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少年はいずれNになる  作者: 猫飯
控えめな誕生
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 鯨は、転がっている化け物に向き直る。あんなに恐ろしい怪物を前にしているのに、彼の表情には余裕があった。


「く、鯨さん」


「ん?」


 こちらを見た鯨の表情は、電車内で話を聞いてくれた時のそれと、何ら変わりがない。


「あの、お姉ちゃんが……お姉ちゃんが見当たらなくて、あの、探さないと」


 鯨は「大丈夫だ」と力強く言った。


「必ず助ける。だから待ってろ」


 そして鯨は左腕を――透明の液体となったそれを振り上げる。腕の付け根のあたりから、ぼこ、と異様な音がした。気泡が吹き出しているようだった。大きな泡が溢れては消え、水面が揺らぐ。息を詰める大介の前で、鯨が左腕を掲げあげた。


 次の瞬間、鯨の腕から水の柱が迸った。龍が天に昇るかのごとき勢いで、水はひたすら上を目指す。そして、口をぽかんとあけたままだった大介が、まばたきしたその次には、鯨は跳躍していた。今度は先ほどの比ではない――まるで鳥のように、鯨は空高くにいた。あっけにとられるばかりの大介をよそに、鯨の瞳は、まっすぐに化け物を捉えている。


 満月を背負った鯨の、黒い影が大介の瞳に映る。掲げていた水の腕が大きくうねり、蛇がのたうちまわるような動きをした――その直後、まるで槍のように鋭い形に変化した。――先端が、ゆっくりと化け物に定められる。


 アスファルトに埋まって暴れていた化け物は、ようやく体勢を整えて起き上がろうとしていた。そして、濁った黄金色の瞳が鯨を捉えた時――鯨が、化け物に向かって勢いよく突進していった。左腕の槍が、化け物の左肩を貫く。――鮮血が噴き出した。人間と同じ色をしていた。


 鼓膜を直接引っ掻くような断末魔が、市街に響き渡った。槍は、化け物とアスファルトを縫い付けるようにそのまま地面を深く抉る。化け物は、巨大な足をばたばたとさせて暴れた。その度に激しい地鳴りがして、家家が揺れ、外壁にひびが入る。大介の隣家で飼われている犬が、ギャンギャンと吠えていた。


 化け物の肩に乗っている鯨が、更に腕に力をこめた。


「大人しくしろ!」


 一喝した声に反論するように、化け物はまた吠えた。大介の耳がびりびりと痛みを訴える。


 ――やがて、化け物の暴れる力が弱まった。地面を蹴る足はぶるぶる震えていたが――次第にその頻度は落ち、やがて動かなくなった。最後に力をなくした化け物の腕が、アスファルトの亀裂に沈んだ。轟音が空気を揺らし、化け物は微動だにしなくなった。――気絶したか、息絶えたかのように見えた。大介は、その最後の瞬間まで、ただ息を詰めていた。


「……よし」


 呟いた鯨が、深く息を吐く。それと同時に、彼の乗っていた化け物の腹から、タールのような粘性の黒い液体が噴き出した。まるでこの世の濁りを全て詰め込んだかのように、汚い色をしている。においも酷く、大介は喉元に酸っぱいものがせりあがってくるのを感じた。


 一方、全身にそれを浴びているはずの鯨は、やはり落ち着いていた。洪水のような勢いで流れる液体が、民家に差し掛かるよりもはやく、彼は左腕の槍をまた液体に変えた。かろうじて手の形をしているその平を、黒い液体の中に突っ込む。


 途端、あたりがまばゆく輝いた。目が眩んだ大介は、また固く目を閉じる。それからゆっくりまぶたを持ち上げると、先程まであったはずの真っ黒な汚泥はなくなっていた。悪臭も消えていた。その代わりに、光の残渣のようなものが、空中に残っている。


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