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ノエルとスミレは暁闇に紛れて聖なる都を後にした。二人が目指すのはトリロの南、港街イルバだ。そこにいくまでにはいくつもの村と、四つほどの大きな街を超える必要がある。とりあえず今日は徒歩で行けるところまで行って、そこで移動手段を探そう。街に着く前に腰を落ち着けられる場所があればなおいい。そこで髪を染められる。
土地勘があるわけではない。人目を避けるために街道から外れたところを歩いていることもあり、本当にこちらで合っているか不安になる。目を凝らして地図と方位磁針を見比べ、けれど隣のスミレを不安がらせないよう迷いない足取りで前に進めるよう心掛けた。
「この時間帯であれば、乗合馬車はまだ出ていません。何時ごろに私達の失踪が気づかれるかはわかりませんが……最初は、徒歩圏内を探されるはずです。時間が経てば経つほど検問は広がり、安馬車一つとっても監視の目が厳しくなるでしょう」
「じゃあ、早く遠くに逃げないと……!」
「ご安心を。私はもともと顔を晒して生きてはいませんでしたし、貴方も眼鏡を外して髪と目の色を変えれば気づかれる危険はほぼないでしょう。追手となる者は、私達をよく知る者ばかりではありませんからね」
ノエルは父に似た。ラムグルナ王国の先代国王の肖像画は、ラムグルナのいたるところに出回っている。それを見かけたことがある者であれば、ノエルを通して前王ジェラールを見るだろう。しかしここはフォレメロード王国だ。いくら隣国とはいえ、五年前に病死した他国の王の顔が市井で深く知れ渡っているとは考えづらい。隣国の王によく似たノエルを、見咎める者は少ないはずだ。
追手となるのは大教会から知らせを受けた各街の兵士が大半だろう。大教会の者や、あるいはクロードを含めた禊の旅の同行者が追ってくる可能性はあるが、その数はそう多くない。逃げきれないわけではなかった。
トリロを発ってから二時間ほどで、通っていた道がうっそうと茂る森の中へと続き出した。どうやらこのあたりは旧道らしく、別の場所に大きな街道が作られたため手入れを怠られていたらしい。かつては管理されていた森も、今では荒れ放題のようだ。
「あそこなら、少しは隠れられるかも?」
「そうですね。ずっと歩き通しでしたし、あそこで少し休んでいきましょう。どこかの街に着く前に、髪を染めなければなりませんしね」
草木をかきわけて進んだ森の中で手ごろな切り株を見つけ、そこに腰掛ける。腰の無限収納から保存食と染髪料を取り出した。この無限収納は食品用ではないため、腐敗防止の術は施されていない。なんでも入るが、入れられるのは痛まない食べ物だけだ。
「どんな色でも確実に染められるものを選びましたが、効き目のほどは四日が限度かと。四日を過ぎれば色が落ちてしまいます。ですが、そのころには私達は船の上にいるはずです」
「は、はい。……髪、痛まないかな……」
「専門外ではありますが……髪の手入れに使えるようなものも、用意できないことはありませんよ。何度か作ったことがありますので。すべてが無事に終わりましたら、そういったものを作りましょう。貴方のその美しい髪を、痛んだままにしておくのはあまりに忍びありませんから」
「あ、ありがとうございます。……約束ですよ。絶対絶対、二人で一緒に安全な場所まで逃げ切りましょうね」
付属の櫛に緑色の染髪料を垂らし、スミレの長い髪を梳く。つややかな黒はたちまち深緑に変わっていった。
交代してスミレに髪を染めてもらう。本当は自分の長い髪など切ってしまえばいいのだが、生憎素人仕事では逆に目につくだろう。スミレにもそういった心得はなさそうだし、のんきに床屋を探している暇はない。染めた髪を下ろしていれば、さほど怪しまれないと信じたかった。
「いいですか、スミレさん。これから私達は兄妹です」
「はっ!?」
「私はノエル、そして貴方はヴィオレーヌ。片田舎の町の出身で、これからイルバに住む叔母夫婦のもとまで遊びに行く予定です。もしも誰かに訊かれたのなら、こう答えてくださいね。……別々に逃げてもいいのですが、それでは何かあったときに困りますから」
「……あっ、そういう設定ってことですね。でもわたし達、兄妹って言い張れるほど似てるかなぁ……?」
「私は父似、貴方は母似だと言えばいいでしょう。それに、似ていないこともないですよ? 貴方も目つきが悪い……失礼、中々鋭い眼光をしていらっしゃいますから」
「あんまり変わってないですよねそれ!」
「兄妹はお気に召しませんか? では、夫婦ということに、」
「兄妹でいきましょう! わぁわたし達ってすごい似てるー!」
先ほどまでは表情をこわばらせていたスミレだが、笑うノエルの軽口に多少の険も取れたようだ。怒っているような顔は、本気さのないそれだった。からかわれたときに見せるいつもの反応となんら変わらない。少しほっとした。
「ちなみに、ヴィオレーヌっていうのはどこから来たんです?」
「菫の花の意ですよ。安直ではありますが……あの者達は、そもそも貴方の名の意味すらも覚えていないでしょう。彼らは貴方の名前がスミレだと知っていても、それと同じ花の名のことなどさして気にも留めていません。……あくまで記号として貴方の名を覚えているだけだという可能性もありますしね」
「そうで……んむっ!?」
再びスミレの目が憂いを帯び出した。すかさずその口元にクッキーを突っ込む。人は突然何かを差し出されると反射的に受け入れてしまうようで、スミレは目を丸くしながらクッキーを咀嚼した。
「次にいつ休めるかわかりません。休めるときに休んでおいたほうがよろしいかと。もはや何の関係もない者達のことなど考えても仕方ないでしょう?」
スミレはこくこくと無言でうなずいた。どうせ髪の色が完全に変わるまでに一時間はかかる。定着する前に出歩いてまだらになった髪を人に見られるわけにはいかないし、乾くまではこの森から出ないほうがいいだろう。これからの道のりを確認しつつ、二人はつかの間の休息に身をゆだねた。
*
サント=ベノワ大教会がにわかに騒がしくなったのは、人々が起き出したころだった。
誰かが気づく。客人が二人見当たらない、と。
誰かが嗤う。いてもいなくても別にいい連中だろう、と。
誰かが笑う。散歩にでも出たのだろう、と。
そして事情を知る者は勘繰った――――あの二人は逃亡したのでは、と。
「探せ……! 何を置いてもカーディナルとスミレを見つけ出すんだ!」
異国とはいえ王族の、それも賓客として迎えられた青年の命令に逆らえる者などいない。いつもはのらりくらりとした大司教でさえ顔を蒼褪めさせ、唾を飛ばしながら同様の指示を周囲に出しているのだからなおさらだ。カーディナル・フォウとスミレに課せられた役目を知らない一般の聖職者と兵士達は、彼らの必死さに首をひねりながらもおとなしく二人を探しに出た。
「二人の部屋はほとんどもぬけの殻だった。大荷物を持って抜け出したんだ、すぐに追いつけるだろう」
「いや、そうとは限らねぇぜ? 積み荷が手つかずのまま残されてやがったんだ。積み荷っつっても、ほぼ空のやつがな。無限収納に移し替えたか、あらかじめ別の場所に中身を移動させたんだろ。あいつらは、そこまで動きづらい格好はしてねぇはずだ」
「……」
「だが、銀鎧馬形はもちろん大教会の馬は一頭たりともいなくなっていないぞ。乗合馬車が出るにもまだ少し早いだろう。そう遠くには行っていないはずだ」
「そうだね。それに、スミレの外見は特徴的だ。彼女を追えばすぐに見つかるよ。そもそも、二人の髪色はフォレメロードでは多少目につくだろう? 逃げたところでいずれ足がつくはずだ」
楽観視するアンリ、緊張を崩さないカミーユ、暗い顔でうつむくリリ。三人を前にしてクロードは微笑んでいたが、その希望的観測は彼らに聞かせるためというより自分に言い聞かせるためのもののようでもあった。
「へぇ。ま、そりゃそうか。……とはいえ殿下、あいつらがご丁寧に二人一緒で逃げてるとは限らねぇぜ? カーディナルの野郎は、年がら年中仮面で顔を隠してただろ。俺たちゃ誰もあいつの素顔を見たことねぇんだ。あいつのことはどうやって追えばいい? 髪も目も、色を変えられねぇわけじゃねぇんだぜ?」
「カーディナルの顔は……父上に似ている、らしい。父上の肖像画を手配して兵士達に通達すれば、」
「はっ。らしい、か。大したお兄様だな。うろ覚えどころか、弟の顔をまったく知らねぇとは」
嗤うカミーユにクロードの眉がほんの少し持ち上がる。突然主君に歯向かうような態度を示す魔術師に、忠義の騎士は憤りをあらわにして彼を睨めつけた。
「カミーユ、それ以上殿下を愚弄するな!」
「おー、こわいこわい。俺は思ったことを言っただけだぜ? そりゃ、私生児なんざ醜聞にもほどがある。隠したがるのは当然さ。兄弟とはいえ腹違い、情より嫌悪感が勝つのもな。……だが、そいつが生まれたのはそいつの責任じゃねぇだろうが。確かに仮面修道会はろくでなしの集団だが、そういう奴らにだけはちっと同情してんだよ。大手振って外歩くなってのは変わらねぇけどな」
そう吐き捨てて、カミーユは踵を返す。クロードは何も言わなかった。
「あー……いや、違うな。俺は、誓いの儀ってヤツが気に食わねぇんだ。……ったく、女神の祝福がまさかそんな仕組みだったなんてな。これを先祖の代からやってたとは、偉大すぎて涙が出るぜ。今代の生贄がどっちもみそっかすだってのは救いだったけどな。人柱にされるなら、俺でもさっさと逃げ出してるだろうさ」
「……カミーユさん」
リリのか細い声が立ち去ろうとするカミーユを呼び止めた。振り返ったカミーユは、彼女を安心させるように明るく笑う。
「心配すんなって。リリちゃんと殿下を傷つけさせやしねぇよ。……あいつらの命より、リリちゃん達の命のほうが重いんだ。たった二人の犠牲で三王国の国民が全員幸せになれるなら安いもんだろ? すぐに見つけてやるからな」
「あたしは……」
そのままカミーユはひらひらと手を振って出ていった。その背中を忌々しげに目で追い、しかしすぐにクロードは優しい声音をリリに向ける。
「大丈夫だよ、リリ。……君はここで待っていて。僕も二人を探してくる。必ずここに連れ戻してくるからね。アンリはリリについてあげてくれ」
「ですがオレは、」
「聞こえなかったのかい? ついてあげてくれ、と言ったんだ。君の意見はどうでもいい。あの二人がひょっこり戻ってきて、リリを盾にするかもしれないからね。……もしかしたら、まだ大教会のどこかに潜伏しているかもしれないし」
「はっ……! 申し訳ございません、出過ぎたことでした」
「……」
有無を言わせない微笑みに、アンリはさっと顔をこわばらせて頭を下げた。そんな二人の様子を、リリは黙ってじっと見ていた。
クロードは満足げに一つ頷き、さっそく兵士の責任者のもとに行って出立の支度を整えはじめる。穏やかな顔を険しくしかめる王子に、取り巻く人々は誰もが怯えた眼差しを向けていた。
*
周囲がどんどん明るくなる。トリロとイルバの中間にある最初の街はすでに物々しい雰囲気に包まれていた。しかし見知った者の姿はない。これならまだやり過ごせそうだ。
「胸を張って堂々としてください。あまりこそこそしていると怪しまれてしまいますから」
「わ、わかりました」
傍らのスミレにそう囁いて乗合馬車の待機列に向かう。側に立っていた見張りの若い兵士はノエル達に胡乱げな眼差しを向けたが、他の乗客が兵士を煙たげにしているあたり彼の対応は誰が相手でも同じらしかった。
「そこの二人、名は? どこから来た? どこへ行くつもりだ?」
「俺達? 俺はノエル、こいつは妹のヴィオレーヌ。チシュから来て、イルバに向かってるんだ。……何かあったのか?」
近づいてきた兵士に、一帯の地図を読み込むうちに覚えた地名を適当に伝える。ここから少し離れた小さな町だが実在はしている、さほど怪しくもないだろう。案の定、兵士は手元の書類に目を落とすと「気にするな」と雑に手をひらひら振って持ち場に戻っていった。
「本当に気づかれませんでしたね」
「ええ。ですが、油断はなさらないよう。この馬車は隣街で停まります。そちらにも同様の監視がついていると考えてください」
乗合馬車はすぐに来た。遠ざかる街を眺めてスミレが呟く。その安堵を否定するのは心苦しかったが、嫌な可能性は早めに伝えておくべきだ。
最初の街で乗合馬車に乗れても、次もそううまくいくとは限らない。追手はノエル達にろくな移動手段がないと知っているだろうが、だからこそ乗合馬車に目をつけるはずだ。とにかく今は一刻も早くイルバに辿り着き、船に乗って異国を目指さなければならない。
「追手は私達に頼りがないと思っていますし、それは事実です。荷物がほぼ残されていないことから、計画的な逃亡だと気づかれるかもしれませんが……だからといって、どんな格好で逃げているかは掴めないはずです。そして頼りがないということは、行くあての見当がつかないということでもあります。ですから彼らは、やみくもに探すしかないのです。的外れなところに人手を多く割いていると祈りたいものですね」
「はい……」
震えるスミレの手がノエルに伸びる。服の裾をきゅっと掴む手はあまりにも頼りなく、そっと握り返すことしかできなかった。




