
今までより強い声だった。
会議室にいる全員が黙る。
「理由を聞いても?」
『直哉君が最初に私へ教えたことだから』
冬木さんは、以前俺たちへ見せてくれた古いノートを持ち上げた。
『向こうに人がいると分かった時、あの子が一番嫌がったのは、研究者が喜んだことでした』
「喜んだこと?」
『新しい発見だから当然でしょう。私だって興奮した。でも直哉君はずっと言ってた。《発見したからって、触っていいことにはならない》って』
覚えている。
向こうは実験動物じゃない。
見るだけにしろ。
榊原さんが研究者たちへ何度も言っていた言葉だ。
『新しい扉を見つけた時ほど、開ける理由より、開けない理由を先に探せ。それがあの子の考え方でした』
ノアが小さく頷いた。
「同意」
俺は思わずノアを見る。
「今日はずっと慎重だね」
「失礼」
「ごめん」
でも本当に、今のノアは誰より門を調べたがっているはずなのに、一度も開けようとは言わない。
未知の技術を知りたい。
だから壊したくない。
向こうに人がいるかもしれない。
だから勝手に踏み込みたくない。
三百年研究を続けてきた技術者らしい判断だった。
「冬木さん。一つ確認させてください」
セレフィナが口を開く。
「榊原様が三つ目の接続先について話されたことはありませんでしたか?」
『三つ目……』
冬木さんは考える。
『はっきりとはないわね』
「では、三つの輪については?」
そこで。
冬木さんの顔が止まった。
『ちょっと待って』
画面から姿が消える。
娘さんらしい声が向こうでして、何かを探す音が続いた。
数分後。
冬木さんが別の古いノートを持って戻ってくる。
『これ、前に渡した方じゃないの』
「別のノート?」
『研究記録というより、私の走り書き。意味が分からないものをまとめてあるの』
ページを何枚かめくる。
そして一枚をカメラへ向けた。
画質の関係でよく見えない。
水城さんが画像転送を頼み、娘さんが写真を撮って送ってくれた。
大きな画面へ表示する。
三つの丸。
一本の線。
三環樹紋に似ている。
ただし完全に同じではない。
三つの丸が横に並び、その間を線が繋いでいる。
一番左の丸の横には、
《こちら》
二番目には、
《あの子》
と書かれていた。
そして三番目。
文字はない。
ただ。
疑問符。
《?》
だけ。
「これ……」
『直哉君が描いたものよ』
冬木さんが言う。
『最初の子と記号で話していた頃、その子が三つの丸を何度も描いたらしいの。直哉君は一つ目が地球、二つ目が向こうだと考えた』
「三つ目は?」
『分からなかった』
だから疑問符。
『当時は、数字の三を教えようとしてるんじゃないかって話で終わったわ』
ノアが画像を拡大する。
「違う」
小さく呟いた。
「たぶん世界」
「断定はできないよ」
「うん。でも今なら一致する」
地球。
エルグランド。
第三境界。
三十年以上前。
最初に観測された少女は。
既に。
三つあることを知っていた可能性がある。
「榊原さんは、後からこれの意味に気づいた?」
『分からない。でも失踪する少し前、ノートを返してくれた時に一か所だけ書き足していたわ』
「どこです?」
冬木さんが画面を指差す。
三番目の丸。
疑問符の下。
小さすぎて最初は見えなかった文字。
拡大する。
《先?》
たった二文字。
「先……」
『私も意味を聞いたの。でも教えてくれなかった』
「どうして?」
『《まだ予想だから》って』
いかにも研究者らしい。
分からないことを、分かったとは言わない。
その部分だけでも、少し榊原直哉という人が見えた気がした。
◇
「WORLD COREに確認する」
ノアが言った。
何を聞くかは俺にも分かった。
第三世界側に残された《LAST MANUAL ACCESS》。
その「手動」が本当に意味するもの。
俺たちは王権端末を開いた。
「WORLD CORE」
《はい》
「第三境界側の《LAST MANUAL ACCESS》について確認したい」
《確認可能です》
「手動操作って、遠隔でもできる?」
少し間。
《当該世代の境界装置では》
《できません》
会議室が静かになった。
ノアが続ける。
「現地に人が必要?」
《はい》
「生体が?」
《はい》
「操作者識別《NAOYA SAKAKIBARA》は、第三境界側の装置で直接登録された?」
《記録上は》
《はい》
冬木さんが目を閉じた。
俺もすぐには何も言えなかった。
これで。
かなり意味が変わった。
榊原直哉は地球からエルグランドへ行った。
そこで少女と再会した。
そして、その後。
少なくとも一度。
三つ目の世界にある境界装置の前に立った。
「……本当に先へ行ったんだ」
俺が呟く。
冬木さんが、少し困ったように笑った。
『あの子らしいわ』
「怒らないんですか?」
『怒っていますよ』
即答だった。
『三十一年分』
「結構たまってる」
『帰ってきたら、まず正座ね』
笑っている。
でも。
目は少し潤んでいた。
俺は「帰ってくるといいですね」とは言わなかった。
まだ何も分からない。
三十一年。
地球の時間。
エルグランドでは何十年、何百年が過ぎたか分からない。
第三世界がどんな時間の流れなのかも不明だ。
名前が残っているだけで、生きているとは言えない。
だから。
希望を事実に変えてはいけない。
俺たちは一つずつ確かめる。
「戻った記録はある?」
ノアがWORLD COREへ聞く。
《第三境界からELGRANDへの》
《帰還記録ですか》
「うん」
返答。
《確認できません》
誰も驚かなかった。
予想していた答えだったからだ。
それでも少し重い。
セレフィナが確認する。
「記録がないことは、帰還していないことを意味しますか?」
《いいえ》
《記録欠損領域が存在します》
《断定できません》
「ありがとう」
これでいい。
分からないことは分からない。
今日、それを何度も確認している。
◇
午後七時四十八分。
冬木さんとの通信を終える前に、地下監視班から連絡が来た。
《第三境界より新規受信》
全員の表情が変わる。
「自動応答?」
ノアがすぐ確認する。
数十秒後。
解析担当から返事。
《判定中》
俺たちは席を立たない。
門へ向かう者もいない。
現地には専門家がいる。
ここで情報を待つ。
数分後。
受信データが転送された。
前回より短い。
ただし、信号構造そのものが違っていた。
WORLD COREにも問い合わせる。
「これ、境界装置の自動応答?」
《いいえ》
会議室の空気が変わる。
「確実?」
《自動応答領域を使用していません》
誰か。
あるいは何かが。
向こう側で。
意図的に送った。
「内容は?」
ノアが解析へ入る。
けれど今回の信号は、未知の形式ではなかった。
ノアが数秒見たところで眉を寄せる。
「……変」
「何が?」
「古い」
「古い?」
「すごく単純。今までの境界通信より、ずっと」
数字。
間隔。
点滅回数。
それだけ。
俺には意味が分からない。
でも。
壁面モニターの向こうで。
冬木さんが突然立ち上がった。
『待って』
「冬木さん?」
『もう一回見せて』
信号列を大きく表示する。
一回。
間。
二回。
長い間。
一回。
一回。
三回。
冬木さんの手が震えた。
『これ』
「分かるんですか?」
『私たちが作ったものよ』
「え?」
『最初の会話』
三十三年前。
光を一度送れば、少女が石を一つ置いた。
二度送れば、二つ。
そこから半年掛けて作った。
数字。
位置。
はい。
いいえ。
人。
今日。
昨日。
言葉になる前の。
最初の共通記号。
『直哉君と、あの子しか最初は使えなかった』
冬木さんは急いで古いノートを開く。
ページをめくる手が何度も止まる。
やがて。
『あった』
対応表。
三十年以上前の手書き。
ノアが現在の信号と照合する。
一つ目。
《人》
二つ目。
《いる》
そして最後。
長い信号列。
冬木さんが。
声を失った。
「何です?」
俺が聞く。
返事がない。
「冬木さん?」
『……違う』
小さく。
呟く。
『これ、直哉君が教えた記号じゃない』
「じゃあ何?」
『私が』
冬木玲子が。
画面越しに。
信号を見つめる。
『直哉君に教えた記号』
ノアが対応表を拡大する。
意味。
表示。
たった一語。
《先生》
誰も。
すぐには。
言葉を出せなかった。
三十一年前に消えた男がいる証拠ではない。
それは今も変わらない。
けれど。
三つ目の世界の誰かが。
榊原直哉と冬木玲子しか知らなかったはずの古い通信規則で。
今。
こちらへ。
《人 いる 先生》
と送ってきていた。




