第6話 会社から、陛下を返してください
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朝七時十二分。
俺は一睡もできないまま、最寄り駅のホームに立っていた。
周囲には、会社へ向かう人たちが無言で電車を待っている。
スーツ。
鞄。
眠そうな顔。
いつもと何も変わらない朝だった。
俺も普段なら、その中の一人にすぎない。
けれど今は、スーツのポケットに入れた指輪が数分おきに淡く光っている。
《王都防衛結界の残存時間――四十時間五十二分》
昨夜、不要な施設を停止させたことで、多少の時間は稼げた。
それでも、二日も残っていない。
異世界では、三億人を超える人々が暮らす国が滅びかけている。
現実では、会社と管理会社と外務省から連絡が来ている。
どれか一つだけでも、普通なら人生最大の出来事だった。
それが一晩で全部起きた。
電車がホームへ入ってくる。
乗り込もうとしたところで、背後から声をかけられた。
「如月蓮様でいらっしゃいますか」
振り返る。
黒いスーツを着た男女が二人立っていた。
どちらも日本人に見える。
男は四十代ほど。
女は三十代前半くらいだろうか。
二人とも、朝の駅にいる会社員にしては姿勢が良すぎた。
「そうですけど」
男性が胸元から身分証を取り出す。
「外務省の者です」
「会社へ行くだけなんですが」
「承知しております。お送りいたします」
「電車で十分です」
「アステリア王国側より、如月様の安全確保について強い要請が出ております」
「断りましたよね」
「はい。ですので、国賓警護ではなく、事情確認のための同行という扱いになっております」
言い方を変えただけに聞こえる。
電車の扉が開いた。
二人は俺を囲むでもなく、少し離れた位置に立っている。
強引に連れていくつもりはないらしい。
「本当に会社へ行くだけです」
「先方の使節団も、現在そちらへ向かっております」
「何で?」
「昨夜、御社へ提出した文書に対し、代表取締役から正式な説明を行いたいとの回答がございました」
俺が知らないところで、話がどんどん進んでいる。
「使節団は外務省にいるんじゃなかったんですか」
「一部は残っています。雇用問題を担当する方々のみ、御社へ移動中です」
雇用問題。
普通に採用され、普通に働いてきただけなのに、国際問題のような扱いになっている。
結局、俺は外務省の二人と一緒に電車へ乗り込んだ。
◇
午前八時二分。
会社が入っているビルの前には、見慣れない黒塗りの車が三台並んでいた。
入口には警備員が増えている。
出勤してくる社員たちは、何が起きたのか分からず、車を避けながら建物へ入っていく。
俺もその流れに混ざろうとした。
「如月さん」
受付の女性に呼び止められる。
普段は挨拶を交わす程度の相手だ。
今日は俺を見るなり、明らかに緊張した顔になった。
「社長室へお願いします」
「先に自分の部署へ鞄を置いてきてもいいですか」
「そのままで結構です」
周囲にいる社員の視線が集まる。
何か不祥事を起こした人間を見るような目だった。
昨夜、社長から何度も電話が来ている。
朝一番で社長室へ呼び出される。
海外の王国を名乗る者たちまで来ている。
事情を知らなければ、俺でもそう思う。
エレベーターへ乗る。
外務省の二人も一緒だった。
最上階へ上がる途中、スマートフォンが震えた。
直属の上司からのメッセージ。
『何をしたか知らないが、会社は今朝から大混乱だ』
何もしていない。
そう返そうとして、やめた。
正確には、俺の元部下たちが色々している。
俺にも無関係とは言えなかった。
エレベーターが最上階へ到着する。
扉が開いた瞬間、見覚えのない男が深く頭を下げた。
黒い礼服。
白い手袋。
整った顔立ちは人間とほとんど変わらない。
ただし、金色の瞳だけが僅かに異質な光を帯びていた。
胸元には、アステリアの国章が刻まれている。
会ったことはない。
それでも、アステリアの人間だということだけは分かった。
男は廊下の中央で片膝をつく。
「お初に御目にかかります、陛下」
周囲にいた社員たちの動きが止まる。
「アステリア王国外務院次官、アルノルト・ヴァイスにございます」
「立ってくれ。ここは会社だ」
「御意」
アルノルトが立ち上がる。
その背後には、日本人に見える男女が四人並んでいた。
だが、よく見ると耳の形や瞳の色が僅かに違う。
外見を地球人に近づけているらしい。
「許可なく地球へ来た件は、あとで聞く」
「我々は世界間転移門を通過しておりません」
「どういうことだ」
「こちらは投影体でございます」
アルノルトは胸へ手を当てた。
「本体は現在もアステリアにおりますので、陛下の御命令には背いておりません」
命令違反ではない。
確かに俺が禁止したのは、許可なく現実世界へ渡ることだ。
投影体までは想定していなかった。
抜け道を見つけることだけは早い。
「アルノルト」
「はい」
「あとでセレフィナも交えて話をしよう」
「承知いたしました」
返事は素直だった。
反省している様子はない。
社長室の扉が開く。
秘書に案内され、中へ入った。
広い部屋だった。
大きな机。
窓際に並ぶ観葉植物。
壁に掛けられた会社創業時の写真。
入社して七年になるが、ここへ入るのは初めてだった。
部屋には、既に十人以上が集まっていた。
代表取締役の大崎社長。
専務。
人事部長。
法務部長。
俺の部署の部長。
直属の上司。
顧問弁護士らしき人物もいる。
全員が、入ってきた俺を見た。
「如月君」
大崎社長が立ち上がった。
六十歳近い男性だ。
社内行事で話を聞いたことはある。
直接名前を呼ばれたのは初めてだった。
「朝早くから悪かったね」
「いえ」
「ひとまず座ってくれ」
長いテーブルの中央に席が用意されていた。
普段なら、社長か取引先の重役が座る位置だ。
断るのも不自然なので座る。
俺の右側へ外務省の二人。
左側へアルノルトたちが並んだ。
会社側の人間が、その向かいに座る。
入社面接より緊張する。
大崎社長は、テーブルに置かれた書類へ視線を落とした。
「昨夜、こちらの方々から正式な文書を受け取った」
書類の表紙には、アステリアの国章が刻まれている。
赤い紙。
金色の文字。
明らかに、会社へ提出する書類の見た目ではなかった。
「内容は、如月君の雇用状態についての照会だ」
「すみません」
「君が謝る必要があるのか、こちらにも分からない」
社長は困ったように笑った。
「正直に言えば、今も状況を理解できていない」
「自分もです」
これは本当だった。
俺自身、昨夜までアステリアが実在するとは知らなかった。
大崎社長がアルノルトを見る。
「改めて確認します。皆さんは、如月君を国家元首だと主張されている」
「主張ではございません」
アルノルトは静かに答えた。
「陛下は、我が国を建国された唯一の君主でございます」
「しかし、如月君は当社に七年間勤務している一般社員です」
「存じております」
「本人も、その立場を受け入れている」
「その点を確認するため、参上いたしました」
アルノルトが一枚の書類を取り出す。
「陛下が自ら望んで就労しておられるのであれば、我が国が介入する理由はございません」
思っていたより話が通じる。
少しだけ安心した。
「ただし」
アルノルトが続ける。
「御身分を知らぬまま、不当な待遇を受けておられるのであれば、我が国として看過できません」
やはり簡単には終わらなかった。
人事部長が別の書類を開く。
「如月君の待遇については、当社規定に従っております。基本給、賞与、勤務時間、社会保険。いずれも同職種の社員と同等です」
アルノルトは淡々と確認する。
「同等とは、何と同じなのでしょうか」
「同じ職位、同じ勤続年数の社員です」
「国家元首と同じ職位の方が、他にも在籍しておられるのですか」
「そういう意味ではありません」
人事部長の表情が引きつる。
会話が噛み合っていない。
「俺は国家元首として入社したわけじゃない」
俺が口を挟む。
「普通に求人を見て応募した。履歴書を書いて、面接を受けて、採用された。それだけだ」
アルノルトが俺を見る。
「陛下御自ら、雇用を望まれたと」
「ああ」
「脅迫や拘束は」
「ない」
「退職の自由はございますか」
「ある」
「賃金の支払いは滞っておりませんか」
「ない」
「休息は十分に与えられておりますか」
答えようとして、少し止まった。
昨日の帰宅が遅くなったのは、後輩の愚痴を聞いていたからだ。
会社から強制されたわけではない。
残業も多くない。
「普通だ」
アルノルトが僅かに眉を寄せる。
「普通という表現では、判断ができません」
「定時は九時から十八時。残業は月に十時間もない。休日もある。有給も取れる」
会社側の空気が少し和らいだ。
少なくとも、違法な労働環境ではないと俺自身が説明した。
アルノルトは手元の紙へ何かを書き込む。
「承知いたしました。現時点では、陛下の御意思に反する雇用ではないものと判断いたします」
人事部長が安堵の息を吐く。
「では、返還要求というのは」
「撤回いたします」
「返還要求を出していたのか」
俺は初めて聞いた。
アルノルトは当然のように頷く。
「陛下が不当に拘束されている可能性を考慮し、御身柄の即時返還を求めておりました」
「俺は会社の備品じゃない」
「承知しております。ゆえに、御身柄という表現を使用しております」
「そこじゃない」
話しているうちに、頭が痛くなってきた。
大崎社長は咳払いを一つした。
「返還要求が撤回されるのであれば、ひとまず安心しました」
「ただし、今後の勤務について協議が必要です」
アルノルトの言葉に、会社側の空気が再び硬くなる。
「陛下は現在、我が国の統治へ復帰されております」
「復帰したつもりは」
否定しかけて、指輪の表示を思い出す。
領主権限。
旧統治室。
施設停止。
避難命令。
既に十分、統治へ関わっていた。
「……少しだけ手伝っている」
「現在、国家存亡に関わる危機への対応を指揮されております」
会社側の全員が俺を見る。
説明していなかった。
大崎社長が慎重に尋ねる。
「国家存亡の危機、というのは」
「向こうの世界にある防衛設備が、二日以内に止まります」
「止まると?」
「最悪の場合、三億人以上が危険になる」
部屋が静まり返った。
規模が大きすぎて、すぐには理解できないのだろう。
俺もまだ実感できていない。
指輪の上では、残り時間が今も減り続けている。
《王都防衛結界の残存時間――四十時間二十九分》
「ですので」
アルノルトが会社側へ向き直る。
「陛下を通常勤務へ拘束することは、我が国民の生命を危険に晒す行為となります」
「拘束はしていません」
法務部長が答える。
「休暇を取得することは可能です」
「有給休暇と呼ばれる制度でしょうか」
「そうです」
「残日数は?」
人事部長が資料を確認する。
「如月君は、二十七日残っています」
思っていたより残っていた。
大きな病気もしない。
旅行にもほとんど行かない。
必要な時に数日使う程度だった。
「では、その二十七日を直ちに使用させていただきます」
「勝手に決めるな」
俺が止める。
「しかし陛下」
「会社と相談する」
俺は大崎社長を見る。
「急で申し訳ないんですが、しばらく休ませてもらえませんか」
社長はすぐには答えなかった。
専務、人事部長、法務部長へ視線を向ける。
小声で短い相談が行われる。
「会社としては問題ない」
大崎社長が答えた。
「有給の扱いで、まずは一週間休んでくれ」
「一週間?」
「君が通常勤務できる状況ではないことは、こちらも理解した。引き継ぎだけ、今日中に簡単に済ませてほしい」
「ありがとうございます」
「ただし、会社としても確認したいことがある」
「何でしょうか」
「この件で、当社が何らかの危険に巻き込まれる可能性はあるのか」
当然の質問だった。
大裂界が地球へ影響するのか。
転移門を通じて侵蝕体が来るのか。
俺にも分からない。
「今のところ、分かりません」
「分からない?」
「だから調べています。危険があると分かったら、すぐに伝えます」
大崎社長は不安そうだった。
それでも、俺の言葉を疑うようなことはしなかった。
「分かった。会社として協力できることがあれば言ってくれ」
思いがけない返事だった。
「信じるんですか」
「昨夜、突然この方々が現れた」
社長がアルノルトたちを見る。
「警備会社の確認では、建物へ入った記録がない。それなのに、気づいた時には受付に立っていた」
投影体だからだろう。
「持参された金属も、社内にある機器では成分を測定できなかった。外務省からも連絡が来た。ここまで揃っていて、悪戯だと決めつける方が難しい」
大崎社長は少し疲れた顔で椅子へ座り直す。
「それに、如月君が会社を困らせるために、こんな大がかりなことをする人間ではないことくらいは、上司から聞いている」
直属の上司と目が合った。
上司は困ったように笑う。
「仕事は真面目ですから」
大きな評価ではない。
けれど、今はそれがありがたかった。
「それでは」
アルノルトが口を開く。
「陛下の一週間の休暇と、今後の勤務についての協議継続で合意ということでよろしいでしょうか」
「そこまで大げさな話じゃない」
「国家間の協議記録が必要です」
「会社と俺の話だ」
「陛下は私人であると同時に、我が国の国家元首でもあられます」
まだその認識を受け入れられない。
けれど、今すぐ議論している時間もない。
「記録を残すだけなら、好きにしてくれ」
アルノルトが一枚の書類を会社側へ差し出す。
大崎社長は目を通したあと、顧問弁護士へ渡した。
「内容を確認してからでいいですか」
「もちろんでございます」
話は一応まとまった。
俺は今日中に引き継ぎを済ませ、一週間休む。
その間にアステリアの問題を解決する。
解決できればいい。
残り四十時間。
一週間どころか、二日後に何が残っているかも分からない。
「それでは、次の議題へ移ります」
アルノルトが別の書類を取り出した。
「まだあるのか」
「陛下の役職についてです」
「役職?」
「御社内における待遇は、陛下御本人が望まれたものと確認できました。しかし、国家元首が一社員として勤務を続ける場合、外交上の扱いに問題がございます」
「問題って何だ」
「陛下に指示を出す権限を、誰が有しているか明確ではありません」
全員の視線が、直属の上司へ集まった。
上司の顔が青くなる。
「自分ですか?」
「現在、陛下へ業務命令を出しているのは、あなたでしょうか」
「業務上は、まあ」
アルノルトが上司をまっすぐ見る。
「我が国の建国王へ命令を下す権限を有する者として、正式に登録させていただきます」
「やめてくれ」
上司が即答した。
「ただ仕事を振っているだけです。国家元首に命令しているつもりはありません」
「しかし、実態としては」
「アルノルト」
俺が止める。
「会社の中では、俺は社員だ。上司の指示を受ける。それでいい」
「陛下が望まれるのであれば従います。ただし、上司殿の安全を確保する必要がございます」
「何で安全が関係するんだ」
「国民の一部が、陛下へ命令を下す人物の存在を快く思わない可能性がございます」
直属の上司が完全に黙った。
考えてみれば、三億人の大半が俺を迎えたがっている国だ。
その中には、俺が普通の会社員として働いていることを侮辱だと考える者もいるかもしれない。
「上司へ危害を加えるのは絶対に禁止だ」
「承知いたしました」
「会社の人間全員に対してもだ」
「御意」
「嫌がらせも駄目だ」
「どこからが嫌がらせに該当するか、基準をご提示ください」
「常識で判断してくれ」
言ってから気づいた。
彼らの常識と、地球の常識が違うから問題になっている。
「……あとで一覧にする」
「かしこまりました」
本当に作ることになりそうだった。
社長室の扉がノックされる。
秘書が入ってきた。
「社長。中央住宅管理の方がお見えです」
「管理会社?」
俺が立ち上がる。
秘書は俺を見て、続けた。
「如月様がお住まいのマンションの件です」
嫌な予感がした。
「所有者の方も一緒です。それと、購入希望者を名乗る方々も」
大崎社長が俺を見る。
「ここで会う予定なのかね」
「知りません」
アルノルトへ視線を向ける。
彼は静かに頭を下げた。
「住居担当の使節団でございます」
「会社に呼ぶなよ」
「陛下の移動時間を省くため、先方へ集合をお願いしました」
効率だけはいい。
効率だけは。
秘書が更に言いにくそうに続ける。
「購入希望額が百八十億円と聞いて、所有者の方が今すぐ契約したいと」
「止めてください」
「既に契約書を持参されています」
「止めて」
「購入希望者の方は、現金に相当する金塊もお持ちです」
「持ってくるな!」
思わず立ち上がった。
その瞬間、ポケットの指輪が強く光る。
《緊急通信》
《宰相セレフィナ・アルシェリア》
すぐに接続する。
指輪の上へ、セレフィナの姿が浮かび上がった。
その表情は、昨夜よりも硬い。
『陛下。御報告がございます』
「今度は何だ」
『王都防衛結界への侵蝕が、再び加速しております』
周囲の空気が変わった。
『残存時間が急激に減少しています』
「今、何時間だ」
セレフィナが答える前に、指輪の表示が切り替わった。
《王都防衛結界の残存時間――十一時間五十九分》
四十時間以上あったはずの時間が。
会社で話している間に、十二時間を切っていた。
『大裂界の向こう側から、新たな侵蝕体が出現しました』
指輪に映る映像が切り替わる。
夜空を覆う黒い亀裂。
その中から、巨大な腕が伸びている。
指の一本だけで、王都の城壁より大きい。
半透明の結界へ触れた場所から、黒い亀裂が広がっていた。
『ノアの分析によれば、対象は陛下を探しております』
「俺を?」
『はい』
巨大な腕が、王都の上空をゆっくり動く。
何かを探るように。
『陛下がアステリアへお戻りにならなければ、結界は正午まで持ちません』
時計を見る。
午前九時十八分。
残り三時間もなかった。
引き継ぎ。
会社との話し合い。
マンションの売買。
政府との外交。
全部、後回しにするしかない。
「社長」
「何だね」
「すみません。今すぐ戻ります」
何が起きているのか、詳しく説明する余裕はなかった。
それでも大崎社長は、俺の表情を見て頷いた。
「行ってきなさい」
「ありがとうございます」
俺は社長室の扉へ向かう。
アルノルトたちが続こうとした。
「お前たちは残れ」
「しかし、陛下」
「会社と大家と政府の話を、これ以上勝手に進めないよう調整してくれ」
「御意」
「百八十億の契約も止めろ」
「陛下がお戻りになるまで保留といたします」
「中止だ」
「保留といたします」
「中止」
「所有者側の御意向もございますので」
話している時間がない。
俺はエレベーターへ走った。
普通の会社員として出勤してから、一時間も経っていない。
その間に、一週間の休暇が決まり。
国家間協議が始まり。
自宅のマンションが百八十億円で売却されかけ。
異世界では、三億人を守る結界が正午までに崩れようとしている。
エレベーターの扉が閉まる直前。
アルノルトが深く頭を下げた。
「現実世界の問題は、我々にお任せください」
その言葉ほど、信用できないものはなかった。
けれど今は、任せるしかない。
俺は指輪へ触れる。
《領主転移を実行しますか》
初めて見る新しい選択肢が浮かんでいた。
《転移先――旧統治室》
エレベーターの中には、俺一人。
今なら誰にも見られない。
実行を選択する。
足元に赤い光が広がった。
次の瞬間。
俺の姿は、会社のエレベーターから消えた。
誰も乗っていない箱だけが、一階へ向かって降りていく。
そして地球側では。
国家元首が勤務中に忽然と消えたという、新しい問題が一つ増えた。




