第37話 夜見坂 凪は正義の味方である
「あら、起きちゃった」
「…………え?」
ふいに名前を呼ばれた気がして、私は面を上げた。
目の前には真っ白い扉があり、私はそれにぶつかってしまいそうなほど近づいていた。
ここはどこだろう。
私は夜見坂くんの誘いを断って、彼を見送ったあとは部屋に引きこもっていたはずなのに。
「とりあえず先生はいかなくちゃならないから、ドアの前から退いてもらってもいいかい?」
辺りを見回しても私以外は誰も居ない。
ただ、見るからに安っぽいアパートの扉が並んでいるだけ。
もちろん、先ほど声が聞こえたはずの夜見坂くんの姿も見当たらなかった。
「あ、え、はい……」
多分この人は私に向けて言っているのだろうと推察して、慌ててドアの前から一歩下がる。
すると、中からどたどたと忙しない物音が聞こえて来たかと思うと、すぐに扉が開いて下園先生が飛び出してきた。
「す、すみませんでした」
下園先生はよほど急いでいるのかジャージ姿で髪もセットしておらず、小脇にカバンを抱えている。
ついでにお酒や汗のすえた臭いが鼻をついた。
「いや、こちらこそ今まで何も出来なくてすまなかったね。それじゃあ急ぐから」
下園先生はそれだけ言い残すと全速力で走り去ってしまった。
なんで私がここに居たのか、先生となにを話していたのかは相変わらず全く思い出せない。
けれど、私の心にはある種の高揚感というか、なにか決定的なことをやってしまったという達成感が残っていた。
「あれ、これ……」
私の手には古ぼけたスマートフォンが握られていて、画面を見れば今も録音が続いているようだった。
「確か、夜見坂くんのだけど……」
とりあえず録音を止め、スマートフォンの画面を見つめる。
スマートフォンは録画アプリが立ち上がっていて、今まで録音してきたものと思しきファイル名がずらりと並んでいた。
そのうちのひとつ、一番上のファイルがたった今録音したばかりのものなのだろう。
現在の時刻が表記されている。
これになにが録音されているのか、私は好奇心を、いや、なぜか無性に聞かなければならないという強迫観念が私を突き動かしていた。
微かに震える指先でファイルをタップする。
即座に再生が始まり、わずかなノイズの後流れ出したのは――
『せんせ~、居ますよね~? あなたが担当する、かわいいかわいい1年1組の生徒がやってきましたよ~』
私の声だった。
「…………え?」
口調こそ夜見坂くんのものだけど、その声は私のもの。
生まれてからずっと聞き続けたのだから聞き間違えるはずは絶対に無い。
「なん……で?」
意味が分からなかった。
理解できなかった。
困惑しかなかった。
だって確かに彼は存在しているはずで――。
「してないけどね」
私の背後で夜見坂くんの声がしたように思えたから、振り向いて確認してみたけれど……誰も居なかった。
「本当はもう気づいてるんだろ。でも受け入れたくないだけ。認めたくないだけ。ねえ――」
ああ、分かってる。
理解している。
だってさっきから――
「白山菊理」
――私の口が動いているんだから。
「あ、あ、あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
私の口から悲鳴が迸る。
肺腑の底から空気を絞り出すような大きくて、長い悲鳴が。
否定したかった。
認めたくなかった。
気づきたくなかった。
だって、だって。
私が、白山菊理が、ひとを狂わせて操り、ひとにひとを殺させてきた殺人鬼だったなんて知りたくなかった。
「こんな、なんで!」
「君は無意識の内に僕という可能性を排除していた。だから気づけなかった」
今なら思い当たる。
違和感はそこかしこにあった。
35人居ると私は思っていたけれど、出席番号の最後は34番だった。
転校生の夜見坂くんが最後の番号をあてがわれるはずなのに、最後は湯川大陽だった。
宮苗瑠璃の死体が見つかった時、現場に夜見坂くんが居たことを警察に告げていないのに、警官は夜見坂くんに現場で見たことを口外しないように注意した。
私以外、誰も夜見坂くんの名前を呼ばなかった。
中水美衣奈への暴行を止めるべく、私が教室の扉を開けた時、扉の前には私と稲次浩太と夜見坂くんの3人が居た。それなのに上良栄治は「どっちがやった」と叫んだ。
稲次浩太は男である夜見坂くんが女子トイレから出て来たところを見たのに何も言わなかった。
上良栄治に聞かせた音声は、私にしか録音できなかった。
他にもまだ、まだまだ、たくさん違和感はあった。
私が無意識に目を逸らし、考えないようにしていただけ。
あたかも夜見坂 凪という人間が存在しているかのように、私が私の認識をいじっていただけ。
「でもそれでいいんだよ、それがいいんだよ。言ったよね、僕は」
一字一句違わず覚えている。
「同情を買って、あいつらの印象を最低最悪にまで落とした? 警察が思わず君の味方をしてしまうぐらい、君のことを可哀そうな存在として認識した? 事件にかかわる人たち全てを公平公正な目で見るべき警察が、偏見を持ってしまうぐらいの印象操作をした?」
それこそが私の役目。
目的。
夜見坂くんの――私の関与を疑われないために一番効率がいいのは、私が純真無垢な被害者であることだ。
『可哀そうな白山菊理』という仮面が、その下にある殺人鬼の顔を覆い隠してしまう。
そのための私。
そのための夜見坂くん。
この、悪趣味な人形劇のためだけに生まれた、都合のいい操り人形。
夜見坂 凪。
存在しない私の影にして、もうひとつの人格。
都合のいい正義のヒーローなんかじゃない。
私は私の意思に従い、私すらコマにしてクラスのみんなへと復讐をする、私だけの正義に味方してくれる存在。
私はクラスのみんなも学校というシステムも、全部がぜんぶ壊れてしまえばいいとずっと思っていたから、そんな私に味方してくれて、全てを壊してくれたんだ。
「おめでとう、白山菊理。君は立派な殺人鬼だよ」
「違うのっ! 私は……私は……」
「否定するのは、あの女性警官のせいかな~?」
海星さん。
たったひとりの異物。
在り得るはずのない、私を助けようとしてくれた存在。
「いい人だったね」
きっと彼女が居たから、私は夜見坂くんを拒絶してしまったのだろう。
「でも、白山菊理のせいで死んじゃったけど」
違う。
違う、違う、違うっ!
殺したくなかった。
死なせたくなかった。
傷つけたくなかった。
でも――
「そうだね、殺したんだった」
私が殺してしまった。
私は誰彼見境なく殺す存在に成り果ててしまった。
ああ、なんて私は汚い存在なんだろう。
見られた物じゃないくらい私の心は醜くて、歪んでいて、どうしようもないくらいに壊れていた。
私は殺人鬼。
私は人でなし。
私は怪物。
私は――。
「必要なことだよ。白山菊理を助けるためには必要な犠牲だったんだよ」
「――――っ」
「誰も助けてくれない。誰も他人のことなんか気にしない。他人を踏みつけにして、自分だけが上がっていく。それが世界の現実なんだよ」
だから、海星さんは死んでしまった。
でもそんな風に私は思えない。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……。
たまらず私は逃げ出してしまった。
だけど夜見坂くんからは逃げられない。
彼は私で、私は彼。
同一人物なのだから、どんなに走ったところで距離を取ることも出来ない。
……生きている限り。
私は走って、走って、わき目もふらずに走って――。
「危ないっ!」
そんな男の人の声が、聞こえた気がした。
けれど、その言葉の意味を理解するよりも先に、横合いから強い衝撃が襲いかかって来る。
「――ごめんなさい、ありがとう」
地面と空が反転している世界で、私は最期に迷惑をかけてしまった相手へ向けて、謝罪の言葉とお礼の言葉を口にする。
だって、この痛みこそが私の望みだったから。
私は罰されなければならない。
私は死ななきゃいけない。
こんな、殺人鬼は。
重力の手に引っ張られ、大地の腕に全身を強く抱きしめられて――。
「でもさ。死んでしまったからこそ責任がある。そうは思わない?」
――私の意識は闇に落ちた。
□□□□□
白一色に染められた世界。
カーテン、床、壁、ベッド、シーツ、備え付けられたテーブルに至るまで、全てが真っ白で統一されている。
そんな世界にただひとつ、色がついている存在があった。
真っ黒な髪、日焼けを知らない生っ白い肌、薄桃色の唇。
顔立ちからして地味な印象を受ける少女がひとり、ベッドに埋もれるようにして、こんこんと眠り続けていたのだ。
そしてまさにたった今、瞳の黒が新たに加わった。
少女は目を数度、ぱちぱちと瞬かせた後、上体を起こす。
部屋を見回して状況を確認したら、次は己の体を下から順に触れて確かめていく。
シーツで隠れた足、患者衣に包まれた腹部、年齢にそぐわない豊かな胸。
右肩を抑えた瞬間わずかに顔をしかめたが、そのまま手を止めずに首筋、顔、頭頂部と撫でまわしていった。
そして、体に異常を見つけられなかったからだろう。
少女は口元を綻ばせて――
軽薄な笑みを張り付けて――
「あはっ」
嗤った。
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