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* * *
身じろぎをするたびに、両の足枷から伸びた細い金の鎖がしゃらりと鳴った。鎖の先は一本の柱に繋がれている。広いとは言えない室内を動き回るのには十分で、けれど部屋の外に出ることはできない微妙な長さ。枷のせいで不自由しているせいか、すみれの傍には常に二、三人の使用人が控えている。この世界に来てから初めて丁重なもてなしを受けたのが、贄になるために連れて来られた女神の宮殿だというのは笑えない話だが。
イルバで捕まったすみれとノエルはそのままどこぞの街に連れて行かれ、別々の護送車のようなものに乗り換えさせられて女神の宮殿まで運ばれた。ノエルはまた白い仮面を嵌められて、すみれと話す余裕も与えられなくて。彼はきっと今も無事でいるはずだが、女神の宮殿のどこにいるかはわからない。
(無理心中とか、しちゃおうかな……)
侍女に怪訝な目で見られるのも構わずふふっと笑う。誓いの儀は、明日の早朝に行われるらしい。明日はちょうど満月だ。誓いの儀は満月の日の、月が昇るまでに済ませる必要があるという。もしあと一日逃げ伸びていれば、猶予は一月延びたのだろうか。
もうすぐそこまで迫った最期の時を前にして、どうにかあがけないか夢想する。もしものためにと買ったちゃちな銀のナイフはすぐに騎士に奪われてしまったが、向こうは向こうですみれを何もできない小娘だと侮っていたのだろう。そしてそれは事実で、けれど騎士の油断はすみれの不慣れさを補った。あるいは、彼らはいわゆるお飾りというものだったのかもしれない。すみれでも、くすねるのは簡単だったのだから。
こっそり奪い返したナイフは手元にあった。使う機会はもうないだろうが、今一度鞘から抜く日を考える。ノエルを殺せる勇気も自分が死ぬ勇気もない。ノエルがどこにいるかもわからない。それでも、もうすべてが詰んだ今なら……どうせ死が待っているのなら、クロード達に一矢報いて死んでやりたかった。そんなこと、できるわけがないけれど。
誓いの儀が終わっても、ノエルはきっと生きている。運がよければ、痛みに耐え切れればすみれだって生き延びられる。そうだ、こんなところで死んでやるわけにはいかない。ましてや、ノエルを巻き込んで死ぬなんて。
空のティーカップを押しのけて小さくあくびをした。ベッドに倒れ込んでつかの間のまどろみに身を任せる。多分、ここでの食事には何かが混ぜられているのだろう。判断力を鈍らせて、抵抗する力を奪うものが。だから今は、まるで夢の中にいるようにふわふわしていて……すべてが投げやりで、どうでもいい。つまらない妄想で心を慰めて、終わりの時が来るのを待つ。それしかすみれにできることはなかった。
「スミレ様、聖女様がいらっしゃいました」
「……璃々ちゃんが!?」
予想だにしなかった事態を告げる侍女の声は、眠りに沈みかけた意識を一瞬で現実に引き戻した。頭から冷水を浴びせかけられたような気分で飛び起きる。曲がりなりにも部屋の主の了承を得ないまま通されるのは、彼女の身分の高さゆえかそれともすみれの扱いの軽さゆえか。気まずげな様子でうつむく璃々に、以前のような快活さはなかった。
「なにしにきたの」
口をついた言葉は我ながら低く冷たかった。璃々はびくりと身体を震わせ、視線を下に彷徨わせる。それはまるですみれが弱い者いじめをしているようで。申し訳なさと居心地の悪さに身をよじり、けれど態度を変える気はなかった。
「す……すみれちゃんが、ここにいるって聞いて……それで、あたしも、一昨日着いたから……」
「……見にきたの、わたしがまた逃げてないか」
「ち、ちが……! えっと、あたしは……」
ごめん、と。沈黙の果てに脈絡なく吐き出された謝罪の声はとても小さく、しかしすみれの耳にきちんと届いた――――それが、無性に気に食わない。
「わたし、知ってるから。璃々ちゃんがわたし達を身代わりにしようとしたことも……璃々ちゃんが、日本に帰りたかったことも」
「あ……」
「璃々ちゃんが悪いわけじゃない。わたしが璃々ちゃんでも同じことをしたと思う。それに、わたしは璃々ちゃんを置いて逃げたよ。だから、わたしは璃々ちゃんを責めないし、璃々ちゃんに謝ってほしいとも思わない」
でも、だからこそ帰って。わたしが八つ当たりをする前に。わたしがまだ冷静になれてるうちに。淡々と告げると、璃々は顔を上げて怯えた眼差しを向けた。
「あたしは、」
「帰って、って言ってる。言い訳なんて聞きたくない。璃々ちゃんの気持ちはもうわかってる。璃々ちゃんには、帰るところと待ってる人がいるんでしょ? でもそういうの、わたしにはないから」
聖女代理を放棄したこと――――璃々を置いて黙って逃げたこと。それが悪いとは思わない。あのとき、璃々は確かにすみれを売った。すみれを裏切った。けれどそれは当然で、もともと自分達はこれといって親しいわけでもなかった。異世界に一緒に来たからこそ仮の友情が成立しただけで、それが壊れるときなど一瞬で来る。それが、考えうる最悪の形だったというだけだ。
逃亡を璃々に打ち明ければ、彼女はきっとすみれを止めただろう。すみれがいなければ、璃々が誓いの儀に臨む羽目になる。だからすみれはノエルとだけ逃げ出した。すみれ達が逃げている間、璃々はさぞ神経をすり減らしていただろう。身代わりが早く見つかることだけを、彼女は考えていたはずだ。
「……わたしは、謝らないからね」
「……」
すみれは璃々とは違う。すみれを愛してくれる人はたった一人、この世界にしかいない。本当は、彼と歩む温かい未来を夢見ていたかったけれど。彼と一緒にすべてを終わらせられるのなら、それはそれでいいかもしれない。
一番求めていた希望を失い、代替の夢に酔ったすみれは最後の意地とばかりに言い放った。璃々はそれ以上何も言わずに部屋を出ていく。侍女の非難するような眼差しには気づいていないふりをして、すみれは深く布団を被った。
* * *
(どうしよう……)
今まで何度も何度も使用人達に掛け合って、らちが明かないとすみれの部屋を訪れて、ようやく先ほどごり押しで室内まで入れたものの、すみれは聞く耳を持たなかった。予想できていたことだが、実際にやられるとかなりこたえるものらしい。
涙を必死にこらえながら、璃々はふらふらと部屋に戻る。すみれに会って何かしたかったわけではないし、彼女のもとに行ったところで何かが変わるわけでもない。誓いの儀の準備は淡々と進められている。だが、だからこそいてもたってもいられなかった。
やっぱりあたしがちゃんと誓いの儀をすると言っても聞いてくれる人はいなくて、それでも黙って見過ごすわけにはいかなくて。一度は恐怖のあまり逃げてしまったが、冷静に考えれば考えるほどこのままじゃいけないとわかるのだ。だって、だって、聖女とはいえ璃々が見知らぬ国で暮らす人達のために犠牲になるのはおかしいけれど、何の関係もないすみれが犠牲になるのはもっと間違っている。
「はぁ? 一体何を考えているの? 立場というものを理解しているのかしら?」
「向こうの使用人も、よくそんなことを言いだしてきたわね」
聞こえてきた侍女達の言葉に一瞬固まる。心の中を読まれたかと思った。聖女という身分の重さを理解しているのか、と。けれど続けられた言葉からして、それは自分に当てられたものではなかったようだ。
「侍女殿に会いたいなら、なんて言ってたけど……そもそも、侍女殿って誰よ? あの男を介さなくても、聖女様なら誰だって呼べるでしょう」
「役職名で呼ばれてもねぇ。侍女なら誰でもいいなら、わたくし達が聖女様の御前に馳せ参じるだけだし」
侍女殿。そう呼ばれる少女に、そして彼女をそう呼ぶ青年に、心当たりがあった。
「ねえ、何の話!?」
「あっ……い、いえ、聖女様のお耳に入れるようなことでは……」
「何の話、って聞いてんの」
権力を振りかざすのは好きではない。けれど、今はそんなことを言っていられる場合でもないから。不機嫌そうに繰り返せば、侍女は委縮したように口を開いた――――カーディナル・フォウが聖女様にお目通りを願っているようです、と。
「侍女殿にお会いしたいのならばまずこちらに来るといい、と申しておりましたが……一体どういう意味なのでしょう……?」
「……そっか。わかった。じゃあ、案内して。知ってるんでしょ、カーディナルさんがどこにいるか」
すみれにかけるべき言葉はいまだ見つからないし、どうしたらいいのかもわからない。けれど、逃げるのは違うと思うから。このままだと絶対に駄目だと思うから。確固たる意志を秘め、璃々は侍女をじっと見つめた。
*
「お呼び立てして申し訳ございません。なにぶんこの身体では、こちらから聖女殿のもとに出向くこともできませんでしたので」
鎖に繋がれた青年は、白い仮面の向こうで笑っている気がした。使用人達は眉をひそめているが、璃々は気にせずずかずか中に入ってさっさと彼らを追い出す。みな不服そうにしていたが、聖女様のご威光に逆らう者はいないようだ。普段からありがたがっているのだから、こういうときのわがままだって押し通してもらわなければ。
「すみれちゃんに会えるってどういうこと?」
「使用人達が、聖女殿が侍女殿に会いたがっていると噂しておりました。侍女殿はそれを望んではいないでしょうが……私も、彼女には用があります。ノエルのオレンジティーを持ってきたと言えば、彼女はドアを開けてくれるでしょう。……ああ、使用人達には貴方からの贈り物だと言ってくださいね? 聖女殿が下賜なさった品を検めようとは誰もしないでしょう」
簡単なお茶とお菓子の用意が整えられた席に着くなり切り出すと、カーディナルはそう言って何かの缶を取り出した。ノエルというのは、彼の本名か何かだろうか。軟禁状態の自分に代わり、璃々を使って何か秘密のやり取りをすみれとしたいと。いいように使われるのは釈然としないが、それでもう一度すみれの前に立てる大義名分が得られるならお使いぐらい安いものだ。
「それでは、私の用事はそれだけですので。テーブルの上のものはお好きに召し上がってください。満足なさったら退室なさるとよいでしょう。外では使用人達がやきもきしながら貴方を待っていますよ」
「待って。……カーディナルさんは、あたしを責めないの?」
「責める、とは? 私は殿下の代替です。私が女神に捧げられることについて、聖女殿にはなんの責任もないでしょう。そもそも聖女殿は、巻き込まれただけのお方だ。異界で暮らしていた貴方が三王国の礎になる道理はないと思いますが」
「でも、それはすみれちゃんも同じでしょ。あたしのせいですみれちゃんが死んじゃうかもしれないのに、」
「聖女殿、貴方は私にどんな言葉を期待しているのですか? 決めるのは聖女殿でしょう。それとも私が何かを言えば、貴方は考えを改めるのですか? 侍女殿のために死ねと貴方に言えば、貴方はおとなしくその運命を受け入れてくださると?」
「……」
ああ、今きっと、この青年はすごく怒っている。璃々のことは責めないけれど、誓いの儀における身代わりというものを許していない。深く息を吸って吐いて、璃々はキッと彼を見据えた。
「んなこと、ハイそうですかーって受け入れられるわけないじゃん! でも、すみれちゃんもそうに決まってる! だからあたしはどうにかしたいのっ! それはあんたに言われたからじゃなくて、王子の口車に乗せられたバカな自分が許せないからだし!」
「聖女殿……」
カーディナルはぽかんと目を見開いた、ような気がした。そういえば、彼の前で怒りの感情をあらわにするのはなんだかんだで初めてな気がする。それに気づいたときにはもう、カーディナルは軽やかに笑っていた。
「なるほど、なるほど。……では、聖女殿。保身のために逃げ出したスミレさんのために、彼女をそそのかして共に逃げた私を信じて命をかけられるというのなら、そちらの紅茶缶は返してください。どうやら中身を替えなければならないようです」
「上等じゃん!」
試すように問いかけられる。売り言葉に買い言葉で、璃々はずいっと缶をカーディナルに押しつけた。カーディナルは満足げに頷いた。
「女神さえ欺く大罪を、スミレさんではなくまさか聖女と共に犯すことになるとは。ですが、貴方がその気ならば話は早い――貴方の望みもスミレさんの望みも、私が叶えてしんぜましょう」




