第1話 七年前に別れた元部下が、玄関の前で跪いていた
書き直しました。
深夜二時十三分。
玄関のチャイムが鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
こんな時間に訪ねてくる知り合いはいない。
宅配便でもなければ、管理会社が来る時間でもなかった。
俺はベッドから起き上がり、音を立てないよう玄関へ向かった。
築三十年の賃貸マンション。
一人暮らし用の狭い一室だ。
廊下と呼べるほどの距離もなく、数歩進めばすぐ玄関へ着く。
ドアスコープを覗く。
誰もいない。
「……悪戯か?」
戻ろうとした時。
扉の向こうから、女の声が聞こえた。
「レグナ陛下」
心臓が止まりそうになった。
その名前で俺を呼ぶ者は、もう存在しない。
七年前にサービスを終了したオンラインゲーム。
国家運営型RPG。
その世界で十五年間使い続けた、俺のプレイヤー名だった。
「陛下。御無事でいらっしゃるのでしたら、どうかお声を」
声が震えている。
俺は扉へ手を掛けたまま動けなかった。
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
ゲームを始めたばかりの頃に出会い、最初の仲間となり、最後まで俺の隣にいた騎士。
「リゼル……?」
扉の向こうで、息を呑む音がした。
「はい」
それだけだった。
けれど、その一言には。
七年前のゲーム音声では聞いたことのないほど、強い感情が込められていた。
俺は鍵を開けた。
◇
《エルグランド・サーガ》のサービス終了が発表されたのは、八年前だった。
長く続いたゲームだった。
サービス開始から二十年以上。
俺が始めた時点で既に古参タイトルと呼ばれていた。
それでも、俺にとっては生活の一部だった。
小さな砦。
二十人しかいない住民。
荒れた畑。
崩れかけた柵。
そこから始めた国が、十五年後には大陸有数の国家になっていた。
国の名前は、アステリア。
最初に仲間となった銀髪の騎士、リゼル。
エルフの宰相、セレフィナ。
魔導技師のノア。
獣人の侍女ミーナ。
他にも、大勢の仲間がいた。
ゲームの登場人物。
運営が作ったNPC。
分かっていた。
それでも。
毎日顔を合わせ。
国を作り。
共に戦い。
何度も助けられているうちに、ただのデータだとは思えなくなっていた。
サービス終了の日。
王城の大広間には、アステリア中の重臣が集まっていた。
画面の上部には、終了までの時間が表示されている。
《サービス終了まで、残り三分》
何か特別なことを言おうと思っていた。
十五年間一緒にいた仲間へ。
最後に残る言葉を。
けれど、考えていた文章は全部消えた。
リゼルが画面の中で、俺を見ていたからだ。
「陛下」
いつもと同じ声。
いつもと同じ表情。
それなのに、その日は少しだけ違って見えた。
「明日も、御指示をいただけますか」
明日は来ない。
分かっていた。
ゲームは終わる。
サーバーに保存されているデータも、いずれ消される。
俺が答えなければ。
彼女たちは最後まで、俺の命令を待ち続ける。
そんな気がした。
《サービス終了まで、残り一分》
「もう、俺の命令を待たなくていい」
キーボードで打ち込んだ。
「これからは、自分たちのために生きろ」
送信。
王座の前に立っていたリゼルが、目を見開いた。
セレフィナが口元へ手を当てる。
ノアが何かを叫んでいる。
聞き取れなかった。
画面全体が白くなり始めていた。
「陛下」
リゼルが手を伸ばす。
「お待ちください」
残り十秒。
「私どもは、まだ」
残り五秒。
「陛下と共に――」
画面が暗くなった。
《長い間、エルグランド・サーガをプレイしていただき、ありがとうございました》
それが最後だった。
俺はパソコンの前で。
もう誰も映っていない黒い画面を、朝まで眺めていた。
◇
七年後。
玄関の扉を開けた先で。
リゼルが跪いていた。
長い銀髪。
白銀の鎧。
腰に下げた剣。
ゲーム画面で見ていた姿より、少しだけ大人びている。
けれど、間違えるはずがなかった。
「お迎えに上がりました」
リゼルは顔を伏せたまま、震える声で続ける。
「アステリア初代近衛騎士団長、リゼル・アルフェリア。陛下の御前へ、ただいま帰還いたしました」
「どうして」
それ以上、言葉が出てこない。
立体映像でもない。
仮想現実用の機械もない。
目の前にいる。
銀色の髪が、廊下の明かりを反射している。
鎧からは、僅かに金属と土の匂いがした。
「顔を上げてくれ」
リゼルがゆっくり顔を上げる。
金色の瞳から。
涙が落ちた。
「ようやく」
彼女は、笑おうとして失敗したような表情を浮かべた。
「ようやく、お会いできました」
俺の中では七年。
十分に長かった。
だが。
リゼルが次に口にした数字は、俺の想像を遥かに超えていた。
「陛下がお姿を消されてから、三百二年が経過しております」
「三百……?」
「はい」
聞き間違いではなかった。
「アステリアでは、三百二年?」
「我々は、陛下の最後の御命令に従いました」
もう命令を待たず。
自分たちのために生きろ。
「国を守り、民を育て、次代へ繋いでまいりました」
リゼルは胸元へ手を当てる。
「ですが」
再び、声が震える。
「陛下をお迎えすることだけは、諦められませんでした」
玄関の外。
リゼルの背後に、赤い光が浮かんだ。
最初は小さな点だった。
それが縦へ伸び。
人が通れるほどの大きさへ広がっていく。
光の向こう側に、別の景色が見えた。
巨大な広間。
白い石柱。
赤い絨毯。
壁に掛けられた、アステリアの国旗。
俺がゲーム内で作った王城だった。
ただし。
記憶にあるものより、何十倍も大きい。
「陛下!」
門の向こうから、少女の声が響く。
小さな角。
黒い髪。
白衣のような服。
魔導技師ノア。
その隣には、長い金髪のエルフ。
宰相セレフィナ。
二人も、俺が知っている姿より少しだけ成長していた。
いや。
三百年以上生きているのなら、少しという表現では足りない。
「本当に、蓮なの?」
ノアが門から身を乗り出す。
「陛下に対して、そのような呼び方は」
セレフィナが注意しながらも。
その目には涙が浮かんでいた。
「お帰りなさいませ、陛下」
門の向こう。
更に奥には、大勢の人影が見える。
騎士。
文官。
魔法使い。
獣人。
翼を持つ者。
人間とは違う姿の者たち。
「何人いるんだ」
「王城内に入れた者だけで、およそ一万二千名です」
「一万二千?」
「先遣隊でございます」
「それで先遣隊なのか」
「国内には、陛下の御迎えを希望する者が多数おります」
「多数って、どれくらいだ」
リゼルが僅かに迷った。
「国内人口、一億八千万人」
「待って」
「保護領および協力地域を含めますと、三億を超えます」
「全員来るつもりなのか?」
「希望者数は、現在も集計中でございます」
絶対に、この部屋には入らない。
それ以前に。
一人暮らし用のマンションから、一億人以上が出てきたら日本が終わる。
「とりあえず、門を小さくしてくれ」
「しかし、陛下をお迎えするため」
「床が抜ける」
その一言で、リゼルたちの表情が変わった。
「建物の強度に問題が?」
ノアがすぐに室内を見回す。
「陛下が、このように危険な建造物で生活を」
セレフィナの声が低くなる。
「危険ってほどじゃない。古いだけだ」
「所有者は、陛下の安全を承知しているのですか」
「賃貸だから、俺の建物じゃない」
三人が同時に黙った。
「賃貸とは?」
ノアが尋ねる。
「毎月家賃を払って借りてる」
「陛下が、他者の所有する一室を借りておられる?」
セレフィナが、信じられないものを見る顔になる。
「地球では普通だ」
「王城は?」
「ない」
「領地は?」
「ない」
「使用人は?」
「いない」
三人の表情が、質問を重ねるごとに険しくなる。
「仕事は?」
「会社員」
「陛下が、他者の組織へ雇用されておられるのですか」
「そうだけど」
リゼルがゆっくり立ち上がる。
「陛下へ命令を下す者が、この世界に存在すると」
「仕事だからな」
空気が変わった。
剣へ手を掛けたわけではない。
怒鳴ったわけでもない。
それでも。
三百年間、国家を守り続けてきた者たちの顔になっていた。
「落ち着いてくれ」
「我々は落ち着いております」
リゼルは静かに答えた。
一番信用できない言葉だった。
「今日はもう遅い。詳しい話は朝にしよう」
「陛下がお休みになるのであれば、周辺警護を」
「警護もいらない」
「ですが」
「普通のマンションだから、鎧の人間が廊下に立ってたら通報される」
「通報とは」
「警察が来る」
「この国の治安組織ですね」
セレフィナが何かを覚えるように頷いた。
余計な情報を与えた気がした。
「本当に、何もしなくていいから」
言ってから。
あまり細かく命令するのも違うと思い直す。
三百年前。
俺は彼女たちへ、自分で生きろと言った。
今さら全ての行動を細かく制限するつもりはない。
「ただ、今日は休もう」
「承知いたしました」
リゼルが頭を下げる。
セレフィナも。
ノアも。
素直に従ったように見えた。
門は、人一人が通れる程度まで小さくなった。
結局。
リゼル、セレフィナ、ノアの三人だけが部屋へ入る。
狭い。
ベッド。
机。
小さな冷蔵庫。
三人が立つだけで、完全に身動きが取れなくなった。
「王城の物置より狭い」
ノアが正直に言う。
「比較するな」
「陛下は、ここで七年間を?」
リゼルが室内を見回す。
机の上に置いた社員証。
会社の名前。
俺の顔写真。
その横にある、賃貸契約更新のお知らせ。
電気料金の請求書。
食べ終えたカップ麺。
彼女たちが見るたび。
何か悪い誤解が積み上がっていく気がした。
「朝になったら説明する」
「承知いたしました」
今度こそ、三人とも頷いた。
俺はベッドへ腰を下ろす。
聞きたいことは山ほどある。
アステリアがどうなったのか。
三百年間、何があったのか。
どうやって地球へ来たのか。
どうしてゲームの世界が、本当に存在しているのか。
だが。
体が限界だった。
明日も仕事がある。
「六時半に起こしてくれ」
「どちらへ向かわれるのですか」
「会社」
三人の表情が、再び僅かに変わった。
「今の仕事を急に休めない」
「陛下が望まれている仕事でございますか」
セレフィナが尋ねる。
「好きでやってるわけじゃないけど、生活には必要だ」
「生活のため」
「ああ」
「陛下が、生活費を得るために他者へ雇用されている」
「地球では珍しくない」
俺は説明を諦め、布団へ入った。
「本当に、明日話すから」
「お休みなさいませ、陛下」
リゼルの声を最後に。
俺の意識は途切れた。
◇
午前三時四十一分。
蓮の寝息が安定したことを確認し、セレフィナは室内へ消音結界を張った。
「陛下は、極度に疲労しておられます」
「栄養状態も悪い」
ノアが、空になったカップ麺の容器を調べている。
「これが食事なら、改善が必要」
リゼルは、机の上に置かれた社員証を見つめていた。
「陛下へ命令を下している組織」
「株式会社、という統治単位のようです」
セレフィナは、蓮のスマートフォンと室内にある書類から、地球側の制度を既に分析し始めていた。
「会社と呼ばれる組織へ労働力を提供し、対価として通貨を得ています」
「陛下ほどの御方が」
「御本人の意思である可能性もございます」
リゼルは社員証から手を離した。
「ならば、確認が必要です」
「はい」
セレフィナが微笑む。
「不当な拘束や、不適切な待遇がないことを」
「建物も調べる」
ノアが賃貸契約書を持ち上げた。
「陛下の安全を保証できないなら、所有者を変更した方がいい」
「買収が最も穏便でしょう」
「会社は?」
「まずは正式な照会を」
三人に悪意はなかった。
地球を征服するつもりも。
会社へ攻め込むつもりも。
大家を脅すつもりもない。
ただ。
三百年ぶりに見つけた主君が。
狭く古い部屋で暮らし。
生活費のために働き。
他者の命令を受けている。
その状況を。
アステリア王国の常識に従い、適切に改善しようと考えただけだった。
「陛下のお手を煩わせる必要はございません」
セレフィナが世界間転移門へ向き直る。
「我々だけで、朝までに整えましょう」
◇
午前六時二十八分。
俺は、鳴り続けるスマートフォンの音で目を覚ました。
「……何だ」
画面を見る。
不在着信、三十七件。
直属の上司。
部署の部長。
人事部。
見覚えのない番号。
管理会社。
マンションの所有者。
外務省。
「何で外務省?」
最新の着信は、社長からだった。
入社して七年。
一度も直接話したことのない人物。
嫌な予感しかしない。
電話へ出る。
「如月です」
『如月君』
大崎社長の声は、明らかに混乱していた。
『朝早くにすまない』
「いえ。何かありましたか」
『それを、こちらが聞きたい』
電話の向こうで、誰かが慌ただしく動いている。
『今朝、君の関係者を名乗る集団から、正式な文書が届いた』
ゆっくり。
俺はベッドから起き上がった。
室内を見る。
リゼルたちはいない。
世界間転移門だけが、壁際で静かに光っている。
「どんな文書ですか」
『アステリア王国という国からだ』
頭が痛くなってきた。
『君が不当に拘束されていないか確認したいと』
「拘束されてません」
『国家元首へ適切な待遇を与えているか、説明を求められている』
「俺は国家元首じゃ」
否定しようとした。
だが。
電話の向こうから、社長が続ける。
『外務省からも連絡が来ている』
「どうしてですか」
『アステリア王国の使節団が、日本政府へ正式な外交文書を提出したらしい』
何も聞いていない。
『それと』
社長が、少し言いにくそうに続ける。
『君をアステリアへ返してほしいと、会社へ正式な要求が来ている』
会社への電話が終わる前に。
玄関のインターホンが鳴った。
画面へ映ったのは。
マンションの管理会社と、建物の所有者。
二人の後ろには、黒い礼服を着たアステリアの文官が並んでいる。
スマートフォンへ、管理会社からのメッセージが届いた。
《如月様》
《アステリア王国側より、建物の買収について正式な申し出がございました》
《提示額が非常に大きいため、至急御相談したく存じます》
俺が眠っていた時間。
約三時間。
元部下たちは。
会社。
大家。
日本政府へ。
全て同時に動いていた。
七年前にサービスを終了したゲーム世界から。
元部下たちは、確かに現実へ帰ってきた。
そして帰還したその日の朝には。
俺の現実の生活を。
俺の知らないところで、国家規模に作り替え始めていた。




