第3話 大佐
「シルフ!」
大声でシルフを呼んだ体格のいい男が、こちらへ闊歩してきた。
階級は中佐。何度か名前を耳にしていたヴィルトス中佐だ。
「時間は?」
「一時間と七分です」
少佐は黄金色が錆びた懐中時計をパタリと閉じると、ヴィルトス中佐に向かい合った。
周囲の兵士たちは固唾をのんで、二人の司令官を静かに取り囲んでいる。
「だいたい一時間か……」
彼は暗い髪色を撫で付け、軍人を絵に描いたような角張った輪郭をしていた。
その大きな口から、骨太でよく通る声が響く。
「どうする。作戦を始めるか」
「危険ではありませんか?この大幅な時間のズレは無視できませんよ」
「だが、何か異常が発生した場合は時刻に関わらず合図を出すことになっている。それは手紙で何度も確認し合ったことだ」
少佐は考え込むように口元に手を添えた。
「……見張りが一人もいないことが気になります。本来は、収容所側が合図ーーつまり爆発を起こしてから見張りを陽動し注意を引く手筈だったはずでしょう。しかし、今はそれと逆のことが起こっています。爆発が起きる前から、見張りは既にいなかった」
「確かにそうだが……状況など現場でいくらでも変わる。戦時中だ、何が起きてもおかしくない。何らかの緊急事態に陥り、収容所側が土壇場で作戦を変更したのかもしれん」
「……だとしても、順序が逆転しているのには少し違和感があります。あの大規模な爆発以外で、見張りの兵を全員集める方法なんて、今の状況で存在するでしょうか。もしかしたら、既に敵に情報が渡ってしまった可能性もーー」
「シルフ。もういい、お前は相変わらず慎重が過ぎる」
痺れを切らしたように、中佐が苛立ちを込めて腕を組んだ。
「今はとにかく時間がないんだ。見張りを動かす方法があるかなど、今の俺達が考えたところで答えは出ない。こうしている内にも、民間人に被害が出ているかもしれないんだぞ。今は見張りがいないという事実を利用するまでだ。計画とは違えど、合図は確かに送られた……作戦は進んでいるはずだ」
少佐は無表情を固めたまま、沈黙していた。中佐はその沈黙を拒絶と受け取ったのか、足早に踵を返した。
「もういいな、作戦は実行だ」
準備に取り掛かろうとするその後ろ姿に向かって、少佐は声を上げた。
「待ってください。大佐がまだ到着していません」
「………」
中佐の歩みが、ピタリと止まった。
大佐は、今回の作戦の主戦力であり要だ。彼がいなくては、作戦の成立自体が困難になる。
眉間に濃い皺が寄った。
「それに、医療班長の彼女もです。捕虜も含めた、多くの負傷者を看るには彼女の存在が不可欠です」
予定よりも早い爆発は、両名の登場を待つことなく起こった。作戦に大きな影響を及ぼす二人の不在を、シルフの言葉によって残酷なまでに突きつけられた。
重い静寂が広場を支配する。一秒すら惜しいこの状況で、誰もが正解の存在しない決断を中佐に求めていた。
やがて、喉の奥から絞り出すような声が漏れた。
「……だが」
中佐は振り返らないまま、自らに言い聞かせるように言葉を絞り出した。
「ここで呑気に機を窺っている間に死人が出たらどうする。……俺は一生後悔するぞ」
少佐が静かに問う。
「……作戦の変更は」
「……大佐が不在である以上、戦闘は極力回避だ。捕虜の奪還を最優先とし、各自の判断で即刻退避。これ以外の変更は無しだ。収容所側との混乱を招く。いいな?」
中佐の鋭い眼光が、周囲に並ぶ部下たちへ向けられた。
「これは命令だ。作戦を実行する。ーー総員、直ちに持ち場につけ!」
鼓膜を突くような揃った返事が響き渡り、兵士たちが一斉に直立不動の姿勢をとった。その中には少佐の姿もあった。
遠ざかっていく中佐の背中を無言で見送っていた少佐だったが、やがて踵を返し、淡々と部下たちへ指示を出し始めた。
周りの景色が一気に慌ただしく動き出す。グレウは立ち上がると、急ぎ足で前線へ向かおうとするエドルの後を追った。
が、その足音に振り返ったエドルに怪訝そうな目つきを向けられた。
「……お前、なんで着いてくるんだよ」
「え?持ち場につけって……医療班の場所に行かないといけないだろ」
エドルは大袈裟に肩をすくめ、吐き捨てるように息を吐いた。
「馬鹿かお前は?こんな戦場で、足手纏いを連れて歩く物好きがどこにいる」
「はあ?足手纏いって……じゃあ俺はどうしてろって言うんだよ」
「待機だよ、ここで」
エドルは呆れた表情で地面を指差した。
「記憶喪失とガキのお守りをする余裕は無ぇんだよ。それくらい考えろ」
相変わらず嫌味な物言いにカチンときたが、グレウはなんとか手が出そうなのを抑えた。
そのやり取りを真顔でマリシャが見つめてきていたのを視界の隅で捉えた。
「はいはい、喧嘩しなーい。ほら、もう出撃するよ」
二人の間に割って入ってきたのは、医療班のラミーだった。彼女はエドルの背中を押し、前へ進むよう促す。
「……ラミーさんも行くの?」
マリシャが遠慮がちに尋ねると、ラミーは「そうだよ」と頷いて言った。マリシャが小さく肩を落とした。
「二人とも、ちゃんとそこで待ってるんだよ?捕虜を無事に連れ戻せたら、君たちにも働いてもらうから」
じゃ、と軽く手を振ってラミーはエドルと共に兵士達のもとへ行ってしまった。
整然と並び立つエンテ軍の迫力は圧巻だった。
遠くからグレウとマリシャは、静まり返った兵士たちの重厚な群れを見下ろしていた。その背景には、不気味に燃え上がり続ける収容所の炎が巨大な陰影を落としている。
すると、静寂を切り裂くように、ヴィルトス中佐の腹に響くどすの利いた大声が轟いた。
「これより、捕虜奪還作戦を行う!!」
ーー突撃!!
直後、怒号とともに何百もの靴底が地面を叩き、地響きが激しく伝わってきた。
誇りと仲間を取り戻すための進軍。
あっという間に兵士たちの背中は小さくなり、次々と収容所の中へと飲み込まれていった。
すべての兵士が建物の中へと姿を消し、静寂が戻りかけた――その時だった。
轟音。
二度目の爆発が起きた。
辺りに白い閃光が走り、直後に鼓膜を破らんばかりの凄まじい衝撃波が二人を襲った。
グレウは激しい風圧に耐えかね、思わず耳を塞いで姿勢を低くする。
「っ……!何が起こった!?」
マリシャも耳を強く塞ぎながら、その目を収容所の方向へ向けていた。長いまつ毛に縁取られた目が、何度も瞬きを繰り返す。かすかな声が聞こえてきた。
「……燃えてる」
炎は猛烈に勢いを増し、まるで人間の足掻きを嘲笑うように揺れていた。
激しい心音が聞こえる。
「おい……あれも作戦の一部なんだろうな?」
グレウは膝を曲げてゆっくりと立ち上がった。
すると、燃え盛る炎の脇から、空へとまっすぐ昇っていく一筋の黒煙が見えた。
ーー煙幕弾だ。
「……あれは……」
はっとしたようなグレウの声に、マリシャは不安そうに顔を上げた。
グレウの裾をすがるように掴み、問いかける。
「……ねえ、何?」
グレウは記憶を辿って答えた。
「……ヴァルダ軍がよく使う合図だ」
マリシャの手が離れた。
「……ヴァルダ?」
マリシャの顔がどんどん曇っていく。
「合図って……ねえ、意味は?どんな意味の合図なの?」
切羽詰まったように声を上げるマリシャを見下ろしながら、グレウは答案用紙を読み上げるかのように答えた。
「ーー“作戦成功”」
マリシャの表情から色が消えた。腕から力が抜け、だらりと垂れ下がった。
「………」
黙り込んでいたかと思うと、マリシャは突如として燃え盛る収容所へ向かって駆け出そうとした。
「あ、おい!」
グレウは咄嗟に肩を掴んだ。だが、マリシャは振り払おうと必死に体を捩らせ、前のめりになって突き進もうとする。グレウは両腕を回し、強引にその小さな体を抑え込んだ。
「おい!止まれ!」
「……知らせないと、みんなに……!」
琥珀色の瞳を揺らしながらも、一直線に収容所を見据えていた。
「はあ?!知らせる?」
「ヴァルダがすぐそばにいるって、……罠だって、知らせないと」
グレウは舌打ちをした。力任せにマリシャの動きを完全に封じ込めた。
「今更行ってなんになる。あいつらは、きっと今の爆発でーー」
すると、マリシャはグレウを見上げ堰を切ったように声を荒げた。いつも冷めていた表情を激情で激しく歪め、腹の底から叫ぶ。
「お父さんがいるの!あそこに!私の家族が!!」
今まで見せたこともない感情の昂ぶりだった。マリシャは暴れ回り、必死に身を捩る。サラサラとした長髪が乱れ、顔にへばりつく。
「離して!」
「っおい、クソっ。……まだ、お前の父親はあそこにいるって決まったわけじゃねえだろ!」
だがグレウの言葉も興奮したマリシャの耳には入らず、抵抗はますます力を増した。
マリシャは、肩に置かれたグレウの手を爪で引っ掻いた。血が細く滲む。グレウは小さく声を漏らし、拘束していた手の力が一瞬緩まった。その隙を逃さず、マリシャが駆け出そうとした瞬間ーー
「これはどういう状況?」
突然現れたその声に、二人の動きが完璧に凍りついた。
全身の血が引いていく感覚。グレウは固まりきった首を、ゆっくりと声の主へと向けた。
そこにいたのは――美しい異質な存在だった。
白い翼、灰色に近い薄汚れた軍服、重そうな鉄の首輪。そして、硝子玉のように色彩を欠いた、命の温もりを感じさせない無機質な瞳。
神話の彫刻を思わせるような、冷たく整った顔立ち。頭上に浮かぶ光輪が、汚れた体を照らし、地面に濃密な黒い影を落としていた。
空気が重くなったようだった。
グレウは自身の爆発しそうな鼓動だけを聞いていた。
ーーアージェント大佐。
皮膚を焼いていく炎と共に見上げた、あの男。
色のない薄い唇が再び緩やかに開いた。
「状況を教えて。どうして収容所が燃えているの?」
さっさと答えろと威圧するような冷たい声だった。怒りと恐怖が入り混じり、グレウの頬を冷や汗が伝った。体が金縛りに遭ったように指一発動かない。ただ腹の奥が、沸騰したように熱かった。
沈黙に耐えかねたように、隣のマリシャが震える声を出した。
「あ、あそこに、みんな……兵士が向かって……!作戦が……1時間早まったみたいな……」
大佐は視線を落とし、光輪の影を目元に落としたままマリシャを冷ややかに見下ろした。
「どうして子供がこんな所にいるのかな。……まあ今はどうでもいいか。それで、どうして収容所は燃えているの?」
大佐の問いに、マリシャは必死に知っている限りの状況を話し始めた。その間、グレウはただ横で俯きその会話を聞いていることしかできなかった。
憎い。
目の前の天使が殺したいほど憎いのに。
グレウは瞳孔が開いた真っ黒な目を地面に向けていた。無意識に噛んでいた唇からは、鉄の味がした。
どのくらい経ったか、永遠にも感じられるほどの苦い時間に黙って耐えていた。
ふと気づくと、いつの間にか大佐は単身で燃え盛る収容所へと歩みを進めていた。負傷しているのか翼は閉じられたままであったが、その足取りに迷いはなかった。
大佐の背中が遠ざかり、グレウは崩れ落ちるようにようやく顔を上げることができた。
「………」
「……どうしたの。ずっと黙って」
マリシャが不審そうにグレウを見ていた。彼女は先程話した相手が大佐だということに気づいていないようだった。
「……なんでもない。それより、さっきの奴はなんて」
「え?……危ないからここで待機してろって。あと、あなたの事も聞かれたけど、あなたが答えなかったから私が医療班って言っておいた」
「……そうか」
グレウは再び収容所へ視線を向けた。すでに大佐の姿はなく、猛烈な炎だけが渦巻いている。マリシャはその横で、祈るように両手を固く握りしめていた。
「……アイツは、俺の仲間を殺した奴だ」
突然の言葉にマリシャは息を飲み、その瞳を大きく見開いた。何か言葉をかけようと唇を震わせたが、結局何も言えず、重苦しい沈黙のあとにポツリと漏らした。
「……復讐、する気?」
「……ああ」
許すことはできない。
だが、先程あれほどの近距離にいながら、自分は指一本動かすことができなかった。
理由はあまりにも明白だった。グレウの本能が、あの男に恐怖を抱いていた。
……勝てる気がしなかった。
腹に燻った怒りが、自身の体を蝕んでいくようで気分が悪かった。
グレウはボソボソと独り言を呟いた。
「……狙うなら首だ。銃を使えば、流石に避けられることも無いだろう……。狙撃銃がいい。なるべく遠くから……」
天使と悪魔にとって、首は生命線そのものだ。他の部位はどんなに酷い怪我を負っても再生する。だが、首が大きく損傷した場合は再生できず、死に至る。
マリシャは隣でその途切れ途切れに聞こえる独り言を聞いていた。
その時、大佐が収容所からゆっくりと姿を現した。火の粉が舞い散る中を、こちらへ向かって歩いてくる。
グレウは思わず体に力が入ったが、自身が銃の類いを持っていないことに気付いた。
今ではない。
ひとまずはそう自分に言い聞かせ、呼吸を落ち着けた。
大佐が近くまでくると、鼻をつく濃い火薬と血の匂いがした。
「君、医療班なんだよね。少し来てくれる」
平坦な声だった。問いかけの形をしているが、有無を言わさぬ絶対的な圧にグレウは大人しく返事をすることしかできなかった。
大佐の数歩後ろをついて歩く。
二人は無言で歩いた。横目でグレウが先程までいた場所を見ると、マリシャが立ち尽くしているのが見えた。
そっと手の甲の傷に触れる。大佐がこの傷を見たかは分からない。だが、この男の前で余計なことはしたくなかった。再生した手を見られて、余計な疑いがかかるのは御免だった。
足を進めるにつれ、いつの間にか燃え上がる収容所の入り口が目の前に迫っていた。
グレウは思わず鼻を覆った。
「君、名前は」
前を歩く大佐が、振り返りもせずに問う。
「……グレウです」
「そう。グレウ」
大佐は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。ここで初めて、大佐の視線が正面からグレウを捉えた。その目は何も映していなかった。
「君には地獄を見てもらうことになるよ」




