第36話 夜見坂 凪は名前を呼ばれる
「な……に……?」
下園勝正にとって、来訪者の提案は脈絡の無いものにしか思えなかった。
なぜなら彼は、職場からは排斥され、保護者からは信用を失い、社会からは誹謗中傷を受けていた。
周り全てが敵で、誰も彼もが下園勝正という一個の存在を否定する。
そんな状況に置かれた下園勝正という人間と、正義のヒーローなんて言葉は、一番縁遠い言葉だったからだ。
「だから、正義のヒーロー。僕が告発に来たって言ったの、忘れましたか?」
「告発……」
相変わらず話についていけない。
下園勝正は、1年1組の担任教師であったのにも関わらず、いじめを放置してしまった。
告発はされる側であり、する側には居ない……はずだ。
少なくとも下園勝正はそういう認識であった。
「先生は終わっています。どうしようもなくこれからのお先は真っ暗。野垂れ死にしなければいい方っていう未来しか待っていない」
「そんな……っ」
ことはない、という否定の言葉は出てこなかった。
先ほどまではうるさいと、黙れと、一方的に否定できていたのに。
罪を暴かれ、自身の汚い本心を見せつけられ、心が疲弊しきってしまったのだ。
「具体的に言いましょう。これから先生は、校長や教育委員会からはトカゲのしっぽ切りにされてクビ。再就職しようにも、教師として雇ってくれる学校はひとつもない」
こんな大事になるまで問題を放置した教師なのだ。
その実力は疑われて当然だろう。
よって、教師としては確実に再起不能。
ならばそれ以外はというと――。
「もちろん他の場所で先生を雇ってもらえるはずないですよね」
受け入れてくれるはずがない。
今までの歴史に類を見ない殺戮の行われたクラス担任。
そんな悪名を気にしない職場なんてあるはずがなかった。
「あ、それからSNSで先生の名前から顔から何もかも晒されちゃってますよ。履歴書に嘘書いても再就職は無理ですね~」
「なんだよ、それはっ」
犠牲者となってしまった生徒の保護者、友人。
生き残った生徒たちが、こぞって恨み言をSNSにぶつけたのだ。
その結果、SNS上ではお祭り騒ぎが始まっており、そうなれば必ず興味本位で事件を更に深く知ろうとする輩も出てきてしまう。
そういった他人の迷惑を省みない下種の行動によって、下園勝正の個人情報は、そのほとんどを暴き立てられてしまっていた。
「だから僕は人生が終わったって最初に言ったんですよ。あ、最初はなんで生きているんですか、だったかな?」
「…………」
もう、なにも言い返す言葉が残っていなかった。
下園勝正の頬を涙が伝い、体は屈辱に震えている。
その上、胸の真ん中にぽっかりと穴が開いたような虚脱感が全てを支配し、生きる気力すら急速に喪失していく。
来訪者の言葉通り、下園勝正は死にたかった。
死にたくなってしまった。
だってこんな人生は、無意味だから――。
「でも諦めちゃだめですよっ」
来訪者の声は、下園勝正に絶望を叩きつけたと思えないほど明るく、軽い。
「そこで正義のヒーローですよ、先生っ」
「……は?」
「先生が、ヒーローになるんですよ。このままいい様に使い捨てられるだけでいいんですか?」
下園勝正はまだ理解できていない。
ただ、なんとなく希望があるような気がして、先ほどまで体を支配していた虚無感は、嘘のように消え去っていた。
「告発するんですよ。校長の悪事を! 生徒たちの非行行為を! あいつらはどうしようもないくらいにクズだったって!」
「――あ」
だから告発。
だから正義のヒーロー。
下園勝正は悪くない。
悪いのは全て罪を犯した連中だ。
下園勝正はなにもしていない。
悪いのは罪を擦り付けた連中だ。
下園勝正は被害者である。
「ピンチはチャンスってよく言ったものですよね。先生を貶めようとしている連中を、逆に貶めればいいんですよ」
「…………」
「だから、ね? 告発しましょう、反論しましょう、戦いましょう」
誰に対して行うのかは言うまでもない。
世論、社会といった外部の人間から、学校や教育委員会、保護者といった内部の人間まで。
とにかく下園勝正の敵に回った人間すべてに対してきちんと意思表示するのだ。
「先生は悪くない。ほかの連中が悪い」
もう涙は止まっていた。
体の震えも、嗚咽も何もかも。
今、下園勝正の心を満たすのは敵への怒りだ。
これからの道行みちゆきを照らすのは絶望でなくて希望だ。
あれほどあった将来への不安や閉塞感を、今は露ほども感じていなかった。
そう、下園勝正は悪くない。
「なにか問題が起きた時の記録とかは取ってあるんですよね?」
「……あ、ああ……」
下園勝正は額を扉におしつけ、ふぅっとため息をついてから目を閉じる。
「教師は全員週案と呼ばれる冊子を持っていて、それをメモ代わりに使っているんだ。全部とは言わないが、今までのはかなりのものをメモしてある」
ついでに紙媒体なのだから、記憶が許す限り書き加えることも出来るだろう。
例え嘘であったとしても、生徒たちは既に死んでいる。
嘘を嘘だと訴え出る人間は居ない。
「他にも……生徒指導室の記録もあるか」
生徒指導室を使うまでに発展した問題は、生徒指導の先生が記録しておくことが義務付けられていた。
あとは、養護教諭の記録などを確認してみても、色々と得られるものがあるだろう。
「中学校からの内申書とかはどうですか?」
「ああ、それもあるな」
崎代沙綾は中学時代から白山菊理をいじめ続けていた。
それは当然中学校から高校に伝わってきている。
生徒側が知ることは少ないが、小学校、中学校、高校時代の素行は、記録になってそれぞれの学校にずっと受け継がれるのだ。
「そういう証拠を集めて、どーんと公開しちゃいましょうよ。あいつらが悪かったって証明するために」
「……それは……うむ……」
個人情報の公開は固く禁じられているため、さすがにブレーキがかかる。
ただ、それをしなければ終わるというのも事実であった。
「先生。僕が最初にあんな言い方をしたのは、先生が今直面している状況を、正しく理解して欲しかったんですよ。やらなければ野垂れ死にって、まだ理解してないんですか?」
「それは……分かっている」
心に余裕がなかった時は認められなかったが、今ならば認められる。
動かなければ未来はない、と。
「……そう、だな」
だから、これは仕方のないことだ。
生きるために必要な権利を行使するだけのことだ。
下園勝正は胸の内でなんども呟いて己を納得させた。
「そうだ。ああ、そうだ。その通りだ」
大きくため息をはきだして、浮かび上がって来たアイデアを反芻する。
下園勝正という担任教師は雇われの身であり、校長の方針に逆らえないというのは同業者なら分かってくれる。
あまりにもひどい生徒だと分かれば、仕方がないという世論も出てくるだろう。
一発逆転というのはさすがに難しいだろうが、少なくともやれば未来が潰されるようなことは無くなるはずだ。
「……しっかり、理解したよ。ありがとう」
「はい。強い言葉を使ってすみませんでした。そのぐらい分かってほしかったんです」
来訪者の声からは勢いが失せ、穏やかなものへと変わる。
それだけ真剣だったのだろうが――ひとつ、疑問が浮かんだ。
「なんで君はこんなことを言いに来たんだい?」
来訪者にはなんの利益もないはず、というところまで考えて、すぐに思いなおす。
下園勝正が自分で辿り着けるほど、答えは至極簡単だった。
「いや、すまない。先生があいつらを告発することに意味があるんだね。理解したよ」
答えはひとつ。
復讐だ。
それを理解した途端、下園勝正の気分は晴れ渡っていく。
共犯者、理解者。
言葉はなんでもいいが、感情を共有できる相手が居ることは、下園勝正の心を軽くしたのだ。
「今まで悪かったな――」
そして下園勝正は、来訪者の名前を初めて口にした。
「白山」




