第3話 七十二時間後の王都
書き直し消去予定
《王都防衛結界の残存時間――七十二時間》
指輪の上に浮かぶ赤い文字は、何度見ても変わらなかった。
七十二時間。
三日後。
王都を守っている何かが失われる。
「ノア。本当に、この文字は見えていないのか」
「はい」
ノアは俺の手元を覗き込み、魔導眼鏡を一枚ずつ切り替えていた。
紫、青、赤。
眼鏡の色が変わるたびに、薄い光が指輪の表面を走る。
「指輪から強い魔力反応は確認できます。しかし、陛下が見ておられる文字までは」
「リゼルたちも?」
リゼルとセレフィナも首を横へ振った。
三人に見えているのは、赤く光る指輪だけらしい。
俺は表示へ意識を向けた。
ゲーム時代なら、マウスで文字を選択していた。
今は画面もない。
試しに指で《緊急統治案件》の文字へ触れる。
指先は何の感触もなく、赤い文字を通り抜けた。
直後、表示が切り替わる。
《緊急統治案件詳細》
《対象――アステリア王都中央防衛結界》
《中枢魔力残量――一二・七パーセント》
《現在消費量を維持した場合、七十一時間五十二分後に機能停止》
《機能停止後の王都生存予測――算出不能》
残り時間が八分減っている。
数字は今も動き続けていた。
「王都の防衛結界に異常があるらしい。中枢の魔力残量が十二・七パーセントしかない」
三人の反応は明らかだった。
リゼルが息を止め、ノアの杖を握る手に力が入る。
セレフィナだけは表情を変えなかったが、僅かに視線を伏せた。
「知っていたんだな」
「申し訳ございません」
最初に頭を下げたのは、セレフィナだった。
「なぜ隠した」
「隠す意図はございませんでした。ただ、陛下をお迎えした直後に申し上げるべきことではないと判断いたしました」
「三日後に王都の結界が消えるのに?」
「正確には、三日を待たず消失する可能性もございます」
「余計に悪いだろ」
思わず声が大きくなった。
門の向こうにいる者たちが僅かにざわめいたが、すぐに静まる。
俺は指輪へ視線を戻した。
生存予測は算出不能。
ゲームなら、単に防御力が下がる程度だったかもしれない。
だが、彼らの世界は今も続いている。
結界の中には人がいる。
「結界が消えたら、何が起きる」
セレフィナは少しだけ迷った。
その沈黙が、答えを聞く前から状況の深刻さを伝えていた。
「王都上空に存在する大裂界が開きます」
「大裂界?」
「空に生じた、世界の傷でございます」
ゲーム時代には聞いたことのない言葉だった。
アステリアの周辺に、空間を移動する魔物はいた。
転移魔法も、異空間のダンジョンも存在した。
だが、世界の傷などという設定は知らない。
「陛下がお姿を消されてから、百八十二年後。王都上空に黒い亀裂が発生いたしました」
セレフィナの説明によれば、その亀裂は日に日に広がった。
最初は空を走る細い線だった。
やがて亀裂の向こうから、見たことのない魔物が現れるようになった。
剣も魔法も通りにくい。
倒しても死体が残らず、黒い煙となって亀裂へ戻っていく。
アステリアは周辺国と協力し、何年もかけて侵入を食い止めた。
その際に作られたものが、現在の王都防衛結界だった。
「王都だけを守っているのか」
「いいえ」
ノアが空中に光の板を浮かべた。
板の上に、大きな円と細い線が描かれる。
「王都中央結界は、大陸東部に配置された八千四百十二基の防衛塔を統括しています」
「八千?」
「一基でも機能している限り、近隣都市へ避難領域を形成できます。しかし中央結界が停止すれば、全塔の連携が解除されます」
光の板に描かれた円が消える。
続いて、無数の黒い点が大陸へ降り注いだ。
「大裂界から出現する侵蝕体を防げなくなります」
「侵蝕体が、さっき言っていた魔物か」
「魔物と呼んでよいのかも分かっておりません」
ノアは淡々と話している。
だが、杖を握る指が僅かに震えていた。
「奴らは生物、魔力、土地を問わず接触したものを侵蝕します。人間が触れられれば、数分で同種の存在へ変化します」
「それを、王都の結界で止めている?」
「はい」
「じゃあ、結界が止まったら王都だけじゃ済まないだろ」
ノアは頷いた。
王都には現在、四百万人以上が暮らしている。
周辺都市まで含めれば、避難が必要な人口は二千万人を超える。
中央結界が失われれば、大裂界の侵蝕体は大陸全土へ広がる。
最悪の場合、アステリアだけではなく、世界そのものが失われる可能性があった。
「そんな状況で、よく一万二千人もここへ集めたな」
俺の言葉に、リゼルが片膝をついた。
「責は、先遣隊の指揮を執った私にございます」
「誰の責任かを聞いてるんじゃない」
「陛下を発見できれば、すべてを覆せると判断いたしました」
「俺を?」
「はい」
リゼルの答えには迷いがなかった。
大陸最大の国家。
三億人を超える国民。
三百年を生きた騎士や宰相。
ゲーム時代には存在しなかった魔法や技術。
それだけのものを持ちながら、彼らは俺一人を迎えるために、一万二千人もの人員を集めた。
まるで、俺が戻ればすべて解決すると思っている。
「俺は、ただの会社員だ」
三人とも何も言わない。
「ゲームの中では、資源量や建物の状態を画面で確認できた。命令もボタン一つだった。でも今の俺は、剣も使えない。魔法も使えない。そっちの世界がどう変わったのかも知らない」
「陛下」
「期待されても、できないものはできない」
自分で言っていて、情けなくなった。
七年前なら。
ゲームの画面があった頃なら、少しは違った。
国庫を確認し、発電施設に相当する魔導炉を増設する。
必要な素材が足りなければ、交易所で購入する。
防衛結界に異常があるなら、修理命令を出す。
だが、今のアステリアはゲームではない。
誰かの命が、数字の向こう側にある。
失敗しても、セーブデータからやり直すことはできない。
「それでも」
セレフィナが静かに口を開いた。
「我々には、陛下が必要でございます」
「俺に何ができる」
「我々が見失ったものを、お決めいただけます」
「見失ったもの?」
「何を守り、何を捨てるべきかでございます」
セレフィナは俺の指輪へ視線を向けた。
「結界を維持する方法はございます」
「あるのか?」
「はい。ただし、そのためには多くを失います」
セレフィナがノアへ目を向ける。
ノアは空中の板を操作し、新たな図を表示した。
大陸全体へ広がる細い光の線。
その中心に王都がある。
「中央結界へ魔力を集中すれば、停止を回避できます」
「どこから持ってくる」
「国内の転移門、医療院、浄水施設、農業用魔導炉、都市防衛設備です」
つまり、国中の生活を支えている力を止めれば、王都の結界は守れる。
反対に、生活を維持すれば結界が消える。
「どれくらい止める必要がある」
「全設備の七割を停止した場合、中央結界を約一年間維持できます」
「七割……」
一年の猶予を得る代わりに、国中の設備が止まる。
魔法で水を供給している都市では、すぐに水不足が始まる。
医療院で治癒術を受けている患者にも影響が出る。
農業用の設備が止まれば、次の収穫量が落ちる。
三億人の生活を支える国家で、七割もの設備を停止する。
それで何人が死ぬのか。
考えたくもなかった。
「他の方法は?」
「大裂界そのものを閉じることです」
「できるのか」
ノアは答えなかった。
「試したんだな」
「四十七回」
短い答えだった。
「成功は?」
「ございません」
四十七回。
その一言の裏に、どれだけの犠牲があったのか。
聞かなくても、ノアの表情で分かった。
「門を開くために、結界の魔力を使ったのか」
三人が黙る。
その反応だけで十分だった。
「どれくらい使った」
「中央結界の総魔力量、その約三割です」
目の前が暗くなった。
王都を守るための魔力。
三億人が暮らす国の命綱。
その三割を、俺を探すために使った。
「何を考えてるんだ」
「陛下の帰還が、アステリア存続の唯一の道であると判断いたしました」
リゼルの声には、後悔がなかった。
「三日後に結界が消える状態にしてまで?」
「陛下をお迎えできなければ、いずれ結界は失われておりました」
「だからって」
「我々だけでは、何を犠牲にすべきか決められなかったのです」
セレフィナの言葉が、俺を止めた。
「大裂界を閉じる研究を続けるべきか。国民の生活を切り捨て、結界を維持するべきか。王都を放棄し、大陸全土へ民を分散させるべきか」
どの選択をしても、誰かが死ぬ。
三百年間、国を守り続けた彼女たちは、ついに選べなくなった。
だから、消えた領主を探した。
「俺に、誰を犠牲にするか決めろというのか」
「いいえ」
セレフィナは首を横へ振った。
「誰も犠牲にしない道を、陛下ならば探されると信じております」
「買いかぶりすぎだ」
「陛下は十五年前、住民二十人の砦を捨てませんでした」
ゲームだったからだ。
失敗してもやり直せた。
敵に攻め込まれて全滅しても、一定時間が経てばNPCは復活した。
今とは違う。
そう言い返そうとした。
だが、指輪の上に新たな表示が浮かんだ。
《統治補助機能を起動しますか》
《実行可能機能》
《国土情報閲覧》
《資源配分変更》
《国家施設遠隔操作》
《臣民状態確認》
《領主転移》
俺は文字を見つめた。
ゲーム時代に使っていた管理画面と似ている。
ただし、項目が増えていた。
領主転移。
その文字だけが、赤く明滅している。
「ノア。俺がそっちへ行くことはできるか」
三人の表情が一斉に変わった。
「お待ちください」
最初に止めたのはリゼルだった。
「現在、王都は安全とは言えません」
「結界が消えかけているなら、ここにいても何も分からない」
「必要な情報は、我々がこちらへ持ち込みます」
「三日しかないんだろ」
いや。
正確には、もう七十一時間を切っている。
資料を運ばせ、説明を聞き、判断する。
そんな余裕があるとは思えない。
「俺が王都へ行けば、この指輪で施設を操作できるかもしれない」
「可能性はございます」
ノアは止めなかった。
魔導眼鏡の奥から、俺の指輪をじっと見ている。
「陛下の領主権限は、我々が現在使用している統治術式よりも上位に存在しているようです」
「それなら、現地で確認した方が早い」
「しかし」
リゼルは納得していない。
俺は彼女の右腕を見た。
先ほどまで深い傷があった場所。
「怪我をしてまで迎えに来たのは、俺に何かしてほしかったからだろ」
「それは」
「王として何ができるかは分からない。でも、何もしないまま三日後を待つつもりはない」
言い切ったあとで、自分が明日も仕事だということを思い出した。
時刻は、既に午前二時近い。
今から異世界へ行って、朝までに戻れるのか。
そもそも、向こうとこちらの時間は同じ速度で流れているのか。
「確認しておきたい。こちらの一時間は、そっちではどれくらいだ」
「門が接続された現在は、ほぼ同一でございます」
セレフィナが答える。
「接続前は大きな差がございましたが、門の固定と同時に時間流も同期しております」
少なくとも、数分滞在しただけで何年も経つ心配はないらしい。
「一度、王都の状況を見る。長くは滞在しない」
「陛下」
「リゼルも来てくれ。護衛が必要なんだろ」
そう言うと、リゼルは言葉を失った。
やがて胸へ右手を当て、深く頭を下げる。
「この命に代えましても」
「代えるな。それをさっき話したばかりだ」
「……御意」
リゼルが立ち上がる。
ノアは門の安定状態を確認し、セレフィナは向こう側の者たちへ指示を出し始めた。
声は小さく、俺には内容が聞き取れない。
ただ、門の向こうにいた文官たちが一斉に動き始めた。
「何をしている」
「陛下をお迎えする準備でございます」
「大げさなことはするなよ」
「承知しております」
セレフィナは穏やかに微笑んだ。
その笑顔を見て、なぜか不安になった。
俺はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイも外した。
異世界へ行く服装ではない気もしたが、他に適した服など持っていない。
念のためスマートフォンと財布をポケットへ入れる。
光の門へ近づくと、向こう側の景色がはっきり見えた。
白い石で作られた巨大な広間。
俺が知っている王城の転移室より、何倍も広い。
三百年の間に増築されたのだろう。
門の正面には、赤い絨毯がまっすぐ伸びている。
その両側に並んでいた一万二千人は、通路を空けたまま跪いていた。
「本当に、全員このままなのか」
「陛下が御命令を解かれるまで、誰一人動きません」
リゼルの答えに、俺は頭を抱えそうになった。
「さっきの、その場から動くなという命令は解除する。普通にしてくれ」
門の向こうから、安堵したような気配が伝わってくる。
それでも誰も立ち上がらない。
「立っていい」
ようやく、一万二千人が一斉に立ち上がった。
鎧や衣服が擦れる音が、巨大な波のように広間を満たす。
俺は門の前で足を止めた。
七年前。
画面が暗くなった瞬間、二度と戻れないと思った。
アステリアは消えた。
リゼルたちも消えた。
そう思い込み、少しずつ忘れようとしてきた。
その世界が、目の前にある。
「陛下」
リゼルが門の反対側へ立ち、こちらへ手を差し出していた。
三百年前。
サービス終了の瞬間。
俺とリゼルは、画面を挟んで互いに手を伸ばした。
あの時は届かなかった。
今は違う。
俺は彼女の手を取った。
硬い籠手越しに、確かな感触が伝わる。
一歩。
光の境界を越える。
空気が変わった。
石と土。
微かな花の香り。
遠くから聞こえる鐘の音。
ゲームのスピーカーでは再現できなかった、世界そのものの匂いと音。
足の裏に、王城の石床の硬さを感じる。
俺が完全に門を越えた瞬間。
一万二千人が、再び一斉に跪いた。
その奥。
転移室の巨大な扉がゆっくりと開いていく。
開いた扉の向こうには、夜の王都が広がっていた。
無数の建物。
空を走る魔導灯の光。
遥か遠くまで続く城壁。
俺の知っているアステリアとは、まるで違う。
十万人だった国は、三百年の間に巨大な都市へ変わっていた。
だが、誰も街を見ていなかった。
王都にいるすべての者が、空を見上げている。
俺もつられて顔を上げた。
夜空を覆う、半透明の巨大な結界。
その表面には、無数の亀裂が走っていた。
結界の更に向こう。
月の隣に、空を引き裂く黒い傷が浮かんでいる。
その亀裂の中で、何かが動いた。
巨大な目だった。
王都全体を見下ろせるほどの目が、裂けた空の向こう側から、ゆっくりこちらを向く。
指輪の表示が赤く染まった。
《外部侵蝕体が領主の帰還を確認》
《大裂界活動率上昇》
《王都防衛結界の残存時間を再計算》
七十一時間あった数字が、一瞬で書き換わる。
《残存時間――二十三時間五十九分》
俺が帰ってきたことで。
王都の滅亡は、三日後から明日へ早まった。




