第9話 最初の正式入国者は、三百年待っていた侍女だった
「日本側にも、同様の施設が必要になります」
水城さんの言葉に、俺は自分の部屋を見回した。
玄関から世界間転移門まで、数歩。
ベッド。
机。
冷蔵庫。
狭いキッチン。
ここへ入国審査。
税関。
検疫。
警備。
それぞれの担当者を置く場所などない。
「この部屋に作るのは無理です」
「我々も、そのように判断しています」
水城さんは、当然のように頷いた。
「では、どこへ?」
「管理会社と建物所有者へ確認したところ、一階に空室があるそうです」
管理会社の長谷川さんが、手元の資料を開く。
「以前は管理人室と倉庫として使用していた部屋です。現在は空室となっています」
「そこを買う話じゃないですよね」
「日本政府が、必要な期間のみ正式に賃借する方向で協議しています」
「住民を退去させたりは?」
「いたしません」
「建物全体を買収することも?」
「日本政府側から、そのような提案は行っていません」
思わず安心する。
政府側は。
アステリアと違い、まず既存の制度の中で解決しようとしてくれている。
「問題は」
水城さんが、壁際の赤い門を見る。
「転移門が如月さんの部屋にあることです」
一階に入国審査場を作っても。
異世界から来た者は、最初に俺の部屋へ出てくる。
そこから廊下を歩き。
階段かエレベーターを使い。
一階の検査場へ移動することになる。
その間は。
入国手続きを終えていない者が、普通のマンション内を歩くことになる。
「門を一階へ動かせないのか」
俺はノアへ尋ねた。
「できる」
「簡単に?」
「今の出口を完全に閉じて、新しく作り直すなら」
「危険は?」
「陛下が一階に長くいれば、そこを新しい帰還先として登録できるかもしれない」
「かもしれない?」
「最初に開いた門ほど、安定する保証はない」
今ある門は。
俺の魂が、自宅を安全な場所だと認識したことで開いた。
無理に別の場所へ移せば。
何が起きるか分からない。
「現在の門を残したまま、一階へ別の出口を作ることは?」
水城さんが尋ねる。
「分岐ならできる」
ノアが空中に図を表示する。
俺の部屋にある門。
そこから。
建物の一階へ細い線を伸ばす。
「地球とアステリアを直接繋ぐ門は、今の一つだけ」
「では、分岐とは」
「門を通った後、地球側へ出る場所を一階に変更する」
「私の部屋を通過せずに?」
「そう」
「建物を改装する必要は」
「ない」
ノアが即答した。
「地球側の壁も床も、何も変えない」
以前と同じ言い方だった。
嫌な予感がする。
「アステリア側に何か作る?」
「通路」
「どれくらいの?」
「二十メートルくらい」
「王宮を増築するのか」
「国境管理所から、地球側出口までの専用通路」
地球側へ新しい設備を作るのではなく。
アステリア側へ通路を作り。
出口だけを一階の空室へ接続する。
「出口を作る以上、一階の部屋にも何か変化が起きるのでは」
「壁に門が出る」
「それは、建物を変えたことにならない?」
「壁は壊さない」
「契約上の話です」
管理会社の長谷川さんが、難しい顔で資料を見る。
「異世界への出入口を設置する行為を、設備の新設と判断するべきか」
「設置ではない」
ノアが訂正する。
「空間座標を重ねるだけ」
「一般的には、それを設置と呼ぶと思います」
日本政府側。
管理会社。
建物所有者。
アステリア側。
全員で話し合った結果。
一階の空室へ、期限付きの試験出口を作ることになった。
条件も細かく決められた。
地球側の建物へ物理的な穴を開けない。
電気や配管を変更しない。
試験終了後は、完全に元の状態へ戻す。
出口を通れるのは、事前に許可された者と物だけ。
俺の部屋にある本来の門は、緊急時以外使用しない。
「全て守れるな」
俺はノアへ確認する。
「守れる」
「勝手に追加機能を付けない?」
「必要なら先に聞く」
「必要かどうかを、自分だけで決めない?」
「聞く」
「俺が寝てる時も?」
ノアは少し考えた。
「起きるまで待つ」
「よし」
三百年生きた魔導技師へ。
子供に言い聞かせるような確認をしている。
見た目は少女でも。
実際には、俺より遥かに長く生きているはずなのだが。
◇
一階の空室は。
俺の部屋より少しだけ広かった。
小さな事務室。
倉庫。
洗面所。
以前は、住み込みの管理人が使っていたらしい。
日本政府は、そこへ仮設の設備を運び込んだ。
折り畳み机。
パソコン。
検査機器。
荷物を確認するための台。
透明な仕切り。
床には、黄色いテープが貼られる。
《入国前待機位置》
《検査終了者出口》
アステリア側に作られた巨大な国境管理所と比べれば。
驚くほど簡素だった。
向こうは国際空港。
こちらは、小さな町内会の受付に見える。
「地球側は、これだけ?」
ノアが部屋を見回す。
「最初はな」
「狭い」
「試験用だから」
「一日に何人通せる?」
「しばらくは、一人ずつ」
「一人」
ノアが信じられないものを見るような顔になる。
アステリア側では。
将来的に一日数万人を処理できる設計になっているらしい。
「安全が確認できるまでは、これで十分です」
水城さんが答える。
「問題が起きれば、すぐに中止します」
「地球は慎重」
「アステリアが早すぎるんだ」
「必要なものを、必要な時に作ってるだけ」
「その必要性を、全員で確認する時間がいるんだよ」
ノアは、まだ完全には納得していない。
それでも。
勝手に設備を増やそうとはしなかった。
部屋の奥。
何もなかった壁に。
小さな銀色の枠が置かれる。
物理的に固定されてはいない。
床へも壁へも、接触していない。
空中へ浮かんでいる。
「これが出口?」
「枠は位置を分かりやすくするため」
「枠がなくても開くのか」
「開く」
「なら、どうして作った」
「人が壁へぶつかるから」
必要なものだった。
ノアが銀色の枠へ触れる。
「陛下」
「何をすればいい」
「出口の使用を認めて」
「試験目的だけ。政府と管理会社が許可した時間だけ。登録した人と物だけ」
「細かい」
「必要だろ」
「必要」
ノアが頷く。
俺は、銀色の枠へ手を触れた。
「この条件で使用を許可する」
《建国王権限による地球側分岐出口の形成を確認》
《設置位置――日本国・仮設世界間通行検査室》
《利用目的――両世界間の安全確認》
《人員通行――個別許可制》
《物資通行――個別許可制》
《常時閉鎖》
《許可時のみ開放》
銀色の枠の内側へ。
赤い線が現れる。
線が縦へ広がる。
向こう側に。
アステリア王城の国境管理所が見えた。
「成功」
ノアが答える。
俺の部屋にある門と違い。
普段は閉じたまま。
許可した時だけ開く。
日本政府が求めていた、管理可能な出入口だった。
「如月さん」
管理会社の長谷川さんが、部屋の壁を確認する。
「壁に損傷はありません」
「良かった」
「ただ」
「何ですか」
「この部屋の用途を、賃貸借契約へどう記載するべきか」
長谷川さんが。
試験出口と、契約書を交互に見る。
「国際通行施設」
水城さんが答える。
「相手は異世界です」
「では、世界間通行施設?」
「その表記が近いでしょう」
俺が住んでいるマンションの一階。
元管理人室は。
正式に。
《仮設世界間通行検査室》
として賃貸契約が結ばれた。
昨日まで。
ただの空室だった場所だ。
◇
設備が整ったあと。
人員通行試験を始めることになった。
水城さんは。
既にアステリア側へ一度入っている。
今度は。
アステリア側の住民を、正式な手続きで日本へ迎える。
「最初の通行者は、誰にするんですか」
俺はセレフィナへ尋ねた。
「候補者を選定しております」
空中に、何十人もの名前が表示される。
外務官。
治癒師。
研究者。
文官。
料理人。
警備担当者。
「多すぎない?」
「最初の地球訪問者となる、名誉ある役目ですので」
「安全確認のための試験だぞ」
「ゆえに、信頼できる者を選ばなければなりません」
候補者の数は。
絞り込んだ結果、六百二十一名。
その外側には。
自薦と推薦を合わせて、二百万人以上がいるらしい。
「条件を決めよう」
水城さんが言う。
「武器を持たない方」
「はい」
「危険性の高い魔法を使用しない方」
「はい」
「地球側の指示へ従える方」
「はい」
「通行試験終了後、速やかに帰国できる方」
セレフィナが少しだけ迷う。
「陛下の御側へ残ることを希望しない者を探すのは、困難かと」
「そこは必須です」
最初の正式な入国者が。
帰りたくないと座り込めば。
制度そのものが始められない。
「それと」
俺も条件を追加する。
「俺が知っている人がいい」
何か問題が起きた時。
全く知らない相手より、話をしやすい。
「承知いたしました」
候補者が。
六百二十一人から、二十三人へ減る。
見覚えのある名前が並んだ。
ゲーム時代に。
何度も会話した者たち。
その中に。
一人だけ。
懐かしい名前があった。
「ミーナ」
俺が呟く。
表示が拡大される。
《ミーナ・フェル》
《種族――猫人族》
《役職――王宮生活管理院総監》
《武器――なし》
《危険魔法――なし》
《地球側言語――習得済み》
《帰国命令への服従――誓約済み》
「生活管理院?」
「王城全体の居住環境、食事、清掃、衣服、調度品を統括する機関です」
セレフィナが説明する。
「ミーナが作ったのか」
「はい」
ゲーム時代。
ミーナは。
王城で働く獣人の侍女だった。
明るく。
少し慌て者で。
俺の部屋を掃除し。
装備を整理し。
イベントのたびに食事を運んでくれた。
NPCとしては。
特別強いわけでも。
国家運営に大きく関わるわけでもなかった。
それでも。
俺にとっては。
王城へ帰るたびに出迎えてくれる、大切な仲間の一人だった。
「今は、王宮全体を管理してるのか」
「三百年間、陛下の御帰還に備え、王城の居住環境を維持してまいりました」
「俺の部屋も?」
「毎日、清掃されております」
三百年間。
主の戻らない部屋を。
毎日。
「ミーナを候補に」
俺が言うと。
セレフィナが頷く。
「本人へ確認いたします」
通信が繋がる。
画面へ。
一人の女性が映った。
茶色い髪。
頭の上にある猫の耳。
背後で揺れる長い尻尾。
白と黒を基調にした、侍女服。
俺が知っている姿より。
少しだけ落ち着いた雰囲気になっている。
「ミーナ」
俺が名前を呼ぶ。
彼女の耳が。
大きく震えた。
「陛下」
画面の向こうで。
ミーナが両手を口元へ当てる。
その目から。
一瞬で涙が溢れた。
「本当に」
声が震えている。
「本当に、陛下なのですね」
「ああ」
「御声が」
ミーナは。
その場へ膝をついた。
「もう一度、御声を聞くことができるなんて」
ゲーム時代。
音声は。
決められた台詞しかなかった。
俺がキーボードで送った文章を。
彼女たちが、どう受け取っていたのか。
今まで考えたこともなかった。
「地球側へ来られるか」
「はい!」
即答だった。
だが。
その直後。
ミーナは、自分を落ち着かせるように深呼吸する。
「正式な通行手続きへ従います」
王宮生活管理院総監。
三百年という時間は。
彼女を。
立派な責任者へ変えていた。
「試験が終わったら、一度帰国すること」
「承知しております」
「地球側で、勝手に何かしない」
「はい」
「俺の部屋も、許可なく掃除しない」
ミーナの表情が止まる。
「陛下のお部屋を」
「勝手には、だぞ」
「事前に御許可を得れば?」
「必要な時は頼む」
「承知いたしました」
返事はした。
だが。
猫の耳が。
明らかに下がっていた。
◇
ミーナの通行手続きが始まった。
アステリア王国世界間旅券。
深い青色の冊子。
顔写真。
名前。
年齢。
種族。
役職。
生命情報。
魔力紋。
魂紋。
地球側の担当者たちが。
一つずつ確認していく。
「年齢は」
日本側の職員が尋ねる。
「三百二十八歳です」
ミーナが答える。
職員の手が止まる。
「三百二十八」
「猫人族としては、長寿でございます」
「長寿という範囲でよろしいのでしょうか」
「王立治癒院の定期管理を受けておりますので」
日本側の書類には。
《年齢――三百二十八歳》
と、そのまま記載された。
「持ち物を確認します」
「お願いいたします」
ミーナが。
小さな鞄を検査台へ置く。
見た目は。
一般的な手提げ鞄ほどの大きさだ。
中身が、一つずつ並べられる。
櫛。
裁縫道具。
小さな布。
筆記具。
手袋。
簡単な救急用品。
折り畳んだエプロン。
地球側の通貨は持っていない。
武器もない。
「問題ありません」
検査担当者が答える。
俺は少し安心した。
「こちらの箱は?」
鞄の一番奥。
小さな銀色の箱が残っている。
「陛下の御衣服を緊急補修するための道具です」
「開けてください」
「はい」
中には。
色の違う糸。
針。
小さな金具。
布片。
服を直すための道具だけ。
「危険物ではありません」
「では、通行を許可します」
水城さんが。
日本政府側の正式な確認を行う。
最後に。
俺が通行を認める。
《通行者――ミーナ・フェル》
《目的――人員通行試験、および建国王への短時間面会》
《滞在時間――六十分》
《滞在可能範囲――仮設通行検査室、建物共用部、如月蓮居室》
《物品持出し――申告済み所持品のみ》
《帰国時刻――日本時間午後三時》
「六十分だけだからな」
「承知しております」
ミーナが。
赤い門の前へ立つ。
一度。
服装を整える。
涙を拭く。
背筋を伸ばす。
そして。
世界境界線を越えた。
◇
銀色の枠の中から。
ミーナが現れた。
最初に。
地球側の床へ両足を着く。
少しだけ身体が揺れた。
黒田医師が、すぐに近づく。
「気分は悪くありませんか」
「問題ございません」
「呼吸は」
「正常です」
検査機器。
体温。
心拍。
血圧。
魔力反応。
身体表面の付着物。
一つずつ確認する。
「異常なし」
最初の正式な入国者。
アステリア王国民、ミーナ・フェル。
日本への入国が認められた。
「ミーナ」
俺が呼ぶ。
彼女が。
ゆっくり顔を上げる。
俺と視線が重なる。
「陛下」
次の瞬間。
ミーナは。
規則通り。
駆け寄ることも。
俺へ抱きつくこともせず。
その場で深く頭を下げた。
「三百二年」
猫の耳が震えている。
「御帰還を、お待ち申し上げておりました」
「待たせたな」
「いいえ」
ミーナが。
涙を流しながら笑う。
「お帰りくださいました」
その一言が。
胸に重く落ちた。
俺にとっては。
ゲームをやめてから七年。
ミーナにとっては。
三百二年。
俺が戻る保証など。
どこにもなかった。
「顔を上げてくれ」
「はい」
「元気そうで良かった」
「陛下も」
ミーナは。
俺の顔を見る。
少しずつ。
視線が下がる。
髪。
目元。
首。
シャツ。
袖。
ズボン。
靴。
表情が。
少しずつ変わっていく。
「どうした」
「陛下」
「何」
「こちらの御衣服は、いつからお召しでしょうか」
「シャツ?」
「はい」
「二年くらい前に買ったかな」
ミーナが。
俺の袖口を見る。
糸が。
僅かにほつれている。
「二年間」
「毎日着てるわけじゃない」
「補修担当者は」
「いない」
「洗濯は」
「自分で」
「食事も」
「自分で」
「御部屋の清掃も」
「自分で」
ミーナの尻尾が。
見る見るうちに下がっていく。
「大丈夫だから」
「大丈夫ではございません」
静かな声。
怒鳴っていない。
それでも。
三百年分の悲しみが入っているように聞こえた。
「陛下」
ミーナは。
俺の前へ手を出しかけ。
途中で止めた。
「御衣服へ触れても、よろしいでしょうか」
先に聞いた。
規則を守っている。
「袖だけなら」
「ありがとうございます」
ミーナが。
ほつれた場所を確認する。
「三分ほどで補修できます」
「試験入国中に?」
「申告済みの裁縫道具を使用いたします」
水城さんを見る。
「如月さん御本人が同意されるのであれば、問題ありません」
ミーナへシャツの袖を渡す。
脱ぐ必要はなかった。
着たまま。
小さな針を通し。
ほつれた部分を直していく。
「魔法は使ってない?」
「使用しておりません」
「どうして」
「地球側での使用許可を得ておりませんので」
完璧に規則を守っている。
数分後。
袖口は。
どこが破れていたのか分からないほど綺麗になった。
「相変わらず上手いな」
ゲーム時代も。
装備の耐久値が減ると。
ミーナが修理してくれた。
「覚えておられるのですか」
「当然だろ」
ミーナの耳が。
嬉しそうに立ち上がる。
「ありがとうございます」
小さなやり取り。
それだけなのに。
ミーナは。
三百年待ったことが報われたような顔をしていた。
◇
通行検査室での確認を終え。
俺の部屋へ向かう。
ミーナの滞在許可には。
建物共用部と俺の居室が含まれている。
廊下へ出る。
一階の共用通路。
古い床。
壁。
掲示板。
「こちらが、陛下の御住居ですか」
「七階」
「警備設備が少なく見受けられます」
「その話は、もう何度もした」
「承知しております」
ミーナは。
それ以上言わなかった。
エレベーターへ向かう途中。
隣の部屋に住む老婦人と出会った。
昨日。
リゼルたちを見て。
綺麗な外国人と呼んでいた人だ。
「あら」
老婦人が。
ミーナを見る。
「今度は耳の可愛い子ね」
ミーナの猫耳が。
僅かに動く。
「おはようございます」
丁寧に頭を下げる。
「如月さんのお友達?」
「昔からの知り合いです」
「アステリア王国王宮生活管理院総監、ミーナ・フェルと申します」
「難しいお仕事ねえ」
老婦人は。
意味を理解していないようだった。
だが。
気にした様子もない。
「耳、触ってもいい?」
ミーナの動きが止まる。
猫人族の耳へ。
許可なく触れることが、どういう扱いなのか分からない。
「嫌なら断っていいから」
俺が言う。
「陛下の御近隣の方でございます」
「近隣でも、嫌なものは嫌でいい」
ミーナは。
少し考えたあと。
「一度だけでしたら」
老婦人が。
そっと猫耳へ触れる。
「あら、本物」
「はい」
「ふわふわねえ」
ミーナの耳が。
少し横へ倒れる。
嫌というより。
慣れていないらしい。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
何の礼か分からない。
老婦人が去ったあと。
ミーナが小さく息を吐く。
「大丈夫?」
「少し驚きました」
「次からは断っていい」
「はい」
地球側の文化を。
一つずつ覚えていく。
俺たちも。
彼女たちの文化を知らなければならない。
エレベーターを待つ。
その間。
ミーナが床を見る。
隅に。
小さな埃が残っている。
壁の近くには。
住民が落としたらしい紙片。
清掃員が来る前なのだろう。
ミーナの尻尾が揺れる。
「駄目だからな」
「まだ何も申し上げておりません」
「掃除しようとしただろ」
「気にはなりました」
「共用部は、勝手に触らない」
「承知しております」
ミーナは。
紙片から視線を外した。
その直後。
後ろから声が掛かる。
「掃除なら、してもらって構わないですよ」
管理会社の長谷川さんだった。
検査室の契約確認を終え。
廊下へ出てきたらしい。
「長谷川さん」
「共用部の管理は、当社が行っています」
「正式な清掃担当者がいるでしょう」
「今日は、異世界関係の対応で時間が変更されています」
長谷川さんは。
ミーナへ尋ねる。
「もし、御本人が希望されるのであれば」
「御許可をいただけるのですか」
「洗剤や薬品を使わず。設備へ触れず。廊下の埃を取る程度でしたら」
ミーナの耳が。
一気に立ち上がる。
「十分でございます」
「滞在時間があるから、少しだけだぞ」
「はい」
ミーナが。
鞄から白い布を取り出す。
魔法は使わない。
床へ膝をつき。
隅に溜まった埃を丁寧に拭き取る。
「総監が、自分で掃除するのか」
「基本を忘れた者に、他者へ指示する資格はございません」
三百年の間に。
偉くなっても。
ミーナは、俺が知っている侍女のままだった。
「それに」
ミーナが。
少しだけ笑う。
「陛下がお歩きになる場所でございますので」
十分後。
一階の共用廊下は。
見違えるほど綺麗になっていた。
魔法は使っていない。
特別な道具もない。
ただ。
三百年以上。
生活環境を整え続けた技術がある。
「すごいですね」
長谷川さんが。
感心したように床を見る。
「普段の清掃が悪いという意味ではありませんが」
「隅の処理が不足しておりました」
「見ただけで分かるんですか」
「建物全体の清掃計画も、必要であれば」
「ミーナ」
「御提案だけです」
先に止められた。
少しずつ。
俺の反応を理解している。
◇
俺の部屋へ到着する。
玄関を開ける。
ミーナが。
中へ入る前に足を止めた。
「入っていいぞ」
「失礼いたします」
一歩。
部屋へ入る。
ミーナは。
何も言わなかった。
狭い室内。
古い家具。
小さなキッチン。
ベッド。
俺が七年間暮らした場所を。
静かに見ている。
「思っていたよりは、片付いてるだろ」
「はい」
「その間は何だ」
「陛下が御一人で維持なされた御部屋です」
机の上。
冷蔵庫。
棚。
洗面所。
ミーナは。
近づいて見るだけ。
勝手に触れない。
「昨日、少し片付けたから」
「どなたが?」
「俺」
ミーナの尻尾が。
また下がる。
「そこまで悲しむな」
「申し訳ございません」
「今日は試験入国だ。俺の生活改善を始める日じゃない」
「理解しております」
「だから、掃除もしなくていい」
「はい」
「料理も」
「はい」
「洗濯も」
「はい」
「本当に?」
「陛下の御許可なく、行いません」
完璧な答えだった。
俺は。
少し安心する。
「では、座ってくれ」
「陛下の御前で?」
「椅子は一つしかないから、俺はベッドに座る」
「では」
ミーナが。
机の前の椅子へ座る。
三百年ぶりに会った。
話したいことは。
いくらでもあった。
「アステリアでは、どうだった」
「何から、お話しすればよろしいでしょうか」
「ミーナのことから」
彼女は。
少し驚いた顔をした。
「俺がいなくなったあと、何をしてた」
ミーナは。
ゆっくりと話し始めた。
サービス終了後。
王城が混乱したこと。
リゼルが。
俺の最後の命令を全員へ伝えたこと。
セレフィナが。
国の運営を止めないため、各部署をまとめたこと。
ノアが。
俺の接続を探す技術を研究し始めたこと。
「私は」
ミーナが。
自分の手を見る。
「陛下の御部屋を、守りました」
「三百年間?」
「はい」
「毎日?」
「はい」
「誰も使ってないのに」
「陛下が、いつお戻りになられてもよいように」
寝具を替え。
机を拭き。
衣服を整え。
食器を磨き。
花を飾った。
「最初の百年ほどは」
ミーナが。
少し恥ずかしそうに笑う。
「毎日、陛下の御夕食も御用意しておりました」
「毎日?」
「いつ、お戻りになるか分かりませんでしたので」
「残った食事は?」
「王城の者たちで、いただきました」
無駄にはしていない。
それでも。
戻らない俺のために。
百年間。
毎日一食を作り続けた。
「百年後に、やめたのか」
「国民議会から、食料を大切にするよう御指摘を受けました」
「正しい」
「その後は、陛下が御帰還なされた瞬間に御用意できるよう、保存食と厨房の管理を続けました」
「それで、生活管理院を?」
「私一人では、王城全てを維持できなくなりましたので」
最初は。
小さな侍女組織だった。
王城。
行政施設。
病院。
学校。
避難所。
人々が生活する場所を。
安全で清潔に保つため。
少しずつ仕事が増え。
今では、国家機関の一つになっている。
「立派になったな」
俺が言うと。
ミーナの瞳から。
また涙が溢れた。
「その御言葉を」
声が震える。
「ずっと、いただきたかったのです」
俺は。
言葉を失った。
三百年。
その長さを。
俺は、まだ理解できていない。
彼女たちが何を考え。
どんな気持ちで。
俺がいない世界を生きたのか。
簡単な謝罪で。
埋められる時間ではなかった。
「本当に」
俺は。
それでも言う。
「よく頑張ったな」
ミーナは。
何度も頷いた。
◇
滞在時間は。
あっという間に過ぎた。
残り十五分。
「そろそろ戻る準備を」
政府職員から連絡が入る。
「はい」
ミーナが立ち上がる。
最後まで。
部屋の物には触れなかった。
「今度」
俺が呼び止める。
「正式な許可が取れたら」
ミーナが振り返る。
「料理を一つ、作ってくれ」
猫の耳が。
大きく立ち上がった。
「一つでございますか」
「最初は」
「十品ほどでは」
「一つ」
「三品」
「一つ」
「汁物は、別に数えますか」
「全部合わせて一つ」
ミーナは。
真剣に悩んだあと。
「承知いたしました」
頷いた。
「陛下の御望みになる一品を、必ず御用意いたします」
「地球側の食材で」
「はい」
「安全確認を受けて」
「はい」
「勝手に厨房を繋げない」
「はい」
完璧だった。
仮設通行検査室へ戻る。
帰国前の検査。
地球側から持ち出す物はない。
所持品も全て揃っている。
「通行試験、終了です」
水城さんが答える。
「ミーナさん。御協力に感謝します」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ミーナは。
日本政府側の職員。
管理会社。
研究者。
全員へ丁寧に頭を下げた。
最後に。
俺を見る。
「陛下」
「またな」
「はい」
ミーナが。
赤い門を越える。
アステリア側の国境管理所へ戻る。
《入国者ミーナ・フェル》
《地球側滞在終了》
《人員通行試験――成功》
最初の正式な入国試験は。
何の問題もなく終了した。
「成功ですね」
水城さんが言う。
「ああ」
少しだけ。
前へ進んだ気がした。
元部下たちも。
政府側も。
規則を守り。
話し合い。
安全に一人を通すことができた。
今度こそ。
本当に。
問題なく終わった。
◇
ミーナが帰国してから。
約一時間後。
俺は。
管理会社の長谷川さんから呼び止められた。
「如月さん。少しよろしいでしょうか」
「何ですか」
長谷川さんは。
複数の紙を持っていた。
「先ほどのミーナさんについてです」
「何か問題が?」
「いえ。逆です」
紙を一枚渡される。
《アステリア王国民ミーナ・フェル氏の再訪問に関する要望書》
「要望書?」
「建物の入居者の方々からです」
「どうして?」
「一階の廊下が、とても綺麗になりましたので」
「十分くらい掃除しただけですよ」
「清掃担当者が確認したところ、通常では落としにくい場所まで整えられていたそうです」
更に。
もう一枚。
《猫人族ミーナ氏との文化交流を希望》
「これは」
「隣にお住まいの方からです」
耳を触った老婦人だろう。
「文化交流って」
「お茶を飲みたいそうです」
「普通に気に入られてる」
「はい」
長谷川さんが。
別の資料を出す。
「管理会社としても、提案がございます」
「嫌な予感がします」
「正式な就労資格と、日本政府の許可が得られた場合に限りますが」
紙の上には。
こう書かれていた。
《建物共用部の清掃および生活環境に関する助言業務》
《業務委託候補者――ミーナ・フェル》
「管理会社で雇うつもりですか」
「いきなり雇用するわけではありません。まずは制度上可能か、相談したいという段階です」
会社へ押しかけた一万二千人と違う。
今回は。
地球側の企業が。
アステリアの住民へ仕事を依頼したいと考えている。
「まだ一度来ただけですよ」
「その一度で、実力は十分確認できました」
長谷川さんは。
本気だった。
「もちろん、如月さんの専属にするつもりはありません」
「それは良かったです」
「建物全体を担当していただきます」
「結局、俺の住んでる場所じゃないですか」
「入居者の皆様も希望されています」
資料の最後には。
入居者たちの署名が並んでいた。
俺は。
アステリア側へミーナを戻した。
規則通り。
試験が終わったら帰国させた。
元部下たちも。
誰一人、命令へ背いていない。
それなのに。
今度は。
日本側の大家と住民たちが。
彼女をもう一度呼び戻そうとしていた。
「如月さん」
水城さんからも。
新しい連絡が入る。
「何でしょう」
『アステリア側から、正式な滞在許可申請が届きました』
「誰の?」
『ミーナ・フェルさんです』
申請書が表示される。
《申請者――ミーナ・フェル》
《滞在目的》
《一、建国王レグナ陛下の生活支援》
「一番目から駄目」
《二、日本側居住施設の生活環境調査》
《三、管理会社から要請された清掃助言業務》
《四、地球側住民との文化交流》
更に。
《地球側身元保証人候補》
《建物所有者》
《管理会社》
《入居者代表》
必要な手続きは。
何一つ飛ばしていない。
日本政府の許可も求めている。
勝手に来るつもりもない。
俺へ事前に報告もしている。
文句を言う場所が。
少しずつなくなっていた。
「本人から、陛下へ補足の伝言が届いております」
水城さんが。
ミーナの文章を読み上げる。
『陛下の御命令に従い、勝手に地球へは参りません』
『全ての許可を得た上で』
『今度こそ正式に、陛下の御世話をさせていただきたく存じます』
元部下たちは。
地球側の規則を覚え始めていた。
命令の抜け道を探すのではなく。
正面から。
申請書と。
大家と。
住民たちの署名を揃えて。
俺の生活へ戻ってこようとしていた。
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