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鯨の瞳は、すぐに大介の玄関に向けられた。あそこに何がいるのか、大介には解らなかった。懐から無線機を取り出した彼が、鋭く言い放つ。
「緊急事態。春日市室山町三番区にて亜人の発生を確認――スキャニングは不能。即座に討伐に移る」
アスファルトの地面にそっと座らされた大介は、丸い眼を見開いたままでいるしかなかった。鯨はすぐに視線を大介に移す。
「大介、お姉さんと二人暮らしだったよな? なら、さっきまで大介といたのはお姉さんか? お姉さんの体でおかしかったところはなかったか?」
――大介はいまだ呆然としていて、何一つ答えられなかった。思考がまわらない。頭の中が真っ白だった。先ほど吹き飛ばされた衝撃で抉れた小指の爪から、血が噴き出している。鼻腔からも同様に、血液が垂れていた。頬の擦過傷、膝の打撲――激しい痛みだけが、全身を支配している。
それも鯨はなお、大介と強く呼びかけてきた。
「教えてくれ。このままだと、とんでもないことになる。出来るだけ早くケリをつけないとまずいんだ。……こうなる前に、お姉さんの体に異変はなかったか?」
「――か」
鯨の必死の呼びかけに、大介は唇を震わせた。相変わらず頭はぐちゃぐちゃだったけれど、問われたことだけはどうにか理解した。
「肩……」
「肩?」
「ひ、左肩」
大介の答えに、鯨は安堵させるように笑みを浮かべた。大介の丸い頭を撫でる。
「……了解。すぐに終わらせるから、ちょっとだけ目を閉じててくれ。絶対に、大丈夫だからな」
そして彼は、その場を跳躍した。予備動作もない動きで――ただ、子供がその場を駆け出すような気軽さで地面を蹴った鯨は、ひといきで玄関先まで飛んでいく。人間離れした動きに、大介はへたりこんだまま動けなかった。口を半開きにして、呆然と眺めるしかない。鯨は、おおよそ5Mを、突然飛んでいったのである。かたかたと小刻みに震えながら、大介はそれを自然と目で追った。――そして、全身の血がザアッと足元まで滑り落ちる。
――大介の家の玄関先にいたのは、何か異業の形をした化物だった。
上半身だけが奇妙に肥大し、下半身は枝のように細い生き物――四肢の生え方はかろうじて人に近いが、皮膚は土気色をして、ところどころに穴ぼこがあいている。薄く吹き出した蒸気が、冬の空気へ溶けていった。
巨大な顔面は山肌のように凹凸があり、顔を裂くように開いた口から牙が覗いていた。頭部にある牛のような角が、真っ直ぐに天を捕らえていた。
――大きな目玉が、ぎょろりと動いた。大介を見る。大介は咄嗟に顔を逸らし、かたく瞳を閉じた。夢だ、と思った。耳につんざく獣の慟哭も、風の切る音も、びりびりとした感覚を肌で感じるほど現実的なのに、大介にはそう思うしかなかった。これは夢だ――夢でなければありえない。
身を小さくして耳を塞ぐ。轟音が轟いた。前方から風圧を感じた。大介はまぶたに力をこめ、自身を暗闇に閉じ込める。唇を噛んで縮こまった。
――しかし、震えていただけだった彼は、すぐに気付いた。――姉がいないのだ。それを思い出した時、大介は自分の体温が急速に失われるのを感じた。
姉がいない。彼女がいた場所は、気付けばあの化け物が陣取っていた。まさか――踏み潰されたり、どこかに突き飛ばされてしまったのか。
早く助けにいかなければ。大介は、閉じていた瞳をあける。
――すると、ほんの一瞬の間に、その場は様変わりしていた。大介の家の塀は崩れ、大穴があき、瓦礫が散らばっている。玄関先の扉は大きくひしゃげ、庭に転がっていた。何事かと出てきた隣人が、金切り声で悲鳴をあげて逃げていく。
「お姉ちゃん!」
大介は声をあげて、姉の姿を探した。その声に反応したのは、姉ではなく化け物の瞳だった。先程の倍まで膨れ上がった顔面の、その奥にある獰猛な目を大介に向けた化け物は、アスファルトを踏み抜いて走り、大介と距離を詰めた。激しい地響きに、大介は体勢を崩して地面に掌をつく。
理性も何もない獣が、大介の前にいた。凍りついた大介を前に、化け物は巨大な口を開いた。巨大な舌、吐き気がするほど臭い唾液――切っ先の鋭い歯が、大介の顔のすぐそばにあった。
食われる、と大介は思った。後ずさりすら出来ないまま、口が寄ってきた。
――しかし次の瞬間、獣が激しい叫び声をあげた。巨体が突如宙を浮き、右方向へ吹っ飛んだ。寸刻前の大介とまったく同様に、道路にたたき付けられる。地面が大きく揺れ、アスファルトを這うように亀裂が入った。
「大介!」
見上げると、目の前には鯨が立っていた。彼の左腕は、とても奇妙な状態だった。二の腕から下に肉体はなく、ただ清らかな水が空中を漂っている。かろうじて腕の形をかたどってはいるが、表面は波打ち、ぼたぼたと雫が落ちていた。今にも全ての水が床に落ちていきそうなのに、しかしそれは危うげなまま鯨の腕として存在している。
何もかもわけが解らなくなって、大介は本当に倒れそうになった。




