15
「すみれです! カーディナルさん、いらっしゃいますか?」
ノックの音にも返事はない。恐る恐るドアノブに手を伸ばす。ノブはあっさり回った。鍵はかかっていないようだ。そっとドアを押すが、何かに引っかかったのか完全には開き切らない。隙間から室内を覗く――――黒い青年が床に倒れ伏していた。
「カーディナルさんっ!」
ドアを押し止めていたのはカーディナルの足だった。なるべく刺激を与えないよう、ドアの隙間を通り抜けるようにして彼のもとに駆け寄る。うつぶせになったカーディナルは、頭上から降るスミレの声にようやく反応らしい反応を示した。
「……じじょ、どの?」
「よかった……! って、全然よくない! 何があったんですか!?」
「どうもしていませんよ……? 手当をして……寝れば、治ります」
たどたどしくそう言いながらカーディナルは起き上がった。とても大丈夫なようには見えない。
「どうもしてないなら手当の必要はないですよね?」
「ことばの……あや、です」
カーディナルは腰に巻いたベルトポーチからいくつかの小瓶と救急箱を取り出し、立襟の祭服をはだけさせながら小瓶の中身を順番に呷いでいく。色とりどりの正体不明の液体はどんどん仮面の口元へと消えていき、けれどそのたびに彼は苦しそうに咳き込んでいた。
「ひどい怪我……」
祭服の下に着ていたシャツがあらわになる。白いはずのそれは赤黒く染まっていた。思わず呟くと、ふと彼の手が止まる。ようやくカーディナルはすみれが自分の部屋にいることによる不都合を認識したのか、困ったようにすみれをうかがった。
「じじょどの、そこに、いられると……きがえられない、のですが……」
「ほっといてこのまま出ていけってことですか!? できるわけないじゃないですか、馬鹿なこと言わないでくださいよ!」
「私は……いしゃですよ……? これぐらい、ひとりで、」
「貸してください、手伝いますから!」
「あ……」
カーディナルの世迷い事を噛みつくようにつっぱねて、彼の手元にあった救急箱をひったくる。所在なさげに伸びたカーディナルの手はあまりにも頼りなかった。
床に座り込んだままではなんだからと、ベッドの上に誘導する。カーディナルは何も言わずにすみれに従ってベッドの縁に腰掛けた。あまりにも素直すぎるが、きっとそれだけ今の彼は弱っているのだろう。
緊急事態だからと誰に向けたわけでもない言い訳をしてシャツを脱がせる。病的に白い肌には、そこかしこに生々しい傷跡が刻まれていた。
「……ッ! ほ、ほら、背中の傷とか、一人じゃ手当できないじゃないですか。ど……どの薬を使えばいいのか、教えてくれますか」
古いものから森での激闘で負ったらしいものまで様々だ。消えない無数の傷を直視し、悲鳴をこらえて問いかける。上半身だけとはいえ異性の裸を見ることに対する羞恥はあっという間に消え失せた。
今のすみれを突き動かすのは一種の使命感だ。新しい傷口は嫌な熱を帯びている。一刻も早く治療をしなければ。カーディナルのか細い声に必死に耳を傾け、指示通りに傷の手当を進めていく。消毒液を塗り、腫れたところに湿布を貼って、切り傷には包帯を巻き。中学校の保健体育で習った程度のおぼろげな記憶とあやふやな知識を頼りにしたそれはひどく不手際で不格好だったが、何もしないよりはましだろう。
(あれ……この包帯、なんだろう……)
カーディナルの右の上腕には、真新しい包帯が巻かれていた。森で処置をしたのかもしれないが、何故ここだけ手当したのだろう。気になったが、もうろうとした様子のカーディナルに関係ないことをわざわざ尋ねるわけにもいかない。血がにじんでいる様子はないので変える必要もないだろうと、その包帯についてはそれ以上気にすることをやめた。
「ぅ……」
「これでいいかな……」
さすがにふくらはぎから上は不用意に見たり触ったりするのもはばかられる。そちらの処置は後回しにして、なるべく目をつむりながら寝巻への着替えを手伝った。緩慢な動きのカーディナル一人に任せたら、ボタンを掛け違えるというレベルを越えたぐちゃぐちゃの着こなしのまま平気で寝ようとしたからだ。
「とりあえず、安静にしていてくださいね。もう少しでお医者さんが来ると思いますから、」
「いしゃは、きらいです……」
「貴方もお医者さんなんですよね!?」
カーディナルは何も答えず、そのまま駄々っ子のように布団を目深に被ってしまった。意識が混濁すると退行までしてしまうらしい。ため息を一つつき、もう医者が来ているかもしれないからとベッドを離れようと――――
「……いかないで、ください」
「か、かーでぃなる、さん?」
スカートの裾をそっと掴んだ右手は弱々しく、けれどだからこそ振り払えない。心臓がばくばくうるさいぐらいに高鳴って、不謹慎だとわかっているのに抑えられない。
「だ、だけどお医者さんを呼びに行かないといけないので……!」
「……いりません」
「医者が嫌なら、素人が看病することになるんですよ! それでもいいんですか!?」
「……どうぞ」
「わたしに任せたら……えっと、そうだ! 仮面、外しちゃいますよ!? そんなのつけてたら、顔色も何もわかりませんから!」
「……ぁい」
なんとかカーディナルを正気に戻そうと、自分も冷静になろうと続けた言葉はどれもあっさり受け入れられた。ここまで言われれば引き下がる理由が見つからず、むしろこんな状態の彼を一人にしてはいけないという思いのほうが強くなる。ここまで来ればもう乗り掛かった船だ。覚悟を決めて、カーディナルの手を取った。
「わ……わかりました。わたしはどこにも行きませんから、安心して寝てください」
「ほんとうですか……? わたしは……ひとりじゃ、ないんです……ね……」
それ以降、彼の声は聴こえなくなった。カーディナルは糸が切れた人形のように動かなくなる。眠りについたというより、意識を失ったと言ったほうが正しいだろうか。
(まさか、こんな形でカーディナルさんの素顔が見られるなんて……)
ごくりと唾を飲み、震える手で彼の後頭部を自分のほうに向ける。金具の構造がわからず外すのには苦戦したが、なんとか取れた。
改めてあおむけに寝かせる。カーディナルはすみれが思っていたよりも若く、恐ろしいほどに整った顔立ちの男だった。眉は悩ましげに寄せられ、怜悧な顔は痛みに歪んでいる。だが、その苦しげな表情が何故かなまめかしく感じられて、見ていると無性に背筋がぞくりとして胸の奥がざわめき出した。
「きれいな人……」
どこかで見たことがあったような気がする顔だ。けれどどこで見たかは思い出せない。彼の素顔をそれと知る前に見たことがあったのか、あるいは似たような顔立ちの人を見かけたことがあったのか。それすら曖昧だ。これほどの美形なら、印象に残っているだろうに。
額に浮ぶ玉のような汗をぬぐいつつ、赤みのさす頬に手を添えた。色白なせいでいっそう赤が映えているだけかと思ったが、燃えるように熱い。どうやら熱が出ていたようだ。
青白い肌と端正な顔立ちのせいか、カーディナルはともすれば精巧な人形……あるいは絵画の世界の住人のようにも見える。頬から伝わる温度だけが、彼が生身の人間である唯一の証明だった。しかし、今はただ熱のせいで赤くなっているだけで――――熱?
「カーディナルさん! 熱! すごい熱出てる!」
叫び声にもカーディナルは目も開けない。氷枕やら濡れタオルやらを調達するため、すみれはばたばたと部屋を出ていった。




