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* * *
璃々がまた来た。そんな報せがすみれのもとに届いたのは、夕飯からしばらく経ってからのことだった。今度は無理やり押しかけてくるようなことはせず、おとなしく部屋の前で待っているらしい。璃々には悪いが、やはり彼女に会う気はしない。断ろうと思ったすみれの意志は、侍女の次の言葉を聞くとたちまちしぼんでしまった――――聖女様は、“ノエルのオレンジティー”を手土産に持っている。
「やっほー。さっきぶりだね、すみれちゃん」
「……」
人払いをさっさと済ませる彼女には、数時間前の怯えきった小動物のような姿など見る影もない。すべてが変わってしまう前となんら変わらない明るさで、璃々はすみれの前に立っていた。
“ノエル”という名前だけなら、クロードに聞いたのかもしれない。けれどカーディナルがオレンジティーを好んでいるのは、すみれとノエルしか知らないことだ。クロード経由で彼の名を知ったのなら、その紅茶をだしに使うことはできないだろう。璃々はノエルに会ったのだ。会って、彼からその紅茶缶を託された。
「はいこれ。……あっ、みんなにはあたしからのプレゼントだってことにしといてね。誰もノエルが誰かなんてわかってないみたいだし、バレないとは思うけど」
「なんで……」
あれだけすげなく追い返したのに、どうしてまた来るのか。何故わざわざノエルからの贈り物を届けてくれるのか。疑問は尽きず、けれど言葉にはならない。押しつけるように渡された紅茶缶に視線を落とすすみれに、璃々は朗らかに笑いかけた。
「バカにはバカの意地があるってこと。……あたしが勝手にベラベラ喋るだけだし、すみれちゃんは何も言わなくていーからね」
鈴を転がしたような声は続く。カーディナルから言伝がある、と。
ひとつ――誓いの儀を台無しにする計画と、身を守るための策がある。
ひとつ――貴方は何も心配しなくていい。
ひとつ――すべてが無事に終わったら、また一緒に紅茶を飲みましょう。
「てかさ、すみれちゃんって意外に男の趣味悪くね? けっこーヤバそうだったよあの人。ま、王子とかと比べたらマシかもしんないけど」
「それは余計なお世話じゃないかなぁ……?」
「あははっ! そりゃそーだ。……あっ、先に謝っとくね。あたし、かなり無責任なんだ。じゃあそういうわけだから、カーディナルさんとお幸せにね?」
「……え? 璃々ちゃん、何を、」
言いたいことだけ言って、璃々は嵐のように去っていった。引き留める声は届かない。聖女のはずの璃々の真意がつかめず困惑しながらも、すみれはノエルの紅茶缶を開けた。
見た目こそ紅茶缶なのだが、茶葉の類いは入っていない。緩衝材のようなものに小瓶が二つ刺さっている。その傍には紙ナプキンが添えられていた。
小瓶はどちらもすみれの親指ぐらいの大きさだ。どろりとした赤黒いものと、透き通った薄紫のもの。前者はまるで血のようで、後者に至っては見当もつかない。けれど小瓶の正体は紙ナプキンに記してあった――――小鳥の血と、一時的に喉を焼く毒薬だと。
息が詰まる。そんなものをどうして。わけがわからず、紙ナプキンの文字を必死で目で追う。答えはすべてそこに書いてあるようだ。
これは誓いの儀からすみれを守る策だ。事前に毒薬を飲むことで声を枯らして、小鳥の血を垂らす。そうすることで聖職者は、すみれが声を女神に奪われたと錯覚するだろう。儀式の直前は恐怖のあまり喋れないということにでもしておいて、いざ血を垂らしてからは声が出ずに驚いたふりでもしてみればいい。喉は数時間と経たずに治るし、ノエル自身に対しても別の策を講じているので、何も心配はいらない――――必要最低限の情報しかない走り書きだが、それでも不安に揺れる心は落ち着きを得た。
「ノエルさん……。こんなときまで、わたしのこと……」
すみれは愛しげにそれを両手で包み込んだ。贄が小鳥では、女神は納得しないだろう。けれどそんなことを言ったらすみれだって、女神に満足してもらえるとは思えない。美しくさえずる可愛い小鳥のほうが、むしろ女神はお気に召すのではないだろうか。そのさまを想像してくすりと笑う。
女神の祝福とやらがもらえなかったら、きっとクロード達は怒るだろう。だが、誓いの儀の成功と失敗はどうやって判断するのだろうか。繁栄と平和なんて抽象的なもの、その場でわかるわけがない。女神様がじきじきに現れて結果を伝えるならまだしも、すみれとノエルがそれぞれ何かを失ったふりをすることができれば、一時的にであれ人々の目はごまかせるだろう。みんなが油断した、その隙をついて逃げ出せばいい。
ノエルはまだ何も諦めていなかった。なら、すみれも投げやりになるわけにはいかない。ぼうっとする頭を振り払い、侍女達に見つかる前に秘密の贈り物をしまい込んだ。
*
まだ陽の昇らないうちから連れ出され、誓いの儀を行う祭壇がある部屋に通される。着せられた服はゆったりとしていて、小鳥の血の小瓶を隠すのに不足はない。
一言も言葉を発さないすみれに、人々は何の反応も示さなかった。彼らにとってすみれはただの生贄だ。喋らないこと以外は従順にしていたから、すみれがどんな態度を取っていても気にしないのだろう。
「……スミレさん?」
「!」
位の高そうな聖職者達と、璃々をはじめとした禊の旅の他の同行者達。彼らの中に混じり、異彩を放つ青年が祭壇の前で佇んでいた。白い服に白い仮面、唯一色づく深緋の髪。すみれと似たような意匠の服は、彼もまた女神に捧げられる贄である証なのだろう。周囲を歩く使用人達に引き立てられるような形で、すみれは彼――――ノエルの隣に並ばされた。
「ご安心を。……打開策はまだあります。今はただ、流れに身を任せていてください」
ノエルはすみれを安心させてくれるように手を両手で包み込んでくれる。顔をほころばせ、すみれはこくりと頷いて彼の手を強く握り返した。
荘厳な間に、一人の聖職者の咳払いが響く。祭壇の後ろ、すみれとノエルの眼前にいる老爺だ。恐らく、彼が誓いの儀を取り仕切るのだろう。繋いだ手にじろりと視線を移されて、すみれは惜しみつつも手を離した。
聖職者が何か口上めいたものを述べはじめるが、芝居がかった大仰なそれはもはやすみれの耳には入らない。深呼吸を繰り返し、忍ばせた小瓶に手を伸ばす。祭壇の上には魔法陣のような溝が刻まれていた。ややあって、過剰なまでに装飾の施されたナイフを持った男達がやってきた。儀礼用の短剣のようだ。何やら老人は回りくどいことを言ってきたが、要約すればこの刃を握り締めて祭壇に血を垂らせということらしい。
「さあ、その手をこの上に。続く百年の繁栄と平和の礎よ、尊き血の犠牲をここに」
ノエルとすみれは目配せをし、言われるがままに手のひらを祭壇にかざした。差し出された刃を、ノエルはためらいもなく強く掴む。仮面は痛みに歪まず、ノエルも悲鳴一つあげない。けれどぼたぼたと落ちる鮮血がその傷の深さを物語っていた。
「……ッ!」
すかさずすみれはコルクをきゅぽんと開けた。聖職者達の声も聞かずに小瓶をさかさまにする。小鳥の血は吸い込まれるようにして祭壇に滴っていった。溝を通る血は、ノエルの手のひらから流れる血と混ざりあっていく。ちらりとノエルを見やると、ノエルは何故か後ろを振り返っていた。
「ぁ……ああああああああああっ!?」
彼の視線を追おうと思った途端、祭壇がまばゆい光を放った。響き渡った少女の悲鳴に、誰もが彼女のほうを見る。顔を押さえた璃々が、その場に崩れ落ちるように座り込んでいた。
(璃々ちゃん……!)
思わず彼女の名を呼ぶ。ぱくぱくと動く口は何の言葉も紡げない。それは自ら毒を呷ったすみれにとっては当然のことで、しかし事情を知らない者からすれば別の捉え方をされる。
「大丈夫だよ、リリ。優しい君には耐えがたい光景だったかもしれないけれど、もう終わったようだ。それに……ほら、どうやらさほどひどいことにはならなかったらしいからね」
クロードに嘲笑を向けられ、璃々に駆け寄りかけた足がはたと止まった。目を見開くすみれの姿は、声が出ないことに驚いていると解釈されたらしい。すみれにとっては都合のいい勘違いだ。
クロードに助けられ、璃々はすぐに立ち上がった。特に何事もなかったようだが、すぐに顔を手で覆ってうつむいてしまう。せっかく勘違いされていることだし、どうせなら声を失ったともっと印象づけておこう。何を言っても誰にも届かないのをいいことにして、考えつく限りの罵倒の言葉を周囲にぶつける。声を失って取り乱す少女を演じながら、すみれはノエルを見上げた。
(成功したよ、ノエルさん! わたしはなんともないから、)
怪しまれない程度に無事を伝える。けれど、ノエルの様子がおかしかった。縋るすみれを、ノエルは一歩引いたように見下ろしている。
「侍女殿……貴方は、話せないのですか? 女神は、貴方の声を欲したようですね」
何を当たり前のことを。彼がくれた劇薬で、一時的に喋れなくなっただけなのに。これも演技の一環だろうか。本当に?
隠しきれない不安がじわりと溢れ出す。誓いの儀に臨むにあたって、ノエルは自分にも何か対策を施していたはずだ。けれどノエルは、ためらいもなく自分の血を祭壇に垂らしていた。彼は一体どうやって、女神の目をごまかしたのだろう。
「……今の貴方を見ても、私の心はぴくりとも動かない。その事実が、たまらなく悲しいのです」
左手から滴る血はそのままに、ノエルはぽつりと呟く。彼が奪われるのは感情だ。喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、憎しみ、そして愛。それから、それから。ノエルは何を言っている? 彼は、一体何を失った?
「この胸の痛みは、声を失った貴方を前にしてなお何も思えないことに対してのもので……。ならば私は――貴方を、愛していたのでしょう」
あれほど自戒していたはずの言葉を、何故今になって口にするのか。自分は人を愛してはいけないと、自分は人に愛されてはいけないと、あれだけ言っていたじゃないか。
だからすみれは、その感情に別の名前を付けたのに。これではまるで、あのとき抱いた気持ちの名も意味も忘れて――――すべてを失って、どうでもよくなってしまったみたいだ。
「ですが、やはり女神は私を赦さなかった。……それも当然ですね。罪の名のもとに生まれた私に、女神が救いを与えてくださるはずがない」
いやだ。やめて。これ以上何も言わないで。お願いだから、悲しくて残酷な現実を突きつけないで。
「貴方に対する憐憫も義憤も同情も、私にはもう抱けません。今の私ができるのは、貴方への愛を失う前の私に報いることだけでしょう。……他ならない私が、私を裏切るわけにはまいりませんから」
世界のすべてが傾く。足場が崩れる。信じていたものが消えていく。虚無に包まれるすみれの心を、絶望が嗤いながら侵していった。
「……申し訳ありません。私はとても愚かな男です。どうせ女神が私に微笑むことなどないのなら、無意味な戒めに固執などしなければよかった。失ってから気づく前に、きちんと貴方へ愛を伝えればよかった。……いいえ、違いますね。失わなければ表せない想いなんて、はじめから抱かなければよかったのです。そうすれば、こんな空虚な告白などせずとも済んだのに……」
(そんなこと……そんなこと、ない……!!)
わたしは幸せだった。貴方に出逢えて、夢のようなひとときを味わえて。だから、だから、貴方がそれを否定しないでよ。
「ふむ。女神は供物を受け取ってくださったようですな。これにより、続く百年の繁栄と平和が我らの祖国に降り注ぐことでしょう」
哀れみに満ちた顔の老人が、わざとらしくすみれ達から目をそらして天を仰いだ。
何が繁栄だ、何が平和だ。こんな残酷なことをしておいてのうのうと幸せになろうだなんて、絶対に許さないから。ねえ、ノエルさん、貴方もそう思うでしょう?
(そんな……なんでっ……!)
そう訴えるように強く見つめる。けれど、それはすみれの思い込みだったようだ。もはや何とも思わなくなった小娘の視線に晒されるのは居心地が悪かったのか、ノエルは視線をそらすようにわずかに顔を背けた。
視界がじわりとにじんだ。声は届かず、心も通わない。傍にいるのに、彼との距離が遠すぎる。孤独に震えるすみれの頬を、静かに涙が滴り落ちた。
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