32
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気づけばすみれは最初に用意された部屋にいた。
どこをどうやって部屋に戻ってきたのか、今まで部屋で何をしていたのか、何も覚えていない。儀式の終盤辺りで跪いたノエルが何か言っていた気がするけれど――――あれは、泣き暮れるすみれをなだめるための適当な台詞か、現実を否定する心が視せた都合のいいまぼろしだったのだろう。
いつの間にか日が暮れていたようで、窓の外はすっかり暗くなっていた。曇り空のせいか、月や星の明かりは地上まで届いていない。
ノックの音が響いたのはそんなときだ。「スミレさん、いらっしゃいますか?」続けられた声はすみれのよく知るあの人の、けれど今ではとても遠くなってしまった青年のものだ。
一体何の用だろう。こわごわとドアを開ける。ノエルは警戒するように廊下をさっと見渡し、滑るように部屋の中に入った。
「失礼いたします。人に見咎められては少々厄介なことになりますので」
「どうしたんですか……ノエル、さん?」
尋ねる声が上ずっているのは、しばらく喋れなかったからではない。まだ彼のことをノエルと呼んでいいのだろうか。彼と目も合わせられなかった。そんなすみれを見下ろし、仮面を外したノエルはふっと微笑む。
「何度も言っているでしょう? 私は私を裏切りません、と。私が、この程度で貴方から離れるとでも? ……大丈夫ですよ、スミレさん。誓いの儀での私の態度は、半分は彼らに聞かせる演技でしたから」
「……え?」
「あのとき私は、貴方への恋心を失いました。貴方に捧げた私の愛が、女神のお気に召すとは光栄の至りですね。……ですが、よく考えてみてください。スミレさんへの愛情が奪われたからといって、スミレさんに対して無関心にはなりませんよ。私が貴方に対して抱いているのは、愛情だけではないのですから」
人としての敬意も、隣人への好意も、依存する心も、庇護の念も、純粋な友情も、感謝の意志も、異性に向ける劣情も。恋という言葉ではくくれない、清濁交えた多種多様な感情はまだこの胸にある。
スミレを愛していたという事実は確かに失った、失ったが――――今まで一緒に見てきた甘い夢の記憶が消えることはない。そう語るノエルの優しい声音に、嘘があるようには見えなかった。
「貴方への愛を失ったなら、何度でも貴方に恋をすればいいのです。むしろこれは私には福音ですね。いかなるごまかしや言い訳をする必要なく、初めからやり直せるのですから」
「じゃあ……ノエルさん、貴方はわたしのことが嫌いになったとか、どうでもよくなったとか、そういうわけじゃなかったの……?」
「もちろんです。あの場ではああ言うべきかと思い、スミレさんに対して心にもないことを言っただけに過ぎません。理由が必要だったのですよ、私達が絶望しているのだと周囲に思わせるだけの理由が」
ノエルは薄いピンクの小瓶を取り出して告げる。飲むと仮死状態になる毒薬です、と。
「いずれ私達は殺されるでしょう。誓いの儀を終えた贄など邪魔になるだけです。ですから、殺される前に心中してしまえばいい。私達の遺体は納骨堂に運ばれるでしょう。放置すればケガレになってしまいますからね。そこから抜け出し、改めてイルバに行くのです。……死体がなくなれば、私達の強すぎる無念が消えずにケガレになったと人々は思い込む。これでようやく、私達を追う者はいなくなります。私達は、何の憂いもなく異国へ旅立てるのです」
「……」
すみれはノエルの持つ小瓶を恐る恐る見つめた。これを飲めば、夢が夢で終わらなくなる? ノエルと過ごす時間が、待ち望んでいた未来が、すべて現実になる?
もう全部嘘でも構わなかった。もしもこれがもたらすものが本物の死だとしても喜んで飲み干そう。優しい嘘に抱かれて、幸せな夢に包まれて逝けるなら本望だ。すみれはただ、ノエルと一緒にいきたいだけなのだから。
「万事順調に進んでいます。私と聖女殿が誓いの儀を済ませたことで、もはや代替の贄に意味はなくなりました。聖女殿は無事に元いた世界に帰り、」
「ど、どういうこと!? なんで璃々ちゃんが!? わたし、何も聞いてないんだけど……!」
「スミレさんには言っていませんでしたからね。小鳥の血だと偽って、聖女殿の血を差し上げたのです」
知らなかった。璃々がまさかすみれに代わって誓いの儀をしていたなんて。手足がすくむ。璃々にはひどいことを言った。何も伝えられないまま別れるのは、きっと間違っている。
「わたし……璃々ちゃんに謝らないと……!」
「……聖女殿は中庭にいるはずです。先ほどお会いしたときにそうおっしゃっていましたから。ですが、いつ空が晴れるかわかりません。駆けつけていく暇はありませんよ。この部屋の窓からなら、聖女殿を見つけられるのでは?」
弾かれるように窓に向かう。大きく窓を開けて中庭を見下ろすと、芝生の上に佇んでいる少女の影が見えた。璃々だ。
「りっ……璃々ちゃん!」
声を張り上げる。少女がこちらを見た。すみれは喋れないことになっている。だが、そもそもこの女神の宮殿においてすみれの声を覚えている人がどれだけいるだろう。どうせこれから“死ぬ”のだから、この声を聞かれたとしても困らない。
「わたし……ごめん、ごめんねっ……! あと、ありがとう……!」
「んーん! あたしはあたしのために、やんなきゃいけないことをやっただけだからー! あたしのほうこそありがとー!」
璃々はぶんぶん手を振っている。元気でね、と互いに言葉を贈っていると、不意に月を隠していた雲が動いた。
月明かりに照らされた璃々は、まるで光に溶けるように消えていく。もう璃々がそこにいたという痕跡はどこにもなかった。だが、これでいいのだろう。湿っぽい別れなど、璃々は望んでいないようだったから。
「そろそろよろしいですか、スミレさん?」
「……はい。ねえ、ノエルさん。わたし、貴方に出逢えて幸せでした。だからノエルさんも、わたしといてよかったって思ってくれるように……何度だって、その、好きになってもらえるようにしますから」
頬を赤らめてたどたどしく伝える。ノエルはそんなすみれを抱き寄せた。規則的な鼓動が聴こえる。ノエルとは比べものにもならないぐらい高鳴るすみれの心臓の音は、彼にも聴こえてしまっているのだろうか。
「でもわたし、ちょっと怒ってますからね。たとえ半分演技でも、ノエルさんにあんなことを言われてすごく悲しかったし……それに、わたしをのけものにして、璃々ちゃんと二人で色々やってたんでしょう。わたしのためだっていうのはわかりますけど……二歳しか違わないのに、大人面しないでください。わたしだって子供じゃないんですよ」
「おや、それは申し訳ございません。……ふふ、私は罪を重ねてばかりだ。一生かけても償いきれるかどうか。これから私は、貴方に対して犯した罪の数々を背負って生き続けるほかないのでしょう」
ノエルは薄桃色の小瓶を開けた。妖しく濡れる黒紫の瞳に吸い込まれそうになる。彼からもう目がそらせない。
「もしも贖罪の機会を与えてくださるのなら――もう一度、貴方を愛してしまうことを許してくださいますか?」
答えは決まっていた。すみれが返事するが早いか、ノエルは持っていた薬を呷る。小瓶はあっという間に空になった。次の瞬間、唇に柔らかくて温かいものが触れる。流しこまれる毒はとても甘い。
「……好きでもない女の子にも、こういうことできるんですか。誰にでもしてるんですか」
与えられた分をすべて飲み干して、すがるように彼の服をきゅっと握る。いつか尋ねたことと似たような問いかけに、ノエルはぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「まさか。貴方だからに決まっているでしょう?」
だんだん身体から力が抜けて、頭がぼうっとしてきた。踊るように手を取られて、二人でベッドに倒れ込む。穏やかなまどろみに身をゆだね、手を繋いだまま目を閉じた。
「もう何も考えずともよいのです。……おやすみなさい、スミレさん」
「はい、ノエル……さん……。ずっと、いっしょに……」
「……言われずとも、そのつもりですよ。共にいきましょう……。私は、さいごまで貴方のそばにいますから……」
ノエルの手からも力が抜けていく。彼にも薬が効いてきたのだろう。深い眠りに誘われ、二人はともに夢に溺れていった。
* * * * *
「――ッ!」
「璃々? どしたの?」
近くの席から不思議そうに呼びかけられる。亜由だ。親友の片割れは、記憶にある彼女とまったく変わらない姿をしていた。
進級したばかりの教室、なじみのない顔の混ざるクラスメイト。黒板の端に書かれた日付は、璃々がラムグルナに行った日のものだ。ラムグルナにいる間は時間が止まっていた……いや、あの日まで時間が巻き戻ったのだろう。
周囲がだらだらと帰り支度を進める中、璃々の後ろの席には誰もいなかった。すみれの席だ。ぽつんと机と椅子だけ残ったそこは、一応放課後ということもあってさほど違和感がある光景とは言えない。きっともう、そこに彼女が座ることは二度とないのだろうけど。
「ね、すみれちゃん知らない?」
「一条さん? 知らねーけど? もう帰ったんじゃね? なに、なんか用事でもあった?」
「そういうわけじゃねぇけどさ。ちょっと気になった的な?」
どうやら、璃々とすみれが光に飲み込まれたことは誰も見ていないらしい。いや、記憶が改ざんされているとでも思ったほうがいいのだろうか。何はともあれ、璃々が再び日常生活を送ることに支障はなさそうだ。
「璃々ー、ぴっぴが迎えに来たよー」
「マ!?」
教室の入り口から気だるげに璃々を呼んだのは、隣のクラスにいるもう一人の親友の麻未だった。
彼女の隣には悠磨が立っている。春休みに入る直前に告白されたために璃々達の仲を知る生徒は少なかったようで、何人かがちらちらと驚きと好奇心に満ちた目を璃々や悠磨に向けていたが、璃々はちっとも気にしていなかった。
「ちょっと待っててゆーま君、秒で支度するからっ!」
「別に焦らなくていいって」
悠磨のクラスの担任は、ホームルームがやたらと長いことで有名だ。だから余裕をもって帰り支度をしていたのだが、まさか彼のほうが早いなんて思わなかった。
悠磨は笑っているが、そういうわけにはいかない。彼はサッカー部のエースだ。早々部活はサボれない。しかし今日はコーチの都合で部活が休みになるという。つまり今日は、なかなか実現できそうにない、付き合ってから初めての放課後デートができる日だ。ずっと楽しみにしていた制服でのデート、一秒たりとも無駄にできるか。
「お待たせ!」
悠磨の手を取り、璃々は満面の笑みを浮かべる。生き生きと輝く彼女の瞳には一点の曇りもない。そんな璃々を見て、悠磨はまぶしそうに目を細めた。
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