16
いつの間にか雨が降っていた。断続的に聞こえてくる雨の音は耳障りで、けれどすみれの前で眠り続ける苦しげな顔の青年には届かないのだろう。
カーディナルがうなされているのは、固い氷枕のせいだと思いたい。よくわからない素材の大きな袋に氷を詰めてタオルだけ巻いたそれは、宿屋の主人に頼んで貸してもらったものだ。寝心地のほどは保証できない。本当に、氷枕のせいであるわけがないのだろうが。
嗚咽めいた荒い呼吸に混ざって時折聞こえるのは謝罪の言葉と、許しを乞う声で。きっと、嫌な夢でも見ているのだろう。彼をさいなむ恐怖が、苦しめる悪夢が、少しでもやわらげばいい。ただそんな一心で、推定とはいえ年上の、もしかしたら―日本の基準で―成人しているかもしれない男性の手を、まるで小さな子にするようにそっと触れていた。
ろくに手入れもできないまま、水仕事のせいで擦り切れた自分の手が恥ずかしい。毎夜欠かさず塗り込んでいるカーディナルのハンドクリームのおかげで多少はましになったとはいえ、まだ完全に治っていないその手はかさついていてとても十代の女子のそれには見えなかった。しかし眠るカーディナルは気にも止めなかったようだ。カーディナルは弱々しく指を動かし、縋るように絡めてくる。さすがにずっとそのままでいるわけにもいかないが、手を繋いでいるときだけは彼の悲しい呟きも少し収まった。
「……大丈夫ですよ、カーディナルさん。わたしはここにいますから」
聴こえるわけがないとは知りながら、眠り続ける青年に囁く。弱りきった今の彼には、すみれしか縋れる相手がいない。その事実がもたらす仄暗い感情の意味や名前に蓋をして、歪んだそれから目をそらして、すみれはカーディナルの手を優しく握り返した。
* * * * *
「おまえがブラザー・イレヴンね」
ポープ様に呼ばれてふかふかのソファがある部屋に行ったら、ポープ様の他に知らない女の人がいた。
この部屋は、外の世界から人が来たときに使う部屋らしい。だからこの女の人は、修道院に入りたい人か――――修道院の誰かを探している人なのだろう。
「仮面を外して、その顔をわたくしに見せなさい」
「仰せのままに。さあイレヴン、言う通りにするんだ」
「は……はい……」
この仮面は決して人前では外してはいけないと、マザー達はいつも口を酸っぱくして言っている。けれど、ポープ様は修道院で一番偉いお方だ。ポープ様がいいというならいいのだろう。ポープ様の言葉に従って、がちゃがちゃ音を立てながら仮面を取った。
「そう。おまえは、あの男に似たのね。……ポープ、これは今年でいくつになるのかしら」
「七つです。……我が子の年も、覚えていらっしゃらないのですか」
「余計なことを言わないでちょうだい。これを生んだ覚えはないわ」
きれいなその女の人は、持っていた扇子を閉じてテーブルに叩きつけた。女の人はとてもこわい顔をしてこちらをじろりと睨んでくる。思わずうつむくと、女の人が立ち上がった。そのまま扇子で顔を上げさせられる。値踏みするようなその眼差しは、ひどく居心地が悪かった。
「きっとおまえは、成長するたびにあの男そっくりになっていくのでしょう。ああ、本当に忌々しい……!」
ぴしゃり、閉じられたままの扇子で頬をぶたれたと理解するより早く涙がにじんだ。必死に声を押し殺して、ぽろぽろ零れる涙をぬぐう。女の人の目は冷たいままだった。
「イレヴンはまだ何もわからない子供です! それを、どうしてこのような……!」
「そんなことはどうでもいいの。生かしているだけありがたいと思いなさい。……ポープ、何か勘違いしていないかしら? わたくしは寄付金を収めて、修道会はこれを養育する。それだけでしょう。そこに情などいらないはずよ」
女の人の姿がゆっくり変わっていく。美しい女の人は、人の形をした黒いけものになる。ぱっくり裂けた大きな赤い口には鋭い牙が並んでいた。
怖い。怖い。ねえポープ様、早く逃げましょう。ポープ様の袖をそっと掴もうとする。けれどポープ様は、わかってくれていないようだった。いや、あるいは気づいていてなお知らないふりをしているのかもしれないが。だってそうでなければ、伸ばした手を拒まれる理由がない。
「いいこと? おまえは今後一切、誰にもその顔と肌を晒してはいけないわ。この修道会を抜けることも許しません」
枝のような腕が伸びてきて、尖った爪が頬を掠める。ぐりぐり胸を抉られる。ぎゅっと首を絞められる。息ができない。こころが苦しい。誰か、だれか、たすけて。
「おまえは顔も名前もない、罪深き子。おまえは誰も愛してはいけないし、誰かがおまえを愛することもないでしょう。おまえが幸せになれることはないし、おまえは幸せになろうとも思ってもいけない。それが、おまえにできる贖罪よ」
言葉という名の悪意に飲み込まれる、噛み砕かれる――――黒いけものに、ころされる。
「……なぜ、ですか」
いやだ。しにたくない。その一心で立ち向かう。けれど燃え上がった勇気の灯火は、水をかけられてあっさり消えた。
「何故? 愚かなことを問うわね。おまえは存在自体が赦されない。誰にも望まれなかったのに、おまえは図々しくも生まれてきた。……あの男の子供として生まれたこと、それがおまえの犯した罪よ。その罪を償うのは当然でしょう。これ以上の理由が必要かしら?」
その牙で喉笛を噛み千切られる。その爪で胸を切り裂かれる。
血まみれで倒れ伏した瀕死の獲物を踏みつけて、女の人の姿をしたけものは帰っていった。
「……哀れな子だ。生まれた順さえ逆ならば……あるいはそもそも違う両親の元に生まれていれば、お前は……」
うつろな目でポープ様を見上げる。ポープ様は、目も合わせてくれなかった。
「あの人の言うことは、むずかしくて僕にはよくわかりません。……でも」
これだけはわかった。あの女の人が、自分をどう思っているのか。あの女の人が、何を言いたかったのか。初めて会った母という存在が、自分をどれだけ憎んでいたのか。
「僕は、いらない子なんですか? 僕は――いないほうがいいんですか?」
「……」
ポープ様は何も言わなかった。否定も肯定もしなかった。けれど黙って俯くその姿は、どんな言葉よりも雄弁に彼の真意を物語っていて。
部屋を飛び出す。誰もいない裏庭の隅で、声を上げて泣いた。いつかだれかに、必要とされたい――――僕のことを、認めてほしい。そのためには、一体どうすればいいのだろう。
* * * * *
「ぁ……」
ゆっくりとまぶたが持ち上がった。暗い。目を凝らして周囲をうかがう。見覚えのない部屋の、見知らぬベッドに寝かされていた。……違う。今日泊まる予定の、宿の一室だ。
天井を見つめ、カーディナルはぼんやり考える。いつの間に帰ってきたのだろうか。ケガレの毒のせいか、ケガレを斃してからの記憶があいまいだ。身体が重く、頭がくらくらする。
下手に動こうとすると節々が痛んだ。まだ夜明け前のようだし、起き上がることは諦めたほうがいいかもしれない。おとなしく寝直そうと思って――――気づいた。額に、直に柔らかい何かが置かれている。
「な――ッ!?」
飛び起きて、全身に走った激痛に固まる。額から落ちたのはタオルだ。痛みに耐えて動かした左手でぺたぺたと顔を触った。間違いない、生身の肌の感触だ。
さすがに入浴時と就寝時ぐらいは仮面を外している。しかし今日外した記憶はなく、寝巻に着替えた覚えも、こんな生ぬるいタオルを用意したつもりもない。怪我と毒でもうろうとしつつも自分ですべてをやったのだと信じたい、信じたいが――――それなら、ベッドのすぐ脇に置かれた椅子にちょこんと腰掛けてすやすや寝息を立てる少女と、彼女に握られたままその膝の上に置かれた自分の右手は一体何なのだろう。
「侍女殿、侍女殿?」
「ん……あ、カーディナルさん……。起きられるようになったんですね。おは……って、まだ夜じゃないですか。まだ寝てないとだめですよ」
控えめに声をかけると、眠りが浅かったのかスミレはすぐに目を覚ました。そうは言うものの、何か気になることがあったらしい。スミレは灯りをつけて、カーディナルの様子を見る。枕元に転がるタオルに気づいた彼女はそれを拾って立ち上がった。
「今新しいタオルを持ってきますね。……あっ、汗も拭いちゃったほうがいいんでしょうか」
「待ってください。何故、ここに侍女殿が? 私の仮面はどこですか?」
「……だ、だってカーディナルさんが……いいって……」
「はい?」
スミレは気まずげに目をそらしてごにょごにょと何かを言っている。しかしその声はとても小さく、まともに聞き取れない。
「……侍女殿が看てくださったのでしょうか? それについては感謝いたします」
思えば、床に臥せているときに誰かにつきっきりで看病してもらったのは初めてではないだろうか。修道院のマザー達は他の子供の面倒も見なければいけないし、たとえ病人とはいえずっとそばにいることはできない。修道会の医者役も、診察を済ませたらそれで終わりだ。何かあったときに呼んだら来るが、基本は隔離された部屋に一人で寝かされている。それが少年時代の普通だった。成人した今ならなおさらそうだ。
目覚めたときに誰かがいないのは当たり前で、そんな環境に慣れていたから、ここにスミレがいることには困惑しかない――――はずなのに。どこか安心してしまっている自分が信じられなかった。素顔まで見られたというのに、どうしてそれを二の次に考えてしまうのだろう。そんなこと、あっていいわけがないのに。
「ですが、それとこれとは話が別でしょう。私はもう大丈夫ですので、お早い退室をお勧めしますよ。侍女殿も、妙な噂は立てられたくないでしょう?」
「あっ、一応他の人達には私がつきっきりで看病するって言っちゃたので、大丈夫だと思いますけど……」
「何故そのようなことを!?」
「覚えてないんですか!? ああでも、忘れてたほうがいいのかも……?」
一体自分は何をして、何を口走ったのか。さぁっと血の気が引いていく。混濁する記憶を必死でひっくり返すが、まったく心当たりがなかった。
「あの、カーディナルさん。この部屋には、わたし以外の人は入ってませんよ。……貴方の顔を見てしまったのも、わたしだけです。確かに戒律を破らせたかもしれませんけど、緊急事態ってことで許してもらえませんか?」
「はぁ……。そう、ですね。思えばここはもうラムグルナではありませんし、侍女殿は異界のお方でした。侍女殿相手にことさら隠す必要はないのかもしれません。侍女殿にはお見苦しいものを晒してしまって恐縮ですが」
「お見苦しい……? カーディナルさん、鏡って知ってます? むしろわたしのほうが謝りたいぐらいなんですけど……」
「とはいえ、できるならば他の方には見られたくはないのですが……たまに、侍女殿が何をおっしゃっているかわからなくなるときがあります」
痛む頭を押さえて再び横になる。まどろむままに口をついていたのは、意味のない問いだった。
「時に、侍女殿。私の顔は……誰かに、似ているとは思いませんでしたか」
「え? えーっと……そういえば、どこかで見たことがあった気もしますけど……。誰だったかとか、どこだったかとかはちょっと思い出せないです、ごめんなさい」
「……そうですか」
その言葉だけで十分だった。スミレがどこでこの顔を見たことがあるのか、心当たりがあったからだ。
特別そうとは意識していなくても、視界の端にしょっちゅう映り込んでいれば嫌でも目につく。まだその時代が本当の意味で終わったわけではないと訴えかけるように鎮座しているのは、いかに女王とはいえ仮初の国主では手を出しきれない圧力の結果だ。だからラムグルナの王宮を飾るそれは、彼の存命の折から一枚たりとも片付けられていないはず。
(母上のお考えは正しかったのですね。……侍女殿にすらもそうと認識されるほど、私は……)
人の記憶は薄れるものだ。しばらく会わなかっただけでも相手に対する認識はあやふやになるのに、ましてや何年も前に亡くなった者ならその顔立ちはおぼろげになる。
加齢の場合でも同様だ。人の顔は、姿は、時の流れとともに移り変わっていく。けれど形に残るようにその外見をとどめていれば、その姿は保たれたまま永遠に在り続けられる――――たとえ人々から忘れ去られても、残された絵画は在りし日の栄光を伝え続けていた。




