20
陽が高くなり出した頃、リリは女神の間にて祈りの儀に臨む準備に入ることになった。女神の間に入ることは許されないとはいえ、クロード達も大教会内部にとどまりリリの傍にいられるようにしている。一方手持ち無沙汰のノエルとスミレは、聖都ヴァシュタを散策することにした。リリに渡すのだとお菓子を買い込むスミレの姿に、自然とノエルの頬が緩む。まだ少し固く、どこかぎこちない友情だ。けれど、確かに二人は友達なのだろう。
「約束通り、今日はわたしがごはんをおごりますからね!」
「ええ、楽しみにしております」
息巻くスミレを連れて悠然と歩く。サフィルスの聖都はノエルにとっても未知の街だが、知らない場所を気ままに歩くのも悪くないだろう。もちろん、素直に楽しめるばかりではない。納骨堂で耳にした話は、どこかノエルの心をざわつかせていた。
行き交う人々は仮面姿のノエルをぶしつけにじろじろと眺めていたが、その眼差しに宿る感情はラムグルナでのそれとは違っていた。やはり他国の一国民にとっては、仮面修道会の知名度などさほどでもないのだろう。隣の少女が一切気にしていないこともあり、ノエルも胸を張って大通りを歩くことができた。
手ごろな食事処を見つけて中に入る。ノエルは鶏肉のエスカロープとピーチティーを、スミレはラタトゥーユとオレンジジュースを頼んだ。早速運ばれてきた飲み物を前にして、スミレはじっとノエルの手元に視線を注いでいる。
「何か?」
「カーディナルさんって、やっぱり紅茶がお好きですよね。だって、また飲んでるじゃないですか」
「これはピーチティーですよ? 貴方の前でこれを飲むのは、今が……」
言いかけて、自分でもティーカップの中身を見つめる。スミレの前でピーチティーを飲むのは、確かに今が初めてだ。けれど茶葉の缶は持っている。ピーチティーだけではない。オレンジ、レモン、アップル、ローズ、アプリコット。味わいをざっと挙げていくだけでもきりがない。
ノエルの棚の着香茶の缶は、他の飲み物のそれより種類が多く、そして買う回数も多かった。紅茶缶に至っては、同じ銘柄だけをもう何年も買い続けている。それに気づき、ノエルは静かに微笑んだ。
「……ええ、そうですね。以前の発言は、訂正いたしましょう。私は紅茶……特に着香茶が好きで、いつも好んで飲んでいます」
「ですよね! ちなみに、カーディナルさんのおすすめの飲み方と味ってなんですか?」
「どれも好きですが……あえて一つ挙げるとするならば、オレンジティーでしょうか。よく冷えたあれに少し蜂蜜を垂らして、チョコレートとともに楽しむ時間は格別です。いずれ、貴方にも召し上がっていただきたいものですね」
「はい。楽しみにしてます!」
ゆっくりと、自分で自分のことを認めていく。まずは嗜好からだ。一歩一歩少しずつ、けれど確実に自分で自分のことを知っていった。魚よりは肉のほうが好きで、肉の中でも鶏肉がいい。好きな飲み物は紅茶、特に着香茶を好んで飲む。甘い物も苦い物もたしなむ程度には食べるが、極端に味が偏っている物は苦手。だからコーヒーは何も入れないままでは飲めないし、ほんの少しの砂糖とミルクが欲しい。
それは些細な心境の変化だ。己を確立するにはまだ足りない。けれど――――人に認められたいと焦がれるばかりで、自己による承認すらもできていなかったカーディナル・フォウはもういなかった。
*
「ラムグルナの人は赤い髪、サフィルスの人は青い髪……じゃあ、フォレメロードの人の髪は何色なんですか?」
「緑髪ですよ。遠い異国の地では、生まれつき髪や目の色が個人によって異なる場合もあるとは聞きますが……三王国の出身者はみな祖国が掲げる色を持ち、そしてそれを大切にする傾向があります。なにより、自分が生まれ持ったものですからね。もっとも、いずれの国々にも染髪料で髪を多彩な色に染めた者もおりますが。侍女殿の黒髪は、生まれついてのものなのでしょうか?」
「そうですよ。璃々ちゃんは染めてるみたいですけど、わたしはやったことないですね。カーディナルさんは?」
見晴らしのいい時計台に昇って街を見下ろすスミレは、不意にそんなことを聞いてきた。地上を点々と染める青髪が目についたのだろう。
「私もありませんね。他者と違う系統の色にした時点で、仮面修道会の戒律から外れてしまいますから」
「ふぅん……」
スミレは身をひるがえし、周囲の観光客の間を縫うようにして来た道を戻っていく。階段を降りながら、スミレはその背中を追うカーディナルに振り返らずに尋ねた。
「カーディナルさん。どこか遠い国に行ったなら、貴方を縛る戒律はなくなるんですか?」
「……そうですね。そこでなら、私は……貴方にいただいた名とともに、貴方と新しい人生を歩めるのでしょう」
「じゃあ、この旅が終わったら――二人で、どこか遠くに行きませんか?」
「そのようなこと……。侍女殿に言われずとも、初めからそのつもりですよ。貴方が同じことを考えてくださっていたのなら、説得する手間が省けました。ご安心ください、新天地での暮らしが軌道に乗るまで貴方一人を養って生きる程度の蓄えはありますから」
「そっ、そんな心配はしてませんけど!? 確かにあるとないとじゃ大違いですけどね! わたしも頑張りますから!」
歩調を早め、彼女の隣に立つ。スミレはこれまでの人生を捨てこちらの世界に残る決意をした。それならば彼女を受け入れたノエルも、これまでのすべてを捨てる覚悟を決めるのが道理というものだろう。彼女はすべてを失ってなお逃避を選んだのに、ノエルだけ何も失わないまま逃げられるなんて虫がよすぎる。
友人がいなかったわけではない。ビショップ・ナインをはじめとした、同世代の何人かとは決して悪い関係ではなかった。ポープにもよくしてもらった。仮面修道会での暮らしはほろ苦く、しかしすべてがすべて悪いことばかりだというわけでもないのだ。それでも、そこにいる限りノエルは過去の呪縛から逃げられなかった。この仮面がある限り、ノエルはカーディナルのまま生き続けなければならない。それはもはやノエルとなった今では望まない生き方であり、同時にスミレの決意も無駄にする行為だ。
「ただ……少し奇妙なことがあります。禊の旅の終着点は女神の宮殿です。聖女殿が三王国の大教会を周り、それぞれの地で祈りの儀を行った後に女神の宮殿に赴くことで女神の祝福が再び三つの国に降り注ぐ……それが、この禊の旅でした。しかし昨日、納骨堂で不可解な話を耳にしたのです」
「納骨堂?」
「ええ。サント=マティユの地下にあるものです。あそこに限らず、教会施設ならばどこにでも地下に納骨堂があるものです。きちんと安置所で眠らせなければ、死者はケガレとなりますからね。大教会や女神の宮殿の地下納骨堂で眠るのは、その国の聖人や王候貴族……あるいは聖女ばかりでしょうが」
納骨室でクロードと大司教がしていた話をかいつまんでスミレに話す。自身の血統についてはぼかした。どうせ言っても意味のないことだ。この身に流れる王の血など何の意味もないし、スミレを委縮させてしまうかもしれない。それなら最初から口にしないほうがいいだろう。
「祈りの儀では、そんなに難しいことはしてないみたいだし……誓いの儀っていうのも、形式だけのものなんじゃないんですか?」
「それならばよいのですが。……何故私達がその役を担わなければいけないのか、いささか不明瞭でして。誓いの儀を任せられるのが私達だというのなら、つまり聖女のご友人には役割があったということでしょう?」
「……ッ!」
聖女の友人、聖女に図々しくもついてきた小娘。それがラムグルナの城におけるスミレの評価だった。クロードから直々に、スミレを冷遇せよとの命も受けている。けれどスミレが来た理由が誓いの儀にあるというのなら、彼女を辛辣に扱う理由がない。誓いの儀とやらに臨むスミレを、軽んじる意味がないのだ。
おまけにクロードは、スミレとノエルに誓いの儀を受けさせるつもりでいたようだった。そんな話は初耳で、他の同行者がそれを知っているかもわからない。しかし王子がそのつもりだったということは、それは初めから禊の旅に組み込まれていた予定のはずだ。
「なんの役目も持たないから、それぐらいの仕事は与えてやろうと思った、とか……」
「たとえ形式だけとはいえ……いえ、形式上のものだからこそ、女神の宮殿で行われる儀式の人選がそのように軽々しく行われるわけがないのです。禊の旅には、聖女殿と一国の王子がいるのですよ? 彼らを差し置いて只人の私達を任命するなど、裏があるようにしか思えませんね」
「……カーディナルさんは、わたし達が女神の宮殿で何をさせられるって思うんです?」
「それはわかりかねます。私も一切聞かされていないことでしたから。……とはいえ、猶予はまだありますよ。次の目的地はフォレメロードの聖都トリロ、そこにあるサント=ベノワ大教会です。そこを発って女神の宮殿に辿り着く前までに、相応の用意はしたほうがよろしいかと。心……あるいは、荷物の準備を」
声をひそめて告げれば、スミレはひっと息を飲んだ。誓いの儀とやらが何を目的として行われるものなのか、何をするべきものなのかはわからない。けれど一つだけ言えることがある。その大任は、これまで世界から虐げられてきた者でも背負えるものなのだ。
女神の膝元、信仰の頂点、教会の中の教会。そんな女神の宮殿で執り行われる儀式が、雑に進めていいものであるわけがない。ふさわしい支度とふさわしい人間が必要なはずだ。それならば、ノエルとスミレが選ばれたことにもきっと理由がある。みそっかすでもいいような――――あるいは、みそっかすでなければいけない理由が。
「でも……もし誓いの儀をしないと禊の旅が終わらないなら、それは璃々ちゃんが日本に帰れないってことだから……。それならわたしは……」
「侍女殿が今逃げ出さないというなら、それでも構いません。ですが私達は、遅かれ早かれ三王国を出奔するのですよ? それが禊の旅を終えてからであれ、あるいはその途中であれ、逃亡のための準備は始めるべきかと」
わたしは逃げない。スミレの口からその言葉が出る前に封殺した。卑怯な大人には、卑怯な大人なりのやり方がある。ずるい男の口車にまんまと乗せられた娘は、短い逡巡ののちに小さくこくりと頷いた。
「そう、ですよね。……髪を染めるもの、買っていきましょうか。あと、目の色が変わる目薬ももらえます?」
「ええ、そのようにいたしましょう。市井に紛れる服も必要でしょう。……今のうちに、大きな荷物は銀行に預けていったほうがいいかもしれませんね。銀行の共通鍵箱に預けておけば、三王国の中でならどこにいても引き出せます。いざというときには身軽な格好で逃げ出して、新天地へ発つ直前に引き出せばよいかと」
確証はない。むやみに逃げ出すべきではない。頭ではわかっている。けれど最悪の事態はいつでも頭をかすめるものだ。たとえ自分自身と失い難い少女を犠牲にしてでも女神に殉じる覚悟は、ノエルにはない。
*
曇天の下で馬車を走らせながら、広げた地図を二人で眺める。ラムグルナ、サフィルス、フォレメロード。三つの国家の国土は三角形を描くように地図上で広がっていた。三王国のちょうど中央に座すのが女神の宮殿だ。しかし御者台に座るノエルとスミレが真剣な顔で地図を見ているのは、何もどうやって聖都トリロに行くかを考えているからではなかった。
「トリロの南には、大きな港街があるようです。そこからなら、船に乗って遠い異国に行けるでしょうね。幸い、そちらの国々の言葉も多少ならばわかります。異国の書物もよく読んでいましたから。……幼き頃は、無意味なことだと知っていながらも遠い国への憧れを抑えきれませんでした。おかげで日常生活に不自由はしない程度の知識はあるはずですが、世の中何が幸いするかわからないものですね」
「わたしはもともとこっちの世界の言葉もわかったから、多分どこに行っても大丈夫だと思います。あとは自分でよその国での暮らしに慣れていけばいいだけだし。最初にラムグルナに来たときと何も変わりませんよ」
この馬車はラムグルナのものだ。逃避行には使えない。遠くまで逃げるためには別の手段を講じる必要がある。乗合馬車でも、馬でも、とにかくなんでもいい。最適な移動手段を考えておかなければ。
すでに積み荷のほとんどはヴァシュタの銀行に預けている。今馬車に乗せられているノエルの鞄はほとんど空で、まだ手元にあるのは必要最低限の荷物だけだ。新しい無限収納を買って二人分の荷物を詰め、さらにその中に入れ子式でもともと持っていた四つの無限収納のうち三つを入れて預けたので、引き取ったときもさほど邪魔にはならないだろう。
財産のほとんどは初めから銀行に預けている。海を越えた国まで全財産をそのまま持っていくことに不安は伴うが、三王国内でなければ共通鍵箱は使えないので仕方ない。身につけられるタイプの無限収納に入れて携帯していれば、多少は紛失や盗難の危険も低くできるだろう。異国の通貨に両替すればその額は多少増減するだろうが、それでも時機と量さえ見誤らなければ大損はしないはずだ。誰も自分達のことを知らない、まったく新しい土地で生活するのに困りはしなかった。
誓いの儀が本当にただの形式だけのものならそれでいい。さっさと済ませ、予定通り新天地に高飛びするだけだ。もしそうでなかったときには、ノエルにとっての禊の旅は同行者達のそれより早く終わるが。
女神の宮殿は陸の孤島などではない。逃げ出す機は必ずあるし、遅かれ早かれノエル達は逃げるのだ。逃亡のための準備はもともとやらなければならないもので、逃げる理由と時期が多少変わるだけなのだから油断するべきではなかった――――必要ならば、嫌がるスミレを引きずってでも連れ出そう。
いかなる良薬も使い方を変えれば毒物になる。意識を混濁させる香、眠りをもたらす飲み薬、一時的に五感を麻痺させる劇薬。それを使うことになるのは追手か、あるいはスミレか。できれば前者であればいい。スミレを守るためならスミレを傷つけることも辞さないが、好き好んで傷つけたいわけではなかった。
「……あ、雨」
ぽつり、天から降ってきた雫が地図を濡らす。呟くスミレにつられるようにして空を見上げた。どんより曇った灰色の空から、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
「ふむ。本降りになると厄介ですし、急ぎましょうか。この先に小さな村があるようですし、少し早いですが今日はそこを宿泊地とするのもいいかもしれません」
小窓を開けて、中のクロード達に声をかける。彼らはお喋りに夢中で生返事しか返ってこなかったが、リリはきちんと了承してくれたので大丈夫だろう。ノエルの手に従って、銀鎧馬形は力強く地を駆けた。




