少年の日常が壊れる
いくつかの家の前を通った大介は、やがて自宅の前で足を止める。
「ここが俺の家」
大介の家は、赤い屋根に白い壁の、洋風の家だった。覗いた庭先は雑草が生え、隅にある花壇はあまり手入れされていない。姉が手を抜いているわけではなく、そもそもそんな余裕がないのである。二十五、六ほどの若い女が一人で働いて、更に大介の面倒も見るのは、きっと大変なのだ。鯨は驚いた様子で、「二人でこの家に住んでるのか?」と首を傾げた。
「随分大きいな」
「俺はよく解らないけど、この家は、持ち屋とかいうものらしい。おばあちゃんの時から持ってるんだって。税金? とかで、手放した方が楽になるかもしれないけど、おばあちゃんの時からだから、出来れば持ってたいってお姉ちゃんが言ってた」
「へえ……」
鯨は感心したような声を出した。
「それじゃあ、俺は本当に帰る。ありがとうございました。これ、お礼」
大介はポケットを探り、犬のキーホルダーを手渡した。サーカスで買ってきた土産の品だ。電車代を惜しんでまで購入した唯一の土産だが、鯨には非常にお世話になったので、渡しておくことにした。
深々とお辞儀をすると、嬉しそうにキーホルダーを懐にしまった鯨は、穏やかに微笑む。
「じゃあな。また、犬の話でも聞かせてくれよ」
「うん」
鯨は最後に大介の頭を撫でると、去っていった。その大きな体を見送った大介は、ポケットから家の鍵を取り出す。分厚い扉の前に立って、鍵穴に鍵をさしてまわした。錠が外れる音がして、大介は扉を引いた。
「……ただいま」
内心緊張しながら、大介は声をあげた。迷子になったり保護されたりと忙しい一日ではあったが、そもそも今日は、大介が初めて姉に嘘をついた日でもあるのだ。バレないだろうか、バレたらどうなるだろうか――緊張する思いを無表情の下に隠しながら、彼は玄関の明かりをつける。
――すると、そこには姉が立っていた。黒髪をひとつに束ねた彼女は、大介とは違った整った顔を歪めていた。厚手の部屋着を着た彼女は、小さな手でエプロンを握りしめている。
首を傾げた大介に、姉は白い喉をひくつかせた。
「……大介」
「ん」
「…………今日、どこに行ってたの」
大介は、自分の背筋がぎくりと強張るのを感じた。それでも表情を歪めぬように意識して、なんとか答えようと口を開く。
「塾――」
瞬間、姉の怒鳴り声が響いた。
「嘘つかないで!」
肩を跳ねさせた大介の前に膝をついた姉が、腕を掴んできた。
「山口さんが、東町で自転車に乗ってるあなたを見たって言ってたわよ! 東町って、塾の真逆よね! そんなところで何してたの!?」
「お姉ちゃ……腕、痛い――」
「答えなさい!」
姉の瞳から涙が溢れた。大介は何も言えず、ただ立ちすくむ。姉の、予想をはるかに超えた剣幕を前にした大介は、言葉を紡げなくなっていた。黙り込む大介に、姉はしゃくりあげる。
「……大介の為だと思って、毎日働いて塾のお金を稼いで――他の何に不自由しても、勉強だけはさせてあげたくて……お母さんが死んでから、ずっと、ずっと頑張ってきたのに……それなのに……」
姉は、まるで支えをなくした子供のようだった。激しく泣きじゃくる姉の姿を、大介は一度も見たことがなかった。両親が交通事故で亡くなった時ですら、当時高校生だった姉は、ずっと泣かずに大介のそばにいたのだ。しかし今は、絶望の淵にでも立たされているような姿だった。
大介は声をなくしてしまった。ごめんなさいと言えればいいのに、それすらも出来なかった。こんなことになるとは、思っていなかったのだ。どうして、どうして、と姉は繰り返す。大介の二の腕に、姉に指が食い込んだ。
――その時、大介は奇妙な違和感を抱いた。
「……お姉ちゃん?」
見下ろした姉の右肩が、ぼこりと隆起していた。まるで巨大な瘤のように浮き上がっている。そんな場合ではないのに、怪我でもしたのだろうかと心配になった。大介は、その肩に触れようとした。
――瞬間、つんざくような叫び声が家を揺らした。
その時何が起きたのか、大介には解らなかった。ただ、突然の浮遊感が身を包んだ。直後、全身に激しい痛みがある。気付けば大介は、道路にたたき付けられていた。細い体がわずかにバウンドするのと同時に、肺の中の冷えた空気がひゅっと抜ける。頬がアスファルトで擦れ、鼻の奥に鉄の味が広がった。
顔をあげた先に、奇妙な形をした足が見えた。太い木の幹のように節くれだち、うねっている。その足は、大介の家の玄関を踏み締めていた。鋭い爪がフローリングに刺さっている。誰だ、と大介はぼやけた意識で思う。あんな生き物は知らない。あれは一体何だ――。
「大介!」
誰かの声が聞こえた。次の瞬間、大介は抱きかかえられていた。思考もままならない大介に、男の声が言った。
「大丈夫か!?」
ぼやけた視界にいたのは、鯨だった。大介はただ、口をはくはくと開閉させるしか出来なかった。




