第8話 柔らかな窓辺の日差しと。
(ベルフォスカって、“美しきフォスカの地”って意味だったのね)
辞書を片手に、借りた本を読む。
知らない国の歴史書。歴史の長い国の場合、古事記か日本書紀かっていうような創世神話がくっついていておもしろい。
私の祖国ルティアナは、ローレンシア王国から独立した国家だったせいで、そういう神話は存在しない。独立戦争で、いかに民が勇敢に戦ったか、国の発展に国王がどれだけ寄与したかが記されることになる。
ベルフォスカの場合、ローレンシアの支配下にあった国ではないので、独自の歴史、神話を持つ。言語だって、系統が違う。フィリツィエ、ルティアナはかつてローレンシア皇国領だったこともあり、似た言語なので、ローレンシア語さえマスターすればどうにかなるが、ベルフォスカ語はそうはいかない。ラテン語をマスターすれば、派生語であるフランス語、ドイツ語を覚えやすいが、アラビア語を覚えるのにラテン語は役に立たないのと同じ。いちいち辞書を引かなくては、文章を読み進めることができない。
(うむむ……)
こういうのって、前世の英語学習を思い出すなあ。
日本語とは文法も違うから、英作文とか結構苦労した。まあ、英語の場合、簡単な単語なら、書けなくてもカタカナ語として子どもでも知ってるレベルだったから、ここまで苦労しなかったけどさ。
でも、「美しきフォスカの地」のフォスカってなんだろう。興味のおもむくままに、辞書をめくる。こういうのって、調べだすとキリがない。
今、図書室には私とレオナルト、司書長のオルランドしかいない。
レオナルトももちろんだけど、オルランドも読書中に話しかけてくることはない。
時折聞こえる、ページをめくる音と、軽い衣擦れ。
少しだけ開かれた窓からは、柔らかい北側の日差しと、サラッとした風がふきこむ。
チラッと顔を上げると、そこに熱心に本を読むレオナルトの姿。離れて座るのもおかしなかんじだったので、向かい合って座っている。
(あ、まつ毛、長い…)
熱心に読む彼の緑の瞳に、まつ毛が陰影を落とす。サラッとした黒髪が、かすかに風に揺れる。
(ホント、こうして見ると、結構好みかも)
ディオンへの対抗心からレオナルトを見てたけど、それを抜きにしても、悪くない容姿だと思う。ディオンのような華やかさはないけど、物静かで大人びたかんじ。ジェットコースターのようなワクワクするような毎日は過ごせないかもしれないけれど、その代わり、落ち着いた静かな日々を暮らせそうな…。
「エセル…⁉」
私の視線に気づいたのか、レオナルトが声を上げた。
「あ、いえ、なんでもありません」
見とれていたことに気がついて、あわてて視線をそらす。
私ったら、なに男性に見とれてるのよ。勝手に結婚生活を連想してるし。
はしたないというより、恥ずかしい。
「レオナルトさまは、何をご覧になっているのですか⁉」
とりあえず、話題を変える。
「あ、ああ。医学書を少し…」
急な話題ふりに、レオナルトが驚いたように読んでいた本のページをめくってくれた。
人体の解剖図つきの分厚い本。写真はもちろんないから、文章と絵が中心。
(おお、『ターヘル・アナトミア』…)
そんな単語が、頭に浮かぶ。出てこい杉田玄白、前野良沢。
「興味…、あるのか⁉」
レオナルトが、ページをめくる手を止めた。
「え、まあ。そうですね」
思わず前のめりになって覗きこんじゃった。
正確には、内容よりその本じたいに、興味があったんだけど。まあ、勉強熱心と思われるのは悪くない。
「レオナルトさまも、熱心にご覧になっていらっしゃいましたよね」
王侯貴族が医学に興味を持つのは悪いことではない。子弟の教育に医学は含まれているぐらいだし。万が一の時、自分の身体のことを何も知らないでは、治療と称されて毒を盛られても気づくことが出来ない。
まあ、レオナルトのように、ここまで熱心に学ぼうって貴族は、あまりいなのかもしれないけれど。
「兄上に大公位を譲られたからな。その立場にふさわしいだけの知識を手に入れておきたいんだ」
ボソリと、照れたように呟かれる。
これだけ学んでも不安なのかもしれない。人の上に立つ者として、少しでも多くの知識を手にしていたいのだろう。大公になれば、こうして読書に割ける時間は減ってしまう。だから、自由のきく今のうちに学んでおきたい。
(その気持ち、すごくわかる…)
上に立つからこそ、気が抜けないというか。いざって時のために、何かしておきたいというか。
私も、どこか似た部分があるから。こうして図書室を訪れたのも、同じような理由だし。
「エセルさま…」
キイッと音を立てて図書室の扉が開かれた。顔をのぞかせたのは、ラウラ。
「ルティアナの大使がお目通りを願っておりますが、いかがいたしましょう」
「今から行くわ。応接間に案内しておいてちょうだい」
ラウラが一礼して扉を閉める。
姫でもある私の自由な時間は少ない。
軽くため息を残して立ち上がる。
「では、レオナルトさま、わたくしは、このへんで失礼いたしますわ」
仙境から一気に世俗に引き戻されたような気分で、図書室をあとにした。




