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足が前に進まなくなった。考えるより早く身体が物陰に隠れる。幸い、誰もすみれのことに気づいていないようだった。
「言葉通りの意味だよ。聖女が降り立った国の王族はある一種の感情を、異界から降りた少女は自身の身体の一部を。代価となるものをそれぞれ女神に差し出すことで、禊の旅は終わるのさ。そして、三王国は続く百年の平和と繁栄が約束される。……ただし、一つ誤解があるようだ。贄になるのは王太子と聖女じゃない。存在してはならない第二王子と聖女代理、つまりカーディナルとスミレのことだよ」
「どっちでも同じだし! そんなの聞いてねぇんだけど!?」
ノエルが王族扱いを受けていることとか、自分が聖女代理だなんて呼ばれたこととか、クロードが優しい声で淡々と残酷なことを言っていることとか、アンリとカミーユまでざわめいていることとか、それらすべてが考えられなくて。頭はもう真っ白で、それでも耳は彼らの声を拾い続けていた。
「いいや、どうでもよくはない。君は大切な聖女様だ。愛しい君という存在に、瑕疵一つ作るわけにはいかない。同時に、僕の身に何かあることもね。何かしらの感情が欠けていては、善き為政者にはなれないだろう? だからカーディナルが僕の、そしてスミレが君の代用品になるんだ。君がこれを知っているか知っていないか、それについてはどうでもいいんだけど。これは初めから決まっていたことなんだから。僕らが生まれる遥か昔から、三王国はそうやって在り続けてきたんだ」
「なにそれ……! そんなもんに頼んないと国一つ守れないわけ!? だっさ!」
「まったく。……どうやら聖女様は少々気が高ぶっているようだ。何をしている。お前達、早く彼女を落ち着かせたまえ」
「キモいんだけど!? あたしにさわんな! 痴漢!」
「璃々、ちゃ……」
璃々が聖職者達に捕まった。取り押さえられている。何をしてる。早く助けにいかないと。けれど奮い立たせた勇気の炎はすぐに水をかけられた。
「リリ。我々も、君のことは丁重に扱いたいんだ。……けれど聖女代理がいなければ、君に身体を差し出してもらうことになるんだよ?」
「は……!?」
「歴代の聖女はちょうどおあつらえ向きに、女性をもう一人連れてくる。二人目の存在は公には秘匿されているけれどね。彼女達こそが聖女代理だ。聖女は自分を守るために、自分で贄を連れてきたんだろう?」
「ち、ちがっ……! たまたますみれちゃんが近くにいて、それで、」
「なら、聖女代理を遣わしたのは女神の意志なのかな? まあ、それについてはどうでもいいことだ。……せっかく手に入れた盾を、利用しないでどうするんだい?」
「すみれちゃんは、あたしの身代わりなんかじゃ……!」
「女神が何を欲するか、そのときにならないとわからない。その輝く瞳か、柔らかな髪か、水を弾く肌か、歌う声か、細い足か、熱い血潮か、あるいは脈打つ心臓か。……聖女代理の中には、女神に何かを捧げたせいで命を落とした者もいる。それはそうだ、生きたまま身体のどこかをもぎ取られるんだから。たとえ直接命にかかわる器官でなかったとしても、激痛のあまり死んでしまうこともあるだろう。……君の代では、小指の爪程度で済めばいいね?」
「や……ちょ、やめてよぉ……!」
「痛いことは嫌だろう? 死ぬのは怖いだろう? 誰だってそうさ、それを忌避するのは君だけじゃない。だけど安心してくれ、リリ。君が傷つく必要はないよ。……大丈夫、誰も君を咎めない。だってスミレは最初から、そのためにいるんだから」
「ぁ……」
璃々の拘束がほどけた。両眼に涙を溜めた璃々は、倒れ込むようにクロードに縋る。
「あたし、悪くない……! だからっ……だから、あたしは……おねがい、たすけて……!」
「そうだよ、君は何も悪くない。君は当然の権利を行使しているだけさ。君も僕も、世界にとってはかけがえのない存在だ。替えのきく者が生贄になるのは当たり前だろう?」
「当たり前……? ほんとうに? 信じていい? あたし、まだ死にたくないの……! みんなのところに帰りたいよぉ……」
「それは普通の感情だよ、リリ。すべて終われば、君は無事に元いた場所に帰れるだろう」
「すみれちゃんは……残るって、言ってた……。帰るのは、あたしだけで……」
「リリ、君はこれまで通り祈り続けるだけでいい。誓いの儀は、カーディナルとスミレに任せるんだ」
優しい、とても優しい声が璃々を絡め取っていく。クロードが紡ぐ甘美で残酷な言葉が、軽い錯乱状態にある璃々の心にどう響いたか、なんて。そんなこと、すみれが考えるまでもなかった。
もしここで飛び出したら、とか。璃々とクロードを引き離せたら、とか。ぐるぐる渦巻く思考は、けれどどれも現実的な解決をもたらさない。だってすみれには何の力もない。多勢に無勢だ、きっとすぐに捕まってしまう。秘密の話を聞いてしまった罰として、閉じ込められてしまうかもしれない――――そうなったら、いざというときに逃げることも困難になる。
「大丈夫。感情に欠落があっても人は死なないし、運がよければスミレだって生き伸びられる。……そもそもあの二人のことなんて、君にはどうでもいいだろう?」
「ごめん……ごめんね……! ごめんなさい……すみれちゃん……! あたし、あたし……」
それが璃々の答えだった。泣きじゃくりながら吐き出された謝罪の言葉に、さぁっと血の気が引いていく。全身の温度が下がる。わかっていたことだ、それでも。
気づいたときには駆け出していた。ノエルの貴賓室を目指して走る、走る。鍵はかかっていたが、何度も強くノックすると不機嫌そうな声とともにドアがほんの少し開いた。薄暗い中で白い仮面がぼんやり覗くそのありさまは中々不気味だが、いちいち怯えている場合ではない。
「まったく、こんな時間に……おや、貴方でしたか。夕食の時間にノックしても返事が、」
「ノエルさんっ!」
勢いよく転がり込んだせいで、ノエルの胸に身体を預ける形になってしまう。彼はわずかによろめいたもののすみれを受け止めてくれた。
「今すぐ逃げましょう……! ここにいたら、わたし達、どうなるかわからない……!」
「落ち着いてください。……スミレさん、何かあったのですか?」
「ちっ、誓いの儀が! 王族と、聖女代理が、生贄でっ……女神に捧げられて、それで……!」
息を切らせながらたどたどしく事情を説明する。ノエルは辛抱強く待ってくれた。
「――なるほど。それが誓いの儀の正体ですか」
「ノエルさん、王子様だったんですね……」
「そう呼ばれたこともありませんがね。今となっては、この身に流れる父の血すら忌々しい」
そう吐き捨てて、ノエルは仮面を外した。白皙の美貌があらわになる。王族だということを加味して考えれば、彼の顔をどこで見たことがあったのかもわかった。ラムグルナの城のいたるところに飾られていた、前の国王だという美丈夫の肖像画だ。
「貴方が決意を固められたのなら話は早い。さあ、逃走の支度をしてください。終わったのならこの部屋へ戻ってきてくださいね。互いに髪を染めて、出立しましょう」
「わ、わかりました!」
ノエルの貴賓室を飛び出して自分の部屋へと戻る。空気はしんと静まり返っていて、抜け出したときと何ら変わりもない。けれどすみれの心は少し前とはまったく違っていた。
地味で目立たない服に着替え、さほど大きくもないボストンバッグに必要最低限のものを乱暴に詰める。あらかじめもらっておいたカラコン目薬を差すと、すみれの目はたちまち黄色く染まった。フォレメロード人の瞳の色だ。
変装した姿を誰にも見られないよう、ノエルの貴賓室へと忍び足で行く。ノエルもごくごく普通の服を着ていた。仮面を外していることもあり、とてもカーディナル・フォウには見えない。唯一同じなのは、腰に巻いたベルトポーチだけだ。
「一時間もあれば髪色は定着するでしょうが……できれば、なるべく早く発ちたいですね。教会の朝は早いものです。明け方には、すでに起きる者も多くなっているでしょう」
「じゃあ、ひとまずここから出て落ち着ける場所で染めませんか? 今はフードで髪を隠して、逃げることを優先しましょう」
「それもそうですね。確かに、逃げるときと逃げている途中で容貌が変われば、その分足取りを追いにくくなるか……」
ノエルは頷き、四角く薄いショルダーバッグを肩にかけた。そのまま彼はすみれの手を取る。
「いきましょう、スミレさん。彼らの手の届かない場所に行き、二人で生きるんです」
「はい、ノエルさん。……クロードさんと璃々ちゃんのために死ぬわけにはいきません。わたし達は、代用品なんかじゃないんですから」
贄だなんて言われて、代用品扱いされて、そのまま死んでやるわけにはいかない。すみれはすみれ、ノエルはノエルだ。ノエルの手を強く握り締め、震える足を無理やり動かし、大教会をこっそり抜け出す。……残していく璃々のことを思うと、胸がわずかに痛んだ。
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