第35話 夜見坂 凪は諦める
「くそっ、何が自宅待機だよっ!」
部屋の3分の1をベッドが、もう3分の1を机が占める小さな小さな安アパート。
その一室に一人の男が閉じこもっていた。
彼は寝間着代わりのえんじ色のジャージを着て、無精ひげを生やし、頭は長いこと手入れをしていないのかぼさぼさだった。
男の名前は下園勝正。
職業は教師。
そして、1週間前に殺人事件が起きた、1年1組の担任を受け持っていた。
「俺が何したって言うんだよ! あいつらだろ!? あいつらが勝手に殺し合ったんだろ!?」
先ほどから下園勝正は、テレビ画面を食い入るように見つめ、評論家とやらが垂れ流す無責任な論評に対して反論を重ねていた。
もちろん、誰が彼の言い分を聞いているわけでもない。
そうしなければ、精神を保てないだけだ。
「俺は悪くないっ。何もしてないっ!」
下園勝正は空になったビールの空き缶を机に叩きつけて怒鳴りつける。
「頭下げて回って、ひたすら文句言われて怒鳴られて。挙句の果てには減俸? 懲戒免職だけは勘弁してやる? えらっそーに、あのクソ校長が……!」
悪態は留まることを知らず、いくつもいくつもあふれ出し続けていたのだが――。
その流れを玄関のチャイムが断ち切った。
「…………」
下園勝正は急いで口をつぐむと、ほんの数メートル先にある扉を睨みつける。
「またマスコミか?」
ひとりごちた後に、床に転がっていたリモコンを拾いあげるとテレビの音量を絞る。
更にはカーテンを引っ張り隙間を塞いで外界から自身が居ることを気取られないようにした。
彼はこの一週間、何度かマスコミの突撃に合い、質問攻めにされていたため、いい加減うんざりしていたのだ。
だから、そういう関係者であれば居留守を決め込む腹積もりでいた。
「せんせ~、居ますよね~? あなたが担当する、かわいいかわいい1年1組の生徒がやってきましたよ~」
しかし聞こえて来た声は予想に反して幼いもので、大人のものではない。
かといって、これほど軽く、のんきかつ中性的な声の持ち主は、下園勝正の記憶の中には存在しなかった。
「先生、僕ですよ~って違った。オレオレ、オレです」
「……笑えねぇっての」
生徒の前では絶対に見せたことのない口調で毒づく。
だが、放っておくわけにもいかないため、ため息ひとつつくと、よっこらせと呟きながら立ち上がり、のそのそ扉の方へと歩いて行った。
「せ~んせ~」
そのまま訪問者に応えることなく覗き穴に顔を近づける。
魚眼レンズの広い視界の中には、訪問者の口元と制服が映し出されていた。
「……なんだ?」
わざわざインタビューのために制服を着てくる人間はいないだろうと判断し、下園勝正は渋々返事をした。
「文句があるなら学校で――」
「なんでまだ生きてるんですか?」
扉を貫通した悪意が、下園勝正に突き刺さる。
彼は数日前に同じことを保護者から言われたのだが、その時とは明らかに違った。
保護者の言葉には我が子を失った恨みと悲哀が籠められていて、下園勝正へ感情をぶつけたいがために発された言葉だった。
でも、来訪者は違う。
純然たる疑問と、こう言ったら傷つくだろうなという悪意に染められていた。
「先生の人生はもう終わってますよね?」
「……い、いきなりなにを言ってるんだ」
下園勝正の中には戸惑いしかなかった。
なぜこんなにも軽い調子で悪意にまみれた言葉を口にできるのか。
なぜそんなことを生徒から言われなければならないのか。
「でも事実ですよ」
「事実じゃない、勝手な事を言うなっ」
来訪者の言葉は、下園勝正の胸を鋭く抉る。
本当は下園勝正も理解していた。
ここまでの大事になってしまったのだから監督責任を問われて首にされるかもしれない、と。
「こうして学校を休んでいるのは、疲れているから有休をとることにしただけだっ。その物言いはあまりにも失礼だろう!」
「失礼って、クラスの半分以上が殺される原因を作るのは失礼じゃないんですか?」
「あれはあいつらが勝手にやったことだ! 俺は関係ないっ」
バンッと平手で扉を叩き、大声で怒鳴り返す。
関係ないと、自分に言い聞かせなければ心の安定を保つのが難しかったというのもあっただろう。
「……先生は先生だから知ってますよね。あいつらは馬鹿だって」
「それは……」
馬鹿だからあんなことをしでかしたんだという考えが下園勝正の脳裏をよぎる。
その通りだと来訪者の言葉を肯定したかったが、最後に残った教師としての建前が、最後の防壁となって失言を食い止めた。
「いいから帰れ。こんな時に来るんじゃないっ」
「じゃあ……言葉で説明しても、何度も同じことをするやつとか終わってるって思いません?」
「だから――」
「悪口を言うな、他人を傷つけるな、等々、わざわざそんなことを言わなければならないようなヤツは人間として終わっている。ですよね?」
「…………」
もし1年1組が、そういう物分かりのいい連中だけで構成されて居たら、今回の事件は起こらなかったかもしれない。
「あっは~、そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。一般的な話ですよ」
「……いい大人なら、そうだな」
わざわざ枕詞を付けたのは、言質を取られないためだ。
今ここで失言してしまったら、来訪者の言う通りの未来が訪れるだろう。
下園勝正はそのくらい微妙な位置に立たされていた。
「いい大人、いい言葉ですね! どちらの意味にも使える大人らしくズルい言葉で僕は大好きですよ」
「お前は俺をからかっているんだな!? いい加減にしろ! 俺は忙しいんだ!」
来訪者の粘着質で悪意のある会話に付き合っていると、底のない沼に引きずり込まれていくような錯覚に陥ってしまう。
精神が持ちそうにないと判断した下園勝正は、ひとこと怒鳴りつけ、扉から体を離した。
「帰れ! やることがいくらでもあるだろう。それこそいい大人になるために勉強でもしてろ!」
「――先生って、自分のことを俺って言ってたんですね。学校だといつも先生でしたけど」
「やめろと言っているんだ!」
「やめませんよ。僕は今日、告発に来たんですから」
告発。
事件を起こした犯人に対して、国に処罰を求める行為。
だが、下園勝正の認識では、今この場に犯人など居なかった。
警察の捜査においても、生徒同士のごたごたに、タイミング悪く火がついてしまっただけとの見方が強い。
完全な結論こそ出ていないが、この事件は容疑者死亡で不起訴になるはずだった。
「ねえ、原因を作ってしまった……先生?」
「ふざけるな! 俺は関係ないっ!」
下園勝正は扉に向き直ると、大声で否定する。
結局、来訪者の巧みな話術に呑まれ、ズルズルと会話を続けてしまった。
「じゃあ、なぜいじめを放置していたんですか?」
自覚のあった下園勝正は、うっと言葉に詰まる。
「いじめに関わっていた人間が、今回の事件における加害者になっている。そのぐらい知っていますよねぇ」
「そ、そいつらがそういうヤツらだったからだ!」
「そう! 彼らはそういうヤツらだった!」
中水美衣奈も上良栄治も稲次浩太もトラブルの多い生徒だった。
全員がこの事件を引き起こしうる火種を抱えていたのだ。
そのぐらい担任である下園勝正は知っていた。
「自分勝手で奔放。他人のことを考えない、思いやれない。彼らの自我は肥え、太り、醜悪なまでに歪んでいた!」
けれどそんな彼らを下園勝正は放置した。
指導とは名ばかりの慣れ合いを選び、白山菊理を見捨ててしまった。
「親も、先生も、学校も!」
来訪者の言葉が更に深く、下園勝正の心を抉る。
「白山菊理ひとりに犠牲を押し付け、表面だけ取り繕って平和なふりをした。学校という社会システムがうまく運営できていると装った!」
「うるさいっ」
下園勝正は選んだのだ。
教室を運営するために、生徒をひとり、生け贄に捧げることを。
クラスという群れをバラバラにしないために、生まれた歪みを放置し続けた。
「これがいい大人のすることかな? ねえ、先生! いい大人であるはずの先生!!」
「うるさいっ! うるさいっ!!」
否。
断じて否。
そもそも人間自体がそういう存在なのだ。
最大多数の最大幸福のために、最小の犠牲を受け入れることを是とする存在なのだ。
だから『いい大人』など幻想にすぎない。
誰もが自分の利を求め、自分勝手に生き、敵を作り、弱者を貪り他人を傷つける。
それが悪というわけではない。
そういうものなのだ。
だから仕方がない。
下園勝正が特別の悪というわけではない。
たまたま、こんな事件として顕在化してしまっただけ。
「黙れ黙れ黙れっ! 仕方がないんだ! 仕方がないんだよっ!!」
それが社会。
それが人生。
煌びやかな世界を一皮めくるだけで出てくる本性だ。
「アッハ~~。そうだね、その通りだね! 仕方がない、仕方がないっ!」
虫の羽音めいた耳障りな嘲笑が、下園勝正の心を蝕んでいく。
腹が立つことがあったから陰口を叩くのは仕方がない。
嫌なことをされたから悪口を言うのは仕方がない。
あいつが悪いからちょっと小突くくらいは仕方がない。
おかしい事を言ってる奴が居るから晒上げるのは仕方がない。
仕方がない。
仕方がない。
仕方がない。
だから――。
「先生、正義のヒーローになろうよ」




