七年後 1
「お父さん! 起きてー!」
「ぐぅッ……! んん……?」
ぼすん、何かが勢いよく飛び込んでくる。しかしまだ夢の中にいたノエルは寝ぼけたまま腕を動かし、飛び込んできたものを捕らえた。柔らかくて温かい。「おーとーうーさーんー! はーなーしーてーよー!」じたばた暴れるそれのぬくもりをもう少し味わいたいと、そのままぎゅっと抱き寄せる。幼い少女はくすぐったそうに笑いながら、それでも自分の使命を果たそうとした。
「お母さんが、もうすぐごはんができるって!」
「ん……ああ、デルフィーヌさん。おはようございます……」
その一言でようやく目が覚める。広いベッドで寝ているのは自分と、今しがた飛び込んできた少女だけだ。はふ、とあくびをして、わざわざ起こしに来てくれた愛娘の頭を軽く撫でた。しかしまだ完全に覚醒しきらず、すり寄ってくる彼女の丸みを帯びた頬をしばらくうりうりとこねくり回してしまう。
ぼやけた視界がだんだん定まってきた。いつのことだったのかは忘れてしまったが、ずいぶん懐かしい夢を見た気がする。胸に残ったわずかな苦みの意味もわからないまま、ノエルはゆっくり起き上がった。
「ねぇねぇお父さん、ごはん食べたらおそとにあそびにいっていい? お父さんもフィーといっしょにあそぼ!」
窓を指す少女のこげ茶の瞳は期待に輝いている。立ち上がって外を見下ろすと、一面の銀世界が広がっていた。ここ数日降り続いていた雪は、どうやらようやく止んでくれたらしい。今日は週に一度の休日だ。運良く晴れてくれてよかった。これでようやく日用品の買い足しに行ける。
ノエルが亡命先に選んだこの国は、ラムグルナよりも四季の移ろいと寒暖の差がはっきりしている。あれほどの吹雪が続く日は、ラムグルナにいたころには経験したこともなかった。
「庭ならばいいでしょう。ですが、その前に買い物に行きますよ。……何か欲しいものはありませんか? なんでも買ってあげましょう。スミレさんには内緒にしてくださいね」
「やったぁ!」
なんでも物で釣ろうとするのは貴方の悪い癖だ、と何度か言われたことがある。あんまりこの子を甘やかさないで、とも。しかしノエルにとってはこれが一番わかりやすい手段なので、愛しい人に物を買い与えるのはやめられそうにない。そう言ったスミレにも懲りずに贈り物を続けているから、彼女も彼女でノエルの悪癖を改めさせることを諦めたようだった。
デルフィーヌの手を取って階下へ降りる。ポタージュとトーストのいい匂いがした。それにつられるようにまっすぐ食堂に向かう。台所ではスミレがオムレツを焼いていた。ノエル達に気づき、スミレは朗らかに笑う。
「あっ、ノエルさん、おはよう! フィーも、起こしにいってくれてありがとうね」
「おはようございます。気分はいかがですか?」
「大丈夫。やっぱり落ち着いてきたみたい。この子にも挨拶する?」
スミレに促されるままにノエルはかがみ、少し膨らんだ彼女のお腹をさする。スミレに宿った小さな命は、ノエルの手に反応したのか微かに動いた。ノエルは顔をほころばせる――――ああ、なんて幸せなんだろう。
今スミレに対して抱いている想いは、七年前に失った恋心とは別種のものなのかもしれない。それでもノエルは確かにスミレを愛していた。彼女の愛に応えられるよう、同じだけのものを彼女に返しているつもりだ。
亡命から二年後には長女が生まれ、今は二人目の子供がスミレの胎内に宿っている。それが少しこそばゆくて、けれどとても嬉しくて。生まれてきたデルフィーヌのことも、これから生まれるまだ見ぬ我が子のことも、ノエルは等しく愛していた。
「ああ、そうだ。久しぶりに雪が止みましたから、デルフィーヌさんと買い物に行こうと思うのです。何か必要なものはありますか?」
「ならわたしも一緒に、」
「駄目に決まっているでしょう。滑りでもしたら大変だ。貴方は家でゆっくりしていてください。昼には帰ってきますから」
「うっ……。ありがとう、ノエルさん」
いつものように朝食の支度を手伝いながら問う。ノエルの一番の仕事はおぼつかない手つきで母の真似をしようとするデルフィーヌをさりげなく支えることとはいえ、三人でやればすぐに終わった。さっそく席について食べ始める。スミレ手製の料理はとても優しい味がした。
*
デルフィーヌが転ばないよう手を繋ぎ、緩やかな丘を下って街へと向かう。仮面修道会の伝統である、フェリシテと同じ長い三つ編みはもう結う必要がない。ばっさり切ったため、今一番長いのは肩口で揃えた双鬢だ。歩くたびにその毛先が視界の端でちろちろ揺れていた。
今ノエル達が暮らしているのは、自宅と医院を兼ねた三階建ての屋敷だった。庭も含めれば敷地はそれなりに広い。土地を買って家を建てて、それでもまだ貯金は底をつかなかったのだから、我ながらどれだけ貯めこんでいたのか恐ろしい。
素性の特定を避けるため、ノエルは祈術師としての顔を完全に捨てている。女神信仰のないこの国では、祈術師という概念自体がなかったからだ。今ではせいぜいがスミレとデルフィーヌのために身代人形を作るぐらいで、もうそれを生計を立てる手段にすることはしていない。
代わりにノエルは医師として生きていくことにしていた。街からは離れているが不便というほどの距離でもなく、腕も認められたのか人々からの評判はいいらしい。ありがたい話だ。
「あらまぁ、先生とフィーちゃんじゃないか。お父さんと一緒にお買い物かい? ここ数日外に出られなくて退屈だったろう?」
「うん。でもね、お父さんとお母さんがたくさん絵本をよんでくれたから。それに、これからお父さんとあそぶんだよ!」
「おやおや、よかったねぇ」
雑貨屋の細君がデルフィーヌと話している間、軽い挨拶だけしたノエルは品物を見繕う。スミレに頼まれた物のリストと商品棚を見比べながら籠に物を入れていった。
「こちらをお願いいたします。それと、ご主人はどちらに?」
「散歩に行ってるよ。どうせその辺りをぶらぶらしてるだけだろうけど……どこかで誰かに頼まれごとでもしてるんじゃないかねぇ」
細君はからからと笑った。雑貨屋の主人は何でも屋でもある。雑貨屋の商売のほうは細君が熱心に行っているので、主人はそちらに精を出しているらしい。
ノエル自身主人に何でも屋の仕事を頼みたかったので、その言伝を頼んで店を出た。ノエルも大工仕事やら何やらで怪我をしがちな主人を安く診ているので、このあたりは持ちつ持たれつだ。
「お父さん、フィーね、あたらしい絵本とがくふがほしいの……」
「ええ、いいですよ。では、本屋にも寄っていきましょうか」
袖を控えめにつまんで言われる可愛いおねだりを拒めるわけもない。ノエルは相好を崩し、食料品を扱う商店が並ぶ通りに向かいかけた足を本屋のある方角へと進める。まだ十時にもなっていない。多少寄り道をしても、昼には帰れるだろう。
改めて食料品を買い込む。おおらかで人懐っこいのはこの国の気風のようで、どの店もいつものように少しばかりおまけをしてくれた。購入した分も含めて一気に荷物が増えたが、無限収納のおかげで持ち運びにはまったく困らない。
ただの買い物だというのに、ここまで優しくされるというのはいつまで経っても慣れない。今日のようにノエルが休みの日ではないか、外に出るのが危なっかしい日でなければスミレが買い物に行っているが、そこでもやはりかなりよくしてもらえているそうだ。
親しくなったご婦人がたからこの国の郷土料理やら刺繍の図案やらも教えてもらっているらしく、スミレもスミレですっかりこの国になじんでくれたらしい。異国から来た若い夫婦を詮索もせずに受け入れてくれたこの街の住人には、感謝してもしたりなかった。
「先生! いいところで会ったな、これから医院に行くところだったんだ!」
冷たい風で乱れたデルフィーヌの黒みを帯びた赤い髪を整えていると、向こうから男が息せき切らして駆け寄ってきた。雑貨屋の主人だ。
「おや、エーミールさんではありませんか。私も貴方に雪かきのお願いをしようと思っていたので、ちょうどよかったのですが……何かご用でも?」
「実は、さっき東門の外で行き倒れの旅人を見つけてな。今はとりあえずギーナ婆さんのところで寝かせてるんだが……休みのところすまねぇが、ちょっと来てくれねぇか?」
「ふむ……。わかりました、すぐに行きましょう。構いませんか、デルフィーヌさん」
「うん、いいよ!」
ギーナは東門に最も近い宿屋の女将だ。ここからならばさほど遠くない。肌身離さず持ち歩いている腰の無限収納には、いざというときのためにある程度の薬や器具を入れている。デルフィーヌを一人で家に帰すわけにもいかないので、そのままデルフィーヌの手を引きエーミールの後をついていった。




