七年後 2
件の旅人は客室で寝かされていた。デルフィーヌをギーナに預けて別の場所に行ってもらい、心配そうなエーミールの横で診察を始める。よく日に焼けた、古傷だらけの旅人だ。痛んだ赤い髪には白いものが混じり、顔つきもひどく険しい。濃いくまのある目元とこけた頬が、彼の半生の壮絶さを物語っていた。
きっと、ずいぶんと過酷な道のりを旅してきたのだろう。エーミールと同じ壮年の、しかし彼より疲れきって枯れ果てた男だ――――けれどその旅人が本当は自分より年下で、せいぜいまだ二十を少し過ぎた程度の年齢であることをノエルは知っていた。
「どうやら、過労と栄養失調のようですね。そのうち目を覚ますでしょう。ですが、凍傷もかなりひどいようです。エーミールさんが見つけてくださるのがあと一刻遅ければ、どうなっていたことか。何か食べやすくて栄養のある物を食べさせていれば多少は回復はするでしょうが、衰弱しきっているようですので、」
「ぅ……ここ、は……?」
ノエルが言い終わる前に旅人は目を覚ました。落ち窪んだ目がぎょろりと動く。
しかしアプリコットの色をしていたはずの瞳は白く濁っていた。心労のせいか、あるいは怪我や疲労のせいか、どうやら視力までも失ってしまったようだ。
「おっ、早速起きたか! よかったよかった。ここはエッセの、駆ける軍馬の蹄亭だ。覚えてるか? あんたは東門のとこで倒れてたんだよ。あんたは運がいい。なにせここはエッセで一番飯がうまい宿屋で、ヴィンディアで一番腕のいい医者先生がいるからな」
「エッセ……? ああ、そういえば……オレはヴィンディア帝国に……」
「無理に喋らず、起き上がろうとしないでください。治るものも治りませんよ」
盲目の旅人に静かに告げる。旅人は素直に従った。か細い声で返事をし、彼はゆっくりと目を閉じる。しかしすぐに目を開けた。
「鞄の中に、金がある……。礼は、そこから……」
「私はいりません。そちらはギーナさんと、エーミールさんがお受け取りください」
「俺も見つけただけだし、別に金はいらねぇんだけどな。ま、婆さんにもらってもらえばいいか。タダで泊めてくれなんて言うわけにもいかねぇし」
きっぱり拒絶したノエルに、エーミールは少し不思議そうな顔をしつつも旅人の荷物を漁る。じゃらりと音のする革袋を見つけ、彼はそのままギーナのところに行った。どれだけあればいつまで旅人を泊められるか尋ねるのだろう。
「……医者、そこにいるのか」
「ええ。私ならばここにおりますが」
「オレはいつごろ、動けるようになる……? こんなところで、じっと寝ているわけにはいかないんだ……。早く、早く……見つけないと……」
「……貴方がどれほど過酷な旅に身をやつしていたかは存じませんが、気を急くあまり身体を壊しては意味がないでしょう。それではいかなる目的も達成できませんよ」
「オレの身体……なんて、どうでもいい……! オレは、国と主君のためなら……」
たとえこの身が朽ちても、探し出さなければいけないんだ。あの日忽然と姿を消した聖女と本物の王子を。そうでなければ我が祖国はいつまで経ってもあの忌々しい隣国の属国のままで、すべての責任を負わされて処刑された主君の仇も討てないから――――息も絶え絶えになりながら語る淪落の旅人に、ノエルは憐憫の目を向けた。
「無意味なことを。そんなことのため、貴方は一生を棒に振っているのですか?」
「……それでもオレは、諦めるわけにはいかないんだ。今は流浪の身に落ちてはいるが……これでも、祖国にすべてを捧げた騎士だからな。陛下が一体何をした……? たとえカミーユに裏切られても、陛下のすべてが偽りだったとしても、オレだけは……!」
盲目の旅人は言う。自分はもともと、とある国の王に仕えていた騎士だったと。
旅人の国は、不思議な血筋の一族を国主とする三つの国家のうちの一つだった。王は隣国の王女を妃として娶ったが、何故だか二人の間に生まれた子にはその国の王族ではなく妃の国の王族の証があったという。
戸惑う王妃の国の老王に、王妃の兄であった王子は進言した。「我が国の王の証が隣国に嫁いだ妹の子に宿っているなら、あの国の次の王は我が国の王でもある。すなわち、我が国の統治下にあの国を置くよう女神が仰せなのだ」と。
当然旅人の国はそれを鼻で笑った。しかし共に王に仕えていたはずの魔術師の告発により、無関係だったはずの三つ目の国が声を上げたのだ。
「先王の子はもう一人いた。実は本当の王子は、とっくに死んだその男だけで、今の王はまったくの偽物だったのかもしれない」……魔術師のその主張を裏付けるだけの根拠があったというもう一つの国は、彼の言葉を信じて妃の国と結託して旅人の国に攻め込んだ。
王位を簒奪した偽りの王を廃せ、女神の怒りを買った罪人を罰せ、繁栄と平和を奪った者に制裁を。二つの国はそんな大義名分を掲げて旅人の国を蹂躙したという。結局戦には敗れ、彼の国は王妃の国の属国となってしまったらしい。
王の証は決して傷つかない。しかし旅人の主君が持つものだけは人の力で損なわれた。それは、その証が人の手によって刻まれたものだという証明だ。
王の証が偽物だと暴かれてしまった彼の主君とその母は、簒奪者として殺された。元凶となった魔術師は戦乱に乗じてさっさと逃げていた。残された自分は、せめて反乱の旗印となる者達を探し出そうと亡命した。彼らを見つけ出せば、きっと祖国を取り戻せると信じて。そのために自分は、あてもない旅を三年も続けている。
「……愚かな」
いくら止めても喋り続ける彼の言葉に、ノエルは小さくため息をつく。その呟きを、旅人は別の意味で受け取ったようだった。
「あの国の民ではないお前には、わからないだろう。だが、それほどまでに……女神が授けし炎は、偉大なんだ……。それにオレは、あの三人が……本当に死んでいるとは、思えない。王子とともに逃げた女については、どうでもいいが……あの女の傍に、真の王子がいるはずだ」
与えられた繁栄と平和しか知らない国々に未来などない。何の手掛かりもないのに今まで彷徨い続けられたのは、それすらもわからなかったからだろう。
女神の名における繁栄と平和が約束されない今、戦争が起きるのもある意味では必然のことだ。何百年も戦争をしてこなかった国の軍事力などたかが知れていて、しかし二対一ならどちらに軍配が上がるかなんて目に見えている。三王国の国力は同程度なのだから。
ノエルはそれを知っていた。知っていて、それでも考えることをしなかった。そこまでする義理など自分達にはなく、すべてを捨てる覚悟を決めた以上はそれこそが背負うべき咎だったからだ。
「あの女を使えば……王子に、言うことぐらいは……聞かせられる……」
「貴方の他にも、そのお三方を探してくださる方はいらっしゃるのですか?」
「いや……。誰も、オレの話は信じなかった……。全員、諦めているんだ……。これは、女神を欺いた簒奪者を信じ込んでいた天罰だなんて言って……」
カミーユがクロードを売ったというのは予想外だったが、祖国を捨ててあっさり逃げたということはカミーユについては気にすることもないだろう。もともとノエル達を探しているのはアンリだけのようだし、彼が最後の追手と見ていい。
クロードの子に他国の聖痕が宿ってしまったのは、そちらの国の王位継承者にまだ子供がいなかったために起きてしまった事態なのだろう。カミーユの主張を裏付けられるのはサフィルスのはずだ。ということは、クロードが娶ったのはフォレメロードの王女だろうか。どちらの国にせよ、生まれた孫に他国の国章が出てしまったというのは、母にとっては最大の誤算だったはずだ。
ラムグルナを統べるのが偽りの王だというのは、サフィルスとフォレメロードにとっては攻め込む格好の理由になる。それでもノエルには、祖国が滅びるきっかけを作ったことに罪悪感などまるでなかった。むしろ、三王国ともども滅びたほうがいいとすら思える。……そうすればきっと、仮面と共に生きたかつての同胞達も楔から解き放たれるだろう。
彼らも仮面を捨てて、故郷を捨てて、人生をやり直せた。戦乱に乗じて流浪の民となり、“全”でいる必要がなくなった。己の罪を理解しながらも、どうしてもそんな夢を見てしまう。けれどそんな都合のいい願いから目をそらし、ノエルは再びアンリを見た。
「もしリリ様を見つけられなくても……真の王子は、子をもうけているかもしれない。あいつは、女と逃げた……七年も経っていれば、子供ぐらいはいるはずだ……。ラムグルナの、王の証は……きっと、そいつに……。せめてその子供を引きずり出して、王位を継がせられれば……。大義のためなら……何をしても、女神はお許しくださるだろう……」
勘は鋭い。運もあるようだ。しかし若さすら失い、弱り切って盲いた今のアンリに、気力だけで何ができるのか――――それでも、かかる火の粉があるなら放置するわけにはいかない。
「そもそも、あいつが逃げ出しさえしなければ……! あんなつまらない女のどこにほだされたのかは知らないが……あの男が心中なんてしなければ、こんなことにはならなかったんだ……! 種馬としてでも……一生、飼い殺されていればよかったのに……!」
「さて、私はそろそろ行きましょう。薬はこちらに置いておきます。これを飲めばよく眠れますよ」
「……ああ、ありがとう……。医者、名前を訊いても……? 消えた王子を無事に祖国へ連れ戻せたら、必ず、この恩は……」
ことり、錠剤の入った小瓶を置く。グラスに水を注ごうとして――――しかしそれは無駄に終わった。何故ならもう、アンリは静かに息を引き取っていたのだから。
脈を取る。彼が目を開けることは二度となさそうだった。とっくに限界が来ていたのだろう。摩耗した身体はわずかな安らぎを得て、背負うものを吐き出し終えて、ノエルによる終止符を待たずに最期の時を迎えたのだ。緩やかに、穏やかに、眠るように。
ノエルは直接手を下していないが、アンリはひっそり死んでしまった。結果としては同じことだ。渡したのは、そういう風に死なせる毒だったのだから。
「せめて夢の中では、貴方の願いが叶いますように……なんて、私には言えません。たとえ死者への手向けであっても、心にもない祈りなど捧げはしませんよ。私が祖国の地を踏むことは二度とありませんから」
役目を失った毒薬の小瓶をしまい、デルフィーヌを迎えに行く。もう手遅れだったとエーミール達に伝え、ノエルはデルフィーヌを連れて家路を急いだ。まだ若いが信頼できる腕のいい医者と彼の娘を、宿屋の女将と雑貨屋の主人は疑問など何も抱いていないように送り出してくれた。
当然だろう。彼らはノエルの素性も、旅人との関係も知らないのだから。身寄りのない旅人の埋葬は、役人に任せればやってくれるだろう。女神信仰がないことと関係しているかは知らないが、この国にはケガレという概念もないようだった。
「人は、声から忘れていくそうですよ。……七年という歳月は、やはり長いものだったようだ」
「お父さん?」
「デルフィーヌさんは、お姫様になりたいですか?」
「おひめさま? んっと、フィーは、お父さんとお母さんのおひめさまなんだって。ギーナおばあちゃんが言ってたよ。だから、フィーはもうおひめさまなんだ」
人を殺した手を、祖国を滅ぼした手を、無垢な少女は何の疑いもなく握り返してくれる。
彼女の手の甲に浮かんだ真っ赤な炎のしるしは、ただの変わった形の痣だ。そんなもののために、この子を歪んだ国の女王になどさせるか。
その覚悟こそノエルの責任だ。ノエルが示す愛の形だ。スミレに対する歪みきった純粋な愛は、一から育み直したところでその重さに寸分の揺らぎもない。むしろ一度失ったことでよりいっそう研ぎ澄まされたそれは、笑顔の仮面の下に隠れている。そして彼のその愛のありかたは、他のものに対しても同様だった。
「ええ、そうですね。貴方は私達の大切な子ですよ。国や王位などなくても、貴方は私達のお姫様です。……デルフィーヌさんも、スミレさんも、誰にも奪わせはしませんとも。何故なら私は、貴方達を愛していますから」
「フィーも、お父さんとお母さんがだいすきだよ!」
緩やかな丘を登る。冷たい風に乗って聞こえる優しい旋律はスミレが奏でるピアノの音だろう。スミレはノエル達の帰りをきっと待っている。さあ、帰ったら昼食の支度をしなければ。
ようやく築けた、温かくて幸せな夢のような時間。やっと現実のものになった甘いそれを噛みしめて、ノエルは静かに微笑んだ。




