02
私の恋は終わった。大好きな彼からは、もう電話もメールも来ない。
でもそれよりも大切なことがあった。
まず色の付いた服を捨てること。化粧品を捨てること。服は全部脱いでそのまま洗濯機にではなくゴミ袋に突っ込んだ。ゆっくりと体を清める。綺麗になっていく。安心する。
部屋の掃除も隅々までした。天気がいいから、布団も干す。ベランダで十分に埃を叩き出して、消臭剤を湿らせて陰干しする。そうすれば太陽の匂いもあまり気にならない。
バスルームから出てきて、掃除されたばかりの部屋を見回す。白く染まっていく部屋の中で、茶色い床が目を引いた。
リノリウムの床……羨ましい。スリッパできゅっきゅと床をこすって、考えないようにパソコンへ向かった。
気付くと、3時。……夜中の。
何時間パソコンに向かっていたのかは解らないけれど、仕事はだいぶ進んでいたようだ。
シリアルと牛乳、バナナの食事。今日は吐かずに全て食べられた。食事が終わると、シャワー。歯磨き。パソコンをしてちょっと疲れたら、手を洗う。食事をした回数とは別に、2回は思い立って歯を磨く。シャワーは最低でも1日2回、掃除をしたら必ず。洗濯は1日1回。
リノリウムの床に会いたくて、私は少し寝てから、病院に向かった。
もう、流行の服を着る必要が無い。堂々と白いワンピースを着て、日傘を差して出かけられる。
あんなに好きだった彼から解放されて、息が出来るようになった私が居た。
「来ると思ったよ」
彼は笑顔で迎えてくれた。
「仕事は?」
「夜通し」
リノリウムの床。白いシーツ。
「泊り込みなの?」
「大体はね。ここ、診察室だけど、僕に診察されたい患者なんて殆ど居ないから、ほぼ僕の部屋として使ってる」
白いカーテン。見える公園。部屋の中に空気清浄機を見つけて、また安心感が増した。
「手術って……汚くないの?」
「オペの前にはかならず全身を殺菌した状態で入る。キャップをかぶってマスクをして。血が飛び散らない限り、清潔」
約束どおり点滴してあげるよ、と言われ、何故か聞いた。なんで私に点滴が必要なのか。そうしたら、栄養が足りてなさそうだからと言われたので、大人しく針に刺された。
私はリノリウムの床に会いに来ただけなのに。
硬いベッドに横になり、不安そうに見上げる私に彼は言った。
「清潔だよ。少なくとも君が横になっているこのベッドは。今朝シーツを取り替えたばかりだし、殺菌もしてある」
「病院って便利だね」
こんなに簡単に除菌・殺菌が出来るなんて羨ましい。
「綺麗好き?」と聞かれたから、「汚いのが嫌い」と答えた。
「あなたは?」と聞いて、「綺麗好きだよ。病的なほど」と返ってきた。
「今日着ている服、昨日来たときと全く違うね。バッグも」
「ええ、全部捨てたから」
なんでだろう?樹とはこんな話できなかったのに、見知らぬこの人とは普通に出来る。
「バッグの中身が気になってたんだ。聞いてもいいかな?」
少しだけ嬉しくなった。私の好きなアイテム達。その話が出来る。
「ボトルが3本、脱脂綿が5枚、ハンカチが2枚、タオルが1枚」
お財布や携帯は端折った。そんなもの本当は必要ないから。
「一つは、消毒液を精製水で薄めたもの。一つは、グリセリンを精製水で薄めたもの。これは化粧水。一つは、それにお酢を加えたもの。これは髪の美容液。それに、紙石鹸、携帯歯ブラシセット、それから、牛乳」
「牛乳?」
「小さなパックの牛乳。好きなの、牛乳が」
ぽたりと点滴が落ちるのを見た。なんて落ち着くんだろう。
「あの日の君は、君じゃなかったんだろう?」
なんでこの人はわかってしまうんだろう。
「彼と別れたの。大好きな彼。だけど耐えられなかったの。彼の肌も、彼の息も、彼の体温も。大好きだったの、だけど、駄目だったの……」
じわり、と涙が溢れた。シーツに落ちる前に、タオルを当ててくれた。ほんのり消毒液の匂いがした。
「触れられた場所は、何度も洗った。触れられることすら、耐えていた。好きなのにどうしても、触れられない。そもそも、触れたいと思う気持ちがわからない。一緒にいるだけじゃ駄目だった。彼の欲求に答えられなかった。もうお互いに限界だった。もうこれ以上私が汚れるのは耐えられない。今だって涙で汚れていくのに……」
愛しい樹を思うと心が痛かった。その度に排除排除と呟いて気持ちを消した。
「少し借りるね」
彼は立ち上がると、ゴム手袋の上から更に消毒液をふりかけて、私のバッグを開いた。その中から化粧水を出すと、脱脂綿に湿らせて私の涙を拭いてくれた。
「ありがとう……」
次から次へと涙が出るけど、彼が拭いてくれるからちっとも不潔じゃなくなった。
「どうして、貴方は解るの?だれも解ってくれなかった私の当たり前なのに。物に触れるときは、消毒。身の回り全ては、殺菌」
「そう、容器は使い捨てが一番好ましい。誰かが使ったものにはなるべく触れない」
「汚いから」
「汚いから」
「そう。そう!なんで?解るの?」
「君と僕は同じ病気だからだよ」
…………は?
私はきょとんとしてしまう。
「ああ、自覚は無い?ってことは、病院行ったこと無い?薬も飲んでない?」
病院?病気?薬?いったい何の話し?自覚?いったい何の?
「潔癖症」
そんな言葉を、ぼんやりと聞く。なんだろう、それ。聞いたことはあるけれど、一緒、病気、潔癖症、病院、薬、私。どうも繋がらない。
「混乱してる」
「え、あ」
突然。そんな事言われたら誰だって混乱する。
涙の止まった私の顔を拭き終えると、今度は髪を少しつまんで綿で拭いてくれる。嗚呼、私は暖かい指で撫でられるより、こうして汚れを拭き取って貰うのが好きだったんだ。今されて、初めて知る。
「あなたは?」
あなたも?と聞かないのは、まだ私が病気だと認めたくなかったから。
「潔癖症?」
「まあね」
そ知らぬ顔で私の髪を拭いている。
「痛んでないね。こんなに長いのに。シャンプーは何を?」
「市販のもの。無添加で、アロエが入ったやつ」
ボディーソープも同じものを使っていた。匂いが無いもの。色が付いていないもの。
「買い物、大変でしょう?」
ああ、やっぱり彼もお金の汚さを感じるんだ!初めて感じる、「共感」という心地よさ。
「うん、買い物は、カード。だからなるべく纏め買い」
「食事は?」
「レトルトパウチか、シリアル、バナナ」
「それで牛乳」
彼が笑った。
「だから栄養が足りないんだよ」
「貴方は何を食べるの?」
「なんでも」
「汚いじゃない」
「コンビニ、いいよ。大量生産だから、温度を感じない。防腐剤も入ってるし、菓子パンとか、好きだな。すぐに食べれて、ビニール一枚捨てれば平気。よく公園で食べるよ」
「外で食べるなんて、空気が汚れてるのに」
「でも、室内で食べるなんて考えられないよ」
そうだ。解る。その気持ち。解りすぎるほどよく解る。病気の話しはもう忘れた。どうでもいいことだった。彼が私の髪を拭いている。点滴がもうすぐ終わる。彼が言うのなら、コンビニの菓子パンもいいかもしれないと思った。
「コンビニか」
「クオカードを買うといいよ。2,3回で使い切るから」
彼も少しでもマシな世界を選んで生きているんだろう。私の在宅ワークがマシなように、彼の仕事もまたマシなのだろう。
「君は清潔だ」
その一言が、また泣けるぐらい嬉しかった。だって、不潔だったら排除される。清潔だったら受け入れられる。それが彼には解る。私にも解る。彼は。彼は。
「貴方も、清潔」
そう、許せる、人。
点滴が終わって、私はベッドに腰掛ける。彼が手袋を外した。
「あのね」
一瞬だけ私の指先を持ち上げて、すぐに離す。
「僕はこれが限界。体温が伝わらない時間」
「素敵だと思う」
恋愛はするのかと聞いてみた。するけど駄目だと言った。私とおんなじ。
「キスは?」
と私が聞いたら、彼はマスクを取って、私の唇にガーゼを当てて、布越しに一瞬だけ、下唇に唇を合わせた。
「これが限界」
「私も」
嫌ではなかった。だけど終わってからお互いに歯を磨いて顔を洗った。笑い出してしまうぐらい幸せだった。使ったガーゼはゴミ箱に捨てられた。




