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ノエル達がその村に着いたのは、雨が本格的に振り出してからだった。小さな田舎の村に宿泊施設はないようだ。しかし雨脚の強い中やってきた旅人達を、教会は拒まなかった。
「なんだよ、この狭くてボロい教会は! 馬小屋かっつーの。ったく、いくら天気が天気でももっといい場所があっただろうが」
「お忍びということを差し引いても、とても殿下とリリ様をお通しできるところではないな……」
リリや教会の神父には聞こえないよう、カミーユとアンリは苛立たしげに毒づいた。同時にノエルに非難の眼差しが向けられる。何と言われようとも、この村への滞在を承認したのはリリだ。とうのリリはまったく気にしていないようだし、彼らにとやかく言われる筋合いはない。
さっそく荷物を下ろし、案内された空き部屋に向かう。二人部屋で、ノエルと同じ部屋になったのはカミーユだった。早速睨まれてぐちぐち文句を言われるが、それらすべてを聞き流す。何を言われても適当な返事しかしないノエルにカミーユも神経を逆なでされたのか、大きな舌打ちを最後に何も言ってこなかった。
「カーディナルさん、ちょっといいですか?」
「おや、侍女殿。どうかなさいましたか?」
ちょうどスミレが部屋に来た。拒む理由などあるはずもない。不機嫌そうなカミーユが嗤った。
「けっ。ずいぶん仲良くなったみたいじゃねぇか。邪魔者同士、固まってくれるんならこっちもラクでいいけどな」
「ええ、おかげさまでこちらも快適に過ごすことができていますよ。聖女殿を巡る醜い争いに、巻き込まれずに済んでいますから。……とうの聖女殿は、貴方がたのことなど一切眼中にないようですが」
「あぁ!?」
見えもしない微笑みだけを残して部屋を出て、ばたんとドアを閉める。「煽っていいんですか?」心配そうな顔のスミレには「貴方が気にすることではございません」と返して用件を尋ねた。
「神父様が、オルガンを使ってもいいって言ってくれたんです。だからカーディナルさんにノエルを聴かせたくて」
「それはそれは。むしろ私のほうからお願いたいくらいです。ぜひ、侍女殿の演奏を聴かせてください」
決して広いとは言えない、けれど手入れの行き届いた礼拝堂には小さなオルガンがあった。いつか大教会で見たそれとはまったく違う、ごく普通のものだ。しかし見てくれも性能も関係ない。それが紡ぐ旋律と、弾き手の存在さえあれば、他には何もいらなかった。
スミレの手が鍵盤の上でゆっくり踊り始める。優しい、優しい音色だ。けれど胸が締めつけられる。どこか言いようのない切なさを抱え、スミレが奏でる旋律を噛みしめた。
「『牧人ひつじを』、です。本当は讃美歌なんですけど、歌のほうはさっぱりで……演奏しかできないんですけどね」
「……いいえ、十分素晴らしいものでした」
演奏が終わる。数秒遅れてやっと拍手ができた。達成感をにじませるスミレは、しかしノエルを見て表情を曇らせる。
「あれ……カーディナルさん、泣いて……?」
「なんですって?」
金具を緩め、さっと目元をぬぐう。自分では意識すらしていなかったのだが、確かに泣いていた。仮面で顔を覆っていても彼女には感情を悟られてしまうらしい。自分でも気づかなかったその涙を、どうして彼女には見破られてしまうのだろう。
「侍女殿の演奏に、つい心を揺さぶられてしまったようです。音楽がこのようによいものだとは知りませんでした。これからも機会があれば、また何か聴かせていただきたいものですね」
「はい。……わたしも、久しぶりに演奏ができて楽しかったです。聴いてくれた人にそこまで言ってもらえるなら、わたしの演奏にも意味があったんですね。それはうまいとか下手とかじゃなくて……わたしは、それを忘れてたんだ。ありがとうございます、カーディナルさん」
「私は何もしていませんが?」
「そこにいてくれるだけでいいんですよ。……まだ何曲か弾いてみてもいいですか?」
弾む笑顔に否と言えるはずもなく。スミレが紡ぐ心地いい音色に耳を傾けた。旋律につられたのか、リリや神父、そして村人たちがちらほらとやって来る。あのクロードやアンリ、カミーユさえ礼拝堂に顔を出して、渋い顔をしながらも何も言わずに聴いていた。
* * *
「……ふん。どうやら本当にカーディナルとスミレは距離を縮めてしまったようだね」
深夜、ろうそくの明かりだけに照らされた部屋でクロードは苦々しげに呟いた。同室のアンリ、そして呼ばれてやってきたカミーユは戸惑いがちに王子を見る。
「それがどうかしたのか? 別にあいつらがどんな関係になっても、俺達には関係ねぇだろ?」
「その通りだ。そんなこと、僕らにとってはどうでもいい。でも、まさかここまで続く……いや、進展するとはね。あの男がリリに欲を出さなかった点については褒めてやってもいいけれど、本気でスミレと恋仲になるとは思わなかった」
「そうなのですか? オレにはよくわかりませんが……親しいだけで、そこまで踏み込んだものではないのでは?」
「ふふ。アンリ、君は情緒というのを理解していないようだ。あの二人の間にあるのが恋情だろうが友情だろうが、そんなものはどちらでもいいんだよ。……だけど、恋仲だったほうが面白いだろう?」
「「……ッ!」」
王子が浮かべたのはとても美しい笑みだ。けれどその凄惨さに、邪悪さに、付き従う騎士と魔術師は息すらできなくなった。
「どうせどちらも女神の贄になる運命だ。愛し合う二人には、ともに三王国の礎になってもらおう。大切なものを失う悲しみも、すぐ傍にありながら引き裂かれる苦しみも、すべてが以前とは変わってしまった絶望も、我らがサクレイドルの意のままに。……気まぐれな女神が何を望むかはまだわからない。運がよければ、誓いの儀なんて何事もなく終わるだろうさ」
「誓いの儀?」
「殿下、貴方は何をおっしゃっているのですか?」
「女神サクレイドルの祝福は、対価なしには得られない。だからカーディナルとスミレに、三王国を代表して女神の試練を受けてもらうんだよ。あの二人は、そのために禊の旅に同行者に選ばれたんだから」
クロードはそれ以上答えない。けれど他の言葉は必要なかった。
「なるほどな。どうして選ばれたのかわかんねぇ連中だったが、そういう事情があったのか。……試練とやらが何をするのか知らねぇが、女神の御前でなんかするんだろ? あいつらに、そんなたいそうな役目が務まるのかね?」
「土壇場で何かやらかさなければいいが……。ご命令さえいただければ、奴らの代わりにオレ達が成し遂げてみせますよ?」
魔術師は嘲り、騎士は案じる。王子は優しげな、けれど傲慢さのにじむ微笑を浮かべて頷いた。
「それについては君達が心配することじゃないよ。君達の役目は、リリを飼いならすための居場所になることだ。それ以外はどうでもいい。すべて終わった暁には、リリには僕らの中から伴侶を選んでもらう。その日のためにも、リリのことだけ見ていてくれ。ただし、誰が選ばれても恨み合いはしてはいけないよ。たとえ結婚してからも、これまでと変わらずみなでリリを支えていこう」
口ではそう言っているが、クロードはリリに選ばれるのは自分だと信じて疑っていない。アンリとカミーユも、それについてはわきまえていた。それでも彼らは異口同音に肯定の言葉を捧げる。
「――どうせリリは、二度と帰れないんだからね」
百年ごとに訪れる歴代の聖女。軽くさかのぼれる限りでは、誰もが降臨した先の国での定住を余儀なくされている。数いる元聖女達と同様に、今代の聖女も元の世界に帰ることなくこの地で生涯を終えるのだろう。だって帰還の道なんて、初めから用意されていないのだから。
* * *
朝になると雨は止んでいた。礼を言って村を発つ。道は多少ぬかるんでいるが、進めないほどではない。跳ねる泥に苦戦しつつもノエルは馬車を前に進める。
こちらの地域のケガレもやはりそこまで強くなく、天候以外に旅の行く手を遮るものは存在しなかった。この調子なら、二日と経たずにフォレメロードに入国できるだろう。一週間もすれば聖都トリロだ。
「順調、ですね」
横目でスミレを見やる。ぽつりとそう呟いたスミレの目は彼方を見つめていた。
「全部、このまま何事もなく終わってくれればいいんですけど……」
「禊の旅は女神に見守られた旅路。そこに何の危険がありましょう」
薄笑いで茶化したようなことを言えば、スミレはむっとしたようにノエルを見上げた。ようやくこちらを見てくれたようだ。手綱を片手に持ち替えてかがみ、彼女の手を取って甲にそっと唇を落とす。
「何が起きてもいいでしょう? たとえ何があっても、貴方には私が、そして私には貴方がいる。他には何もいりません」
「なんで流れるようにこういうことするかなぁ……!?」
ちらりと見上げると、スミレは真っ赤な顔でわなないていた。怒っているわけではなさそうなのでよしとしたい。
「第一、何かが起きる前に逃げ出すことを是としなかったのは侍女殿ですよ?」
「そ、それは、璃々ちゃんを置いていけないし……! わたしが逃げたら、璃々ちゃんが帰れなくなるかもしれないから、仕方ないじゃないですか!」
「ええ、その通りです。誓いの儀によって本当に禊の旅が締めくくられるのであれば、私達がいなければ聖女殿は帰還できないことになりますね。帰還への道が開かれるのは、禊の旅を終えたあととされていますから。……とはいえ、いつのころからか聖女はみなこちらにとどまることを選ぶ方ばかりになっているようですが」
「今の聖女は璃々ちゃんです。昔の聖女様がどうだろうと、璃々ちゃんは帰りたがってますよ」
そう言って、スミレは泣きそうに顔を歪めた。何かを言いかけ、それを飲み込む。「……でもいいんです。わたしにはカーディナルさんがいるから」不用意に取った手は離されることなく、逆に強く握り締められた。
「侍女殿、さすがに私でも片手だけで手綱を握るのは骨が折れるのですが?」
「余裕でひょいひょい操れてるじゃないですかっ! 今、絶対涼しい顔してるでしょう! そもそも、先に手綱から手を離したのは貴方ですからね!」
「銀鎧馬形は扱いがたやすいですからねぇ。おやおや、私としたことが失言でした。……これでもかなり必死なのですよ? 今や私は一国の王太子と聖女殿を預かる身。事故など起こせば大変ですから」
「絶対嘘だ!」
軽口を叩いて手を握り返す。スミレは安心したように笑った。この時間が永遠に続くわけがないのはわかっている。必要なら、今すぐに逃げ出すべきだというのも。それでもまだノエルは行動に移せない。手段はある、用意はできた、それなのに。
ありとあらゆる毒薬を手のうちに隠しているというのに、様子見なんてひよった言葉を吐いて。心から追い詰められない限り非情に徹する選択ができない。そんな弱い自分では、スミレを守れないかもしれないのに。
それでも、ノエルは無意識のうちに感じていた――――女神に見守られ、聖女と王位継承者が臨む禊の旅。三つの国家を周るその旅の終わりが、もうすぐそこまで迫っていることに。




