01
私は彼を愛してるから。
私は私を捨てようと努力する。
鏡の前に立ち、白いワンピースを脱ぎ捨てた。
彼の為に色の付いた服を着る。
彼の為に眉毛を書く、彼の為にマスカラを付ける、彼の為にシャドゥを入れる、彼の為に家を出る。
人ごみに眩暈を感じながら、彼の待つカフェへと足を運んだ。
「お待たせっ」
彼。優しい彼。こんな私でもいいと言ってくれた彼。その彼の為、吐き気だって悟られないようにする。
「お腹、空いてる?」
「……うん、ちょっとだけ」
私は無理に笑顔を作り、さりげなく椅子の上にハンカチを置いて座った。
そして、誰が座ったかもわからない椅子で、綺麗じゃないテーブルクロスの上に、ちゃんと洗ったかどうかも判らないお皿に盛り付けられた、誰が触れたか判らないサンドイッチを無理矢理押し込んで、汚らわしいグラスに注がれたアイスミルクで流し込んだ。
「牛乳好きだよねー」
彼の顔はキラキラ輝いている。
「うん」
私もそれだけで何とか笑える。
「大丈夫?人、多くない?」
人が怖いという私を気遣ってくれる。
「ちょっと……でも、樹と一緒だから、ちょっと平気」
「そっか」
彼はハンバーグランチを食べる。なるべく口元を見ないようにする。
食事が終わると公園を散歩した。とりとめのない会話をする。私はこの瞬間が好きだ。彼の仕事の話し、私の仕事の話し、気になる映画、趣味、小さな雑貨屋に今度行こうという話し。
「人、大丈夫?」
また彼は気遣ってくれる。
「本当は家のほうがいいんじゃない?」
「ううん、平気だよ。たまには外に出ないと、本当の引きこもりになっちゃう」
笑う。笑うけど、辛い。
「今、在宅ワークだよね?気分転換、必要でしょ?」
「ま、ね」
どちらかの家に、なんてありえなかった。どっちにしろ、彼を受け付けられなくなるのは目に見えていた。
彼を嫌いになりたくない。彼の家に行って彼の汚い部分を見るのは嫌だったし、私の部屋に「何か」を入れるのはもっと嫌だった。
「キス、してもいい?」
彼の問いに私は俯いて言葉を失くした。
「ごめん」
「……ごめん」
彼が謝る。私も謝る。辛かった。
手を繋ごうと言うので、笑いながら手を繋いで駅まで歩いた。
電車の中では彼が私を守るように立って、たまに頭を撫でてくれた。
電車を降りてデートは終わる。彼の背中が見えなくなると、私は全速力で家まで走った。
ハンカチに包んだキーを取り出し、ドアノブをハンカチで包んで開く。玄関で靴と靴下を脱いで、バックの中から精製水で薄めた消毒液を出し、ハンカチに湿らせて足を拭く。消臭剤を振りかけたスリッパを履く。洗濯機に着ている物を全て脱いで放り込む。ユニットバスの扉もハンカチ越しに開けて、トイレに蹲って吐いた。
吐いているうちに涙が溢れた。
今日、手を繋いだ。髪に触れてくれた。頭を撫でてくれた。そっと背中を抱いてくれた。
思い出せば思い出すほど胃の中の物が逆流してくる。
全てを吐いて、胃酸まで吐いて、トマトとレタスの原形がまだわかる吐瀉物を流し、シャワーが温まらないうちからバスタブに飛び込んで浴びた。
酸っぱい、生臭い味の残る口を濯ぐ。歯を磨く、触れてもらった髪を2回洗う、化粧を落とす、顔を洗う、繋いだ手は5回洗って落ち着いた。
「ごめんね……」
吐き気は治まるけれど、涙は止まらない。バスタブにしゃがみこみ頭をシャワーが打った。
「ごめんね、ごめんね」
彼が好き、好き、死ぬほど好き。何度言っても足りないぐらい愛してる。
でも……思い出しただけでも気持ちが悪い。人間という生き物。
彼は普通のサラリーマン。煙草は吸わない。ワイシャツだっていつも真っ白。だけど職場では?喫煙所に立ち寄ることは?彼が吸わなくても彼の周りの人間は?彼のいつも触れている書類は清潔?シャツの袖口や襟は?外出したら汗をかく。生きている限り分泌される皮脂。油に張り付く埃、浮き出る垢……
人間なんて清潔なところなど何一つ無い!
汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる……
「汚い」を「愛してる」に無理矢理変換して考えを封印する。
「ごめんね」と「愛してる」を交互に呟いて私は泣いた。
もう一度頭の先からつま先まで丁寧に洗い、浴室を出る。
白いタオルで水滴を拭い、いつもの服を身に着ける。
白い下着、白いワンピース。白が一番清潔だ。汚れが一番目立つから、汚れを排除すれば清潔だ。
部屋はエアコンと加湿器と空気清浄機が稼働している。いつもの空間に包まれてやっと一息ついた。
小さなキッチンの小さな冷蔵庫からからシリアルと牛乳を手にした。吐いた分を入れなければ。料理なんて部屋でするものじゃない。シリアルか、レトルトパウチの食品。お湯を沸かすのだって汚らわしい。唯一の生ものはバナナ。皮はビニール袋に入れて冷蔵庫でゴミの日まで保存する。それすらも汚い。
私は食べる行為が好きじゃない。食事も排泄も不潔だ。食事を手に入れる為……否、洗剤も、漂白剤も、トイレットペーパーも、化粧水に使うグリセリンも、消毒液も、消臭剤も、身の回りで使う品全てを手に入れる為には、「お金」が必要になる。人から人、そのまた人へと何十何百何千と色々な人の手垢にまみれたお金。銀行で新しいものに変えて貰おうとも、既に銀行員が、その前にも数人に渡ったお金。
ああっ!
食べる前に考えるのは止めよう。また吐きたくなる。
私はシリアルに牛乳をかけて食べた。
彼を愛してる。付き合って1ヵ月、手を握るだけで満足していてくれる。私も我慢しなければ。
我慢?愛してるから?でも、この先……耐えられるだろうか?例えば、キス……
無理だ!耐えられない!
耐える……我慢する………愛してるのに。愛してるから。
「――――――っ!」
辛い。涙が出た。ポタリとシリアルのお皿に入る。
――――――――……涙は、汚い。
結局食べた分は吐いて、残りは捨てた。
少し横になる。白いシーツにくるまって、落ち着くまで待つ。大きく深呼吸をして、玄関へ向かった。
靴を消毒液で拭いてからシューズボックスに入れる。今日着た服を洗い乾燥機で乾かす。
バスタブの水を拭き取ってフローリングに雑巾をかける。
シャワーを浴びて汚れを落としたら、やっと仕事が出来そうだ。
静電気で埃を集めるコンピュータが仕事道具。不潔だが生活には代えられない。外で働くなんて不潔すぎて絶えられない。電話とメールのやり取りで仕事が出来るのだからまだマシだ。埃を寄せ付けるなら埃を排除すればいい。
1文字0.3円。10分で私は800文字、1時間で4800文字。1日10時間はパソコンに向かう。10時間で48000字、48000字で14400円。余計な事を考えるよりはまだマシ。
私は少しでもマシな世界で生きようとしている。生活をなるべく排除する。生活は汚れることだから。体を洗っている時、掃除をしている時、パソコンに向かって何も考えずに無機質な文字を打ち続けている時、私は少しだけ安心できる。
来週もまた彼と会える。来週は映画。大好きな彼。大好きな彼のために買った洋服や化粧品。今すぐにでも捨てたい汚らわしい物。だけど彼を愛してるから、私の部屋に色を入れる。
排除排除排除排除。
要らない考えを排除してキーボードを打ち続けた。
***
……終わった。
彼との関係。今日のデートで全てが終わった。
映画を見ている2時間は苦痛。映画館に漂う埃が、薄明かりに照らされる。それを見るだけで私は呼吸もままならない。
映画を見ている途中、彼が私の手に触れて、私はずっと震えていた。
「なんで、駄目なんだよ?」
映画も、その後のランチも、私は笑えなかった。
「好きなのに、何で、駄目なんだよ?」
一言一言かみ締めるように、彼が言う。
「……なんで、好きなだけじゃ駄目なの?」
私は俯いて、項垂れる。
「愛してる。でも、それだけじゃ駄目なの?何度言っても足りないぐらい愛してるのに、それだけじゃ駄目なの?」
「それだけって……なんだよ?」
きっと理解できない。彼を私が、私が彼を。
「手を繋いで、抱きしめて、キスをして、それがどうして、駄目なんだよ?君は僕と居ても辛そうな顔しかしない。辛い君を見るなんて辛い。でもどうしたら君が笑顔になるのかわからない……」
「ごめんなさい……」
彼は俯く私を引き寄せて、私の背中を抱いた。ダイレクトに伝わってくる、体温。
「好きなんだ、愛してるんだよ……」
そうして近づいてきた顔を、私は思い切り顔を反らして避けて、力の限り彼を突き放し彼の腕から解放された。
「好きなの、愛してるの……」
「わかんないよ……」
私は結局彼から逃げ出してしまった。もう追ってきてくれないことを悲しく思った。
愛してるだけじゃ何で駄目?どうしようも無いじゃない。愛しい彼を突き放してしまった自分が悲しくて、もう私のところに連絡をくれないだろうと思う事が寂しくて、彼から解放された事に落ち着いて、もうこの色付きの服を排除していいことが嬉しい。
気分が悪くなって、家に帰るまで我慢できず公園に立ち寄った。
中央の水道まで行って、吐く。吐きそうなのは、今日家を出てから変わらない。埃が充満する映画館。今日食べたパスタ、触れられた手、背中。
何度も咳き込んで吐いた。落ち着くことなんて出来ない。震えは止まるどころか酷くなっていく。
零れる涙をハンカチで押さえて泣いた。明るい夏の公園に似つかわしくない私の存在。
誰も私を見ないで。誰も私に触れないで。誰も私に声をかけないで。
だけど、その願いは絶たれた。
「大丈夫ですか?」
うっ、と、また吐き気がこみ上げる。
「気分が悪いなら、少し休んでいったほうがいいですよ?」
私はガチガチと震えながら、振り向いた。色を見るのが怖い。逃げ出さなくちゃ。早く私の家に帰らなくちゃ。目に飛び込む色から逃げて……
「……ぁ、」
色、は、無かった……
私の目の前に立つ人は、白かった。白いシャツ、黒いズボン、白衣を羽織って、そして何よりも私を安心させたのは、その人のしている防塵マスク。
「あ、あ……」
私は声を失う。誰?何?漂ってくる安心する匂い。よく知っている匂い。私の大好きな匂い。何?
消毒液の匂いだ。エタノールの匂い。この人は……清潔?
「暑さで気持ち悪くなったのかな?涼しいところに行ったほうがいい。立てる?」
立てる?と聞くけど、手はポケットに入れたままだった。私に触れようとしてこないこの人。この人なら、私を救ってくれる?
そこで気づいた。私が今いる場所。砂埃が舞う公園。バッグを、ああ、私は汚い公園の芝生の上などに置いてしまった!さっき吐いた時に、素手で握ってしまった蛇口。汚い。私が汚い。汚れている。全て汚れている。
「ほら、顔色が真っ青だ。付いてきて」
私は言葉を失くして、白い背中にふらふらと付いて行った。公園に脇の建物に導かれる。そうか、ここは総合病院に隣接する公園だったんだ。
少し救われた気持ちになる。病院は他の建物よりも清潔だから。
彼がなぜポケットに手を入れたままなのか、彼が一つの部屋を開けたとき解った。ドアノブをつかむ彼の手は、ゴム手袋に包まれていた。
「ここで少し休んでいくといい。冷たい飲み物、用意するから」
リノリウムの床。夢に見たこの無機質な床。私の部屋のフローリングとは比べ物にならない、理想的な床。
真っ白な部屋、きっと毎日取り替えているだろうベッドの綿シーツ、それを取り巻く真っ白なカーテン。
「あの……」
「なに?」
「手を、洗いたいんですけど……」
言うと、小さな洗面台を指されたので、そこに向かう。無言。もう、他人の目なんて気にしていられない。私は汚れてしまった。綺麗にしなくちゃ。綺麗にしなくちゃ。
まず、携帯している紙石鹸で手を洗う。ハンカチに消毒液をしみこませ、バッグを拭いた。脱脂綿に別の液体をしみこませ、髪を拭く。もう一枚脱脂綿を取り出して、同じように顔を拭く。本当は今すぐにでもシャワーを浴びたかった。服が汚れを吸い込んでいるから、こんなもの早く捨ててしまいたかった。
全てが終わり、もう一度手を洗っていると、「洗い終わったらその横のを使うといいよ」と言われて、スプレーから出てきたのは私の大好きな消毒液だった。
「座って」と進められた椅子を、ためらうことなく消毒液で拭いた。安心して座れる。これはハンカチを敷くよりも清潔。
目の前に出されたミネラルウォーター。キャップの所を拭いてから蓋を開けた。見知らぬ誰かは紙コップでコーヒーを飲んでいた。
「……落ち着いた?」
「ありがとうございます」
落ち着いた。理想的な空間。まだ排除すべきものはたくさん有るけど……私の服や、体中に付いた汚れ……だけど、マシ、になった。
「お医者、さん?」
改めて彼を見る。眼鏡をかけて、防塵マスクをして、ゴム手袋をはめて、白衣を着た人。
「うん、担当は外科だけど、とりあえず気分が悪い人を放っておいてはいけないと思って」
窓に目線を走らせたので、私も同じ場所を見た。
公園が見える。
「君が見えた」
「……うん」
病院だって、完全に清潔とは限らない。ちゃんと洗われていても、誰が使ったかも解らないシーツやベッドを使うのは嫌。長時間消毒液につけてあっても、その前に誰かに使われた器具を使われるのは嫌。
それに何より、人が清潔じゃない。
「外科、って?」
「手術が多いよ。緊急オペ。少なくとも、内科向きじゃないんだ、僕は」
「どおして?」
「診察の時も常にマスクと手袋を外さない医者を、患者は信用しない」
「私はそのほうが安心するのに」
「……だろうね」
彼が笑った。何で笑うんだろうと思った。そして、なんで解るんだろうとも思った。
どうしてマスクと手袋を外さないのか、聞くまでもなかった。それは汚いから。素手で他人に触れるなんて、汚いから。外の空気を直に吸うなんて、汚いから。
「帰ります」
汚い私を早く洗いたくて、私は席を立った。
部屋を出るときハンカチでドアノブを掴む私の背中に、「いつでもおいで。今度は点滴打ってあげるよ」というなんだかよくわからない声がかかった。




