緊急事態
「うわ。うるさい」
思わず耳を塞いだ大介のすぐ隣で、桜と鯨が同時に席を立った。今までとは一転、厳しい表情をしている。鈴の顔も強張っている。
大介はきょとんとした。ずっと天井あたりで退屈そうにしていた蛙も、「なんだよ、なんだよ」と言いながら大介の元に寄ってきた。
「鯨さん、どうしたの――」
大介が尋ねたその瞬間、若い男性のアナウンスが響いた。
「横原市松井町三番地の住宅街で、亜人と思しき生物が出現。現在現地の警官が住民を避難させている。全ての対亜人兵器は、すぐに出動せよ。繰り返す――」
「行くぞ」
鯨が大介の腕を掴んで、引っ張り上げた。大介の手からスプーンが落ちて、からんと音を立てる。
「お、俺もですか」
突然のことだが、先ほどのアナウンスを聞いても状況が解らないほど大介は愚鈍ではない。亜人が現れ、鯨達はそれを討伐に行くのだ。大介とて、いずれ自分が行くことになるのは当然解っていた。けれども、まさかここまで唐突だとは思っていなかったのも事実だった。
「足を引っ張るかも……」
「大丈夫だ」
大介の言葉に、鯨は即答した。
「戦ってもらおうと思ってるわけじゃない。実戦がどんなものか、感じてもらうつもりなだけだから」
そして彼は、大介の返事を聞く前に、行くぞ、と一言言って大介を引っ張った。今まさに日本で亜人が暴れているのだ。ここで時間を使っている場合ではないのだろう。
大介の隣を歩く桜が、白い手でぽんと大介の肩を叩く。
「大丈夫よ。守るわ」
――女の人を守るのは、男の俺の役目なのに。
そう思った大介だが、まだ自分にその力はないことも解っていた。だから大介は、腹を括った。とにかく、足手まといにだけはならぬようにしなければならない。
「だ、大介……お祈りするからね!」
鈴が真剣な顔で、叫んでくれた。少し不安そうな気配もあった。安心させるために、大介が無表情で親指をグッと立てると、鈴はわずかに目を見張ってから、小さく笑った。
*
それから大介は、すぐさま館内を移動した。渡り廊下を歩き、突き当たりの非常階段をあがる。その経路だけで大介は、自分がどこに行こうとしているのかが解った。屋上だ。
管理局から亜人との戦闘に向かう場合、対亜人兵器のほとんどが屋上から移動するという。そこから移動した方が早いのだと、鯨は言っていた。恐らくヘリのようなものがあるのだろうな、と大介は思っていた。
しかし、大介の傍らを浮遊している蛙が、長い緑の髪をわかめのようにたゆらせながら、「なあなあ」と声をかけてくる。
「昨日の授業でさ、なんか移動手段があるとか言ってなかったか? それ使うのかなあ」
言われた大介は、そういえば、と思い出した。昨日桃が、今は詳細は省くが、とした上で、対亜人兵器には特殊な移動方法があると言っていた。では、もしかするとヘリコプターではないのだろうか?
「ま、行ってみりゃ解るか」
一人で結論を出した蛙に、大介は小さく頷いた。それを見た鯨が、足を止めぬまま「どうした?」と首を傾げる。大介は頭を左右に振って、鯨の隣を歩き進めた。
*
直通エレベーターは、大介達を屋上へと連れていった。強い風が大介達に吹き付ける。十一月を目前としたこの時期の空気は、どこかひんやりとして肌寒い。
「大介、これ」
鯨は懐からスマートフォンを取り出した。画面を向けられたので、ひょいと覗き込む。それと同時に、大介の息が喉に詰まった。
――凶悪な瞳が、そこにあった。その生き物は、見るからに厚そうな皮をたるませ、巨大な下半身でもって、民家の塀だったであろう瓦礫の上に座り込んでいた。丸い形をした臀部から伸びる足は七本あった。獣の足、鳥類の足がそれぞれ好きな方向に生えている。尻から足にかけてだけで、大介の姉が亜人と化した姿と同じくらいの大きさがあった。
また、上半身も下半身同様ちぐはぐであった。獅子のように獰猛な顔をしているかと思えば、その頭を支える首は蛇のようににょろりとしている。その傍らにあるもうひとつの頭は、羊の頭だ。天にのぼろうとするかのように、黒い角がうねっている。
その生き物は大きな翼も背負っていた。ヘドロに漬込んで何日も寝かせていたような、どす黒い色をしていた。




