25
「これと……あと、これもお願いします」
露店の前でうずくまるスミレを庇うように、ノエルは立ったまま鋭い眼光で周囲を見渡していた。この露店は旅人向けの商品を並べているらしく、売っているのはランタンやロープといった小物から携帯食料まで様々だ。
雑貨については逃走の準備を始めた時点で無限収納の中にあらかた揃えていたのだが、食料についてはどうにもならなかった。干した果実や黒パン、あるいはビスケットと燻製肉。買えるときに買い込まなければいけない。ふとスミレは銀のナイフに目を留めた。それがひっそり購入分に含まれたことに、遠くを見やるノエルは気づかない。
「やはり、そう簡単にはいきませんか……」
宵闇の迫る街角に知り合いの影を見つけてノエルは小さく歯噛みする。遠目とはいえ、カミーユの鮮やかな赤い髪はよく目立った。ちょうど代金の支払いと商品の受け取りが終わったこともあり、すかさずスミレの手を引き露店から離れた。
近くの路地裏に隠れる。かつかつ、こちらへやって来る足音がほどなくして響いた。それがカミーユのものだという確証はない。足取りもゆっくりしている。もしカミーユだとしても、気づかれたわけではないはずだ。ただの警邏だと思いたい。
「おい、そこで何を――チッ!」
とっさに壁に手をついてスミレに覆いかぶさる。もう片方の手でスミレの顎を持ち上げ、頭をかがめて彼女の顔に影を落とすように寄せた。ノエルの横顔は垂れた髪に覆われているし、スミレの顔はノエルの腕に隠れている。カミーユの角度からではよく見えないはずだ。落ちた唇がどこまで触れているかもわからないだろう。宵の口に人目のない路地裏で睦み合う男女を一瞥し、カミーユは苛立たしげに立ち去っていった。
「……行ったようですね」
「ノエルさん、ちかい、ちかいっ!」
「失礼しました。なにぶん緊急事態だったもので」
真っ赤な顔で押しのけられ、素知らぬふりをして離れる。なんとかやり過ごせたが、いつまでもここにひそんでいられるわけがない。別の道を模索しなければ。
「まさか先回りされているとは思いませんでした。銀鎧馬形にでも乗ってきたのでしょうか? よりによって彼にこの街を引き当てられるとは……一刻も早く発ちたいところですが、急ぎすぎても追い越されるならば、いっそどこかでほとぼりが冷めるのを待つべきかもしれませんね」
カミーユと出会ってしまったのは三つ目の街だ。次の街を越えればイルバに着くのに、乗合馬車の停車場に陣取るカミーユが邪魔で先に進めない。最短距離にこだわらず、再び徒歩に切り替えて小さな村々を点々としていく方針にしたほうがいいだろうか。
「……大丈夫ですよ、スミレさん。貴方は私が守りますから。いざとなったら、貴方だけでも逃げてくださいね」
「そんなこと、できるわけないじゃないですか! ……わたしだけ逃げきれても意味ないんですよ。二人一緒じゃないと、何のために逃げたのかわからないでしょ」
強い決意を秘めた目で、スミレはきっぱり言い切った。それもそうか。自分がスミレを失いたくないと思うように、スミレも自分を失いたくないと思っているはずだ。そうでなければ、わざわざ連れ立って逃げ出してはくれない。
誓いの儀が本当にスミレの聞いた通りの内容なら、スミレを守りつつもリリを元いた場所に帰すための手段はある。それはスミレとリリの相反した望みを叶える裏技で、けれどとても危険な賭けだ。流れる血は止められないし、失敗すれば取り返しのつかないことになる。できれば避けて通りたい道だ。
そのうえノエル自身を守る方法はないから、結局逃げることしかできなかった。それでも、二人で一緒に逃げなければならないということはない。つまりこの状況は――――そういうこと、なのだろう。
「ふふ、そうですね。では、互いにきっちり逃げ切りましょう」
その実現は難しいとノエルは知っている。それでも笑う。いざというときに迫られる選択肢から目をそらし、甘い理想の夢に酔う。都合のいい願いでも、もしかしたらその通りになってくれるかもしれないから。
カミーユがここにいるということは、クロードやアンリ、あるいはリリも来ているのかもしれない。誰かに見咎められる前にその場を離れる。幸い周囲をうろつく兵士達にはまだ顔が割れていないのか、難なく通り抜けることができた。
「夜は盗賊や獣……あるいはケガレが出ます。私達はどちらも戦えませんから、徒歩では夜間の移動はできません。ひとまず今日はどこかで宿を取りましょうか。明日からは身を隠しつつ、陽のあるうちに向かいましょう」
「はい。……でも、あんまりのんびりしすぎて銀行の中身を差し押さえられたりしませんか? えっと……あの、金庫みたいな魔具に、これから必要になる物が全部入ってるじゃないですか」
「共通鍵箱のことですか? その心配には及びませんよ。私があれを借りていることは誰も知りませんから。きちんと調べられればわかってしまうでしょうが、そんなことをする人と時間があるなら私達の捜索にあてるはずです。それに、たとえ王子の命令であっても中身を押収することはできません。高飛びに支障はありませんよ」
そんな話をしながら通りを歩き、カミーユが近寄りもしなさそうな安宿を見つけて飛び込む。安宿と言っても、これまで利用してきた宿屋と比べると見劣りするというだけだ。目に見えて設備が悪いわけではない。むしろこちらのほうがスミレも落ち着くようだ。委縮した様子もなく周囲を見渡している。
ノエル達を追っているのは国家権力と教会だ。台帳を確認されないとも限らないので、あらかじめ用意していた嘘を書く。字面だけならカーディナル・フォウとスミレだとは気づかれないだろう。兄妹という設定のためかベッドが二つある二人部屋に通されたが、固辞しても怪しまれてしまうので仕方がない。横目でスミレを見やると、頬を赤く染めて微苦笑を浮かべていたが黙ってくれていた。
「そのように固くならずとも、何もしませんよ」
広いとは言えない部屋だ。二人きりになってさっそく荷物を下ろし、ノエルは小さく笑った。
「いっいえあの、その、なんかもうほんとごめんなさい……そんな場合じゃないのに……」
「とんでもない。いかなる状況であれ、そういったことは警戒してしかるべきです。そのうえで私は、安心してくださいと言っているのです。信じるかどうかはスミレさんにお任せしますが」
「うぁぁ……ありがとうございます……」
正直、目の届くところにスミレがいたほうが安心できるので、ノエルとしては同じ部屋なのはありがたい。心臓に悪くはあるが。必死に目をそらす赤い顔のスミレの態度の意味を掴みかねたまま、ノエルはベッドに腰掛けた。
「……少し、昔話をいたしましょう。仮面修道会、その成り立ちについて」
ゆっくり口を開く。状況の整理と、自身の平静化のために。
仮面修道会、その起源。それはきっと、今の自分達にとって無関係なことではなかったのだろう。
「ええっと……確か、反乱を起こそうとした人が、仲間と一緒に作ったんでしたっけ?」
「その通りです。大きな罪を犯した彼女達は、立場も顔も名前も捨てて生きることを選びました。……仮面修道会の始祖、彼女の名はフェリシテ――――七百年前の、ラムグルナの王女です」
いついかなるときも笑みを絶やさない、慈愛の王女。けれど伝わるそのありようは、まるで怒り……あるいは、哀しみの感情が欠落してしまったかのようで。
そんなフェリシテは突如として月に魅せられ、狂気に堕ちたとされている。だから彼女は王家に弓引いたのだ、と。
だが、そんなわけがない。恐らく彼女は、微笑みの仮面で煮えたぎる憎悪を隠していたのだろう。何らかの感情を奪われたまま、雌伏の時を待ち続け、笑みしか浮かべられなかった王女はようやく残された負の感情を解き放ったのだ。
「王女様? あれ、でも、王家に逆らったって……」
「はい。王女フェリシテは、当時の女王……彼女にとっての姉に当たる女性を暗殺しました。しかし女王にはすでに息子がいたのです。聖痕を持つ幼い王子がいる以上、フェリシテが王位を得ることはありません。ですがフェリシテは甥の王子を手にかけることもなく、自分に忠実な者達とともに姿を消しました。そして彼女は、仮面修道会を作り上げたのです」
宮廷を去ったフェリシテ達は、人里離れた僻地へ逃れた。フェリシテその人はもちろん彼女に付き従った者は、フェリシテと同じように髪を一本の三つ編みにして肩へ垂らし、ほぼ同じ意匠の祭服を身に纏い、白い仮面を生涯外すことなく暮らした。
故に、彼らの名は仮面修道会――――フェリシテを守るため、個を消し去った集団だ。同じ仮面をつけた者達の区別は、外の者達にはつけられない。
幼い王子が生き残ったということは、フェリシテの弑逆は王位の簒奪を目的としたものではなかったか、ずさんな計画のもとで行われたお粗末なものだったかのどちらかだ。けれど謀反のわけを明確に記す歴史書はない。どれもこれも、やれ気が触れただの浅慮が過ぎただのそんな理由で片付けられていたし、人々はそれ以上女王殺しの大罪人が抱える事情など考えようとしなかった。
姉を殺した悪逆の娘とも、民を愛した心優しき娘とも伝えられている、謎多き王女。しかし今のノエルには、彼女の反逆と出奔の真の理由がわかる。
「……きっとフェリシテも、今の私と同じ状況だったのでしょう。恐らく彼女は、すでに誓いの儀を終えていたはずです。姉女王を殺しても、非道の運命から逃げられるわけではありませんから。……彼女の凶行は、自分を身代わりとして女神に差し出した者への復讐だったのかもしれませんね」
納骨堂で大司教が言っていたことの意味も今なら理解できた。彼は、ノエルがフェリシテの再来になると予言したのだ。
姉殺しの王女フェリシテが作った、表舞台に立てない王族を守るための組織に生まれながら所属して、彼女のように贄に選ばれ、やがて彼女のように兄王を殺す。それがノエルなのだと。だからクロードは不快そうにしていたに違いない。
「私が王族であることは、仮面修道会の中でもごく一握りの大人が知っています。設立当初こそ王女が起ち上げた仮面修道会ですが、時代の流れとともにこの組織は姿を変えていきました。王族の血など、女王陛下に目をつけられるだけのものなのです。そのせいで、私は私の出自を知る大人からも疎まれてきました。……一体彼らはどこまで知っていたのでしょうね。私が、フェリシテと同じ星のもとに生まれたのだと」
「……ノエルさんは、フェリシテさんみたいにはなりませんよ。だって、わたし達は逃げ切れるんですから」
「ええ、そうですね。大丈夫ですよ、スミレさん。私自身は、最初からそのような真似をする気などありませんから。復讐に身をやつす暇があれば、少しでも早く新天地での暮らしになじめるように励んだほうがよほどいい」
真面目な顔で言われてくすりと笑う。身代わりとして差し出されて、怒りや憎しみがないとは言わない。そもそも出自に気づいたときからずっと、クロードに対する仄暗い感情がこの胸を押し潰さんばかりに渦巻いていた。嫉妬、憎悪、憤怒、そして冷嘲。それは今も変わらなかった。
だが、だから彼に何をしたいとか、これをしなければ気が済まないとか、そういったものははじめからない。この手で復讐することの無意味さと、クロードもまたある意味では被害者なのだということを、心のどこかでわかっていたからだろう。
クロードとリリは、ノエルとスミレを贄として差し出した。ノエル達は半ば騙されるような形でここまで連れて来られたわけだが、最初からクロードに……国に信頼など寄せていない。裏切られた衝撃もない。自分とスミレの命を物のように扱われたことに対する憤りはあれど、自分達が逃げおおせればクロード達が誓いの儀に臨むことになる。わざわざノエルが手を下さなくても、クロードとリリは報いを受けるのだ。リリについては、不条理な制裁だとわかってはいるが。
(いえ……私については、義務を果たすよう求められたようなものでしたね。どうせなら、権利のほうもいただきたかったのですが)
浮かべた笑みに自嘲が混じった。聖痕を持つ王位継承者が臨むはずの儀式に、クロードに代わってノエルが挑む。恐らくこの日のためにノエルは生かされてきたのだろう。
答えは最初から出ていた。祈術師は自身が請け負うべき怪我を身代人形に肩代わりさせる。それと同じことだ。ノエルとスミレは、クロードとリリにとっての身代人形だった。祈術師の業が身代人形でも実行できるのだから、その原点である女神も代用品を奇跡のための供物として受け入れるのだろう。だが、なんと皮肉な筋書きだろうか。もはや喜劇と言うほかなかった――――これでは、何のための身代わりなのかわからない。
当然ながら、スミレとリリには何の非もない。彼女達は巻き込まれただけだ。スミレは聖女に、そしてリリは女神の信仰に。二人の少女はどちらも純粋な被害者で、哀れな犠牲者で、自分と他者を天秤にかけただけに過ぎない。それを責めることは誰にもできないはずだ。
クロードにも何の因果もない。彼はならわしに従っているだけだ。誰かに教えられた通りに、誰かに言われるままに。己が掲げる聖なる炎を信じ、やがて彼は国の頂に立つのだろう。
四人の中で、女神に捧げられるのに適切なのは自分だけだった。しかし果たすべき義務があるだけで、貫くべき義理は一切ない。だから逃げる。ようやく出会えた大切な人の手を引いて、いつまでも優しい共依存の夢に溺れる。旅の果てに自分達の幸せなどどこにもなく、だから新しい終着点を作った。まだ見ぬ海の向こうの国を目指す本当の旅――――けれどそれを遮る追手の影は、もうすぐそこまで迫っていた。




