第2話 捕虜奪還作戦
崩れかけの石畳の上を二人は歩いた。
硬いブーツの音と、子供用の薄い革靴のコツコツした足音だけが鳴っていた。
空は淀んだ曇り空。僅かに湿った風が頬を撫でた。
周りをいくら見渡しても、目に入るのは瓦礫と崩れかけた家々ばかりで、人の気配は全くと言っていいほど無かった。それでも、割れた食器や汚れたテーブルクロスといった生活の痕跡が埃をかぶって残されており、かつてここに人々が暮らしていたことを物寂しく物語っている。
そんな光景を見てしまったら、無意識のうちに故郷の風景を重ね合わせてしまい、グレウは頭を左右に振った。
ここは異様なほど静まり返っている。田舎ゆえに人通りの少ない故郷とは違う――そう分かっていても、どうしても考えずにはいられなかった。
もしも、あの街もここと同じようになったら。
その時はどうしたらよいのだろう。友も故郷も失ったら、どこに帰ればよいのだろう。
二人はしばらく無言で歩き、やがて開けた街の広場にたどり着いた。
そこには、エンテの軍服を着た人々が散らばって休息を取っているようだった。土埃をかぶり、元の白さを失ったその軍服を目にした瞬間、思わず苦虫を噛み潰したような顔になった。
敵の象徴を目の当たりにし、胸の奥から湧き上がる激しい嫌悪感。一刻も早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られた。
しかし、ふと視線を落とすと、自分自身もその薄汚れた軍服を纏っていることに気づく。意識した瞬間、自分の体が急に穢らわしいものに感じられ、さらに居心地が悪くなった。
だが、これから敵の懐に潜り込もうというのに、弱音を吐いている場合ではない。
グレウは軍服の裾を強く握りしめ、湧き上がる拒絶感を力ずくで抑え込むと、静かに一呼吸置いた。
顔をあげて広場にいるエンテ軍人達を見ると、その中で指揮を取っている男がいた。木箱の上に腰かけながら、部下へテキパキと指示を出している。
暗いオリーブ色の髪が特徴的な、縦に顔の長い四十代くらいの男。
あの階級章は……少佐か。
肩に縫い付けられた階級章を見て、グレウはそう考えた。
そして低い位置にある少女の丸いつむじに向かって言った。
「今からあの男に、連隊へ入れてもらうよう頼む。くれぐれも余計なことは言うなよ」
「……分かってる」
こちらを見向きもしない、ぶっきらぼうな返答だったが、グレウはそれを無視して少佐のもとへ歩みを進めた。
近づくと、目元にステンレス製の眼鏡をかけていたことがわかった。線も色も薄いそれが彼にはよく似合っていた。
あと数歩で声をかけられるというその時、突如として目の前に大きな影が立ちはだかった。
影と思われたーー男は訝しげな表情でグレウを見下ろしていた。
階級は上等兵。
背丈はグレウとさほど変わらないが、相手を値踏みするような鋭い蛇に似た眼光が、いやに不躾で威圧的だった。男は眉間に深い皺を刻み、嫌みったらしい口調で問い詰めてくる。
「……おい、お前見ねぇ面だな。名前は?どこの隊所属だ」
尋問するかのような低音だった。
その男はわざとらしく身を乗り出し、隠そうともしない警戒心と蔑みを剥き出しにして迫ってきた。
グレウは波立つ鼓動を押さえ込んで、困ったような声色で返した。
「名前はグレウ。所属の隊は……実は、覚えていなくて」
数拍置いた後、は?と男が放った。
グレウは申し訳なさそうな表情を作りながら、チラリと男の様子を窺う。
「……記憶障害ねぇ。まあこんな戦場じゃあ珍しい話でもねえかもしれねぇが……」
気を緩めず、男はグレウを注視している。
矛盾はないはずだ。ここ最近の記憶がすっぽり抜けたとでも言っておけばいい。それに、今のグレウの満身創痍な身なりを見れば、全滅した隊の生き残りとでも思われるだろう。加えて頭の怪我もある。今この場で包帯を取って、そのグロテスクな損傷部位を見せることだって可能だ。そのために、あえて怪我の全ては治さなかった。
男は頭に巻かれた包帯をじっと見つめながら、ふと後ろの少女を指差した。
「その子供は?」
指差されたマリシャは、男を見つめ返した。そこに不安の色が無いのは、相手も同じエンテ人だからだろう。
「この子は俺が怪我をしていたところを助けてくれたんだ。それで、この子を安全なところまで届けてやりたくて」
「……へぇ、成程。それで、ここの連隊に入れてくれと」
男は腕組みをしてしばらく考え込んでいた。その隙に、グレウは静かに深呼吸を繰り返し、荒立ちそうになる鼓動を必死に鎮める。
それにしても、何故ここまで疑われるのか。自分は何か不審な動きをしただろうか。
ようやく、男は顔を上げると「いいだろう」と吐き捨てるように言った。
ひとまず疑いを切り抜けられたことに、グレウは内心で小さく息を吐く。
「ただし、少佐への説明は俺も同行させてもらう。いいな?」
「ああ……それでいい」
内心舌打ちをした。この用心深い男とはなるべく一緒にいたくなかった。
すると、男は突然グレウの顔を食い入るように見つめてきた。
彫の深い顔立ちに、切れ長の目がよく似合っていた。樹海の緑を閉じ込めたような瞳が、至近距離でまばたきした。
思わず目線が揺らぐ。まさに蛇に睨まれた蛙だ。
無言のまま、互いの視線が交差する。重苦しい沈黙の後、男の口、が唐突に開いた。
「お前、この角はなんだ?」
ドッと大きな心音が鳴った。
角といえば、悪魔の持つ物以外にあり得なかった。
軍服越しに金属ケースの蓋へ指を添えた。中に手榴弾が入っているものだ。
背後にいるマリシャが、息を飲んだような気がした。
手汗がじわりと滲む。
強ばった頬の筋肉を無理やり開けた。
「ーー角?突然なんの話だ」
なんとか、表情を落ち着けて返した。
不自然な返しではなかっただろうか。声は震えて上ずってはいなかっただろうか。
相変わらず心音がうるさい。
金属ケースの蓋を、軍服越しに小さく開けた。
男は冷たい表情のまま、探るようにグレウを観察していたが――やがてあっさりと視線を外した。
「冗談だ」
不機嫌そうにそれだけ言い捨てると、男は背を向けて少佐のもとへと歩き出した。
「………」
グレウは呆然と、その場に立ち尽くしていた。
男が離れていくのを確認した瞬間、体中からブワッと汗が吹き出した。深く息を吐き出し、乱れた呼吸をどうにか整えながら、ケースの蓋をそっと閉じた。
ゆっくりと額に触れた。あるのは包帯の繊維の感触だけで、角はおろか突起さえ無かった。
だとしたら、余計分からない。
すると、後ろからマリシャがグレウの服の裾をキュッと引っ張ってきた。
「……お願いだから、バレないようにして」
「……あぁ」
切実な願いだった。グレウはそれに短く答えるのが精一杯だった。
マリシャは無言で男の歩いていった方向を指差す。真顔のままであったが、早くしろと急かすような無言の圧力が伝わってきた。
「……分かってる」
先ほど少女から聞いたような言葉を返し、グレウは男の後を追った。
シルフ少佐との会話は、拍子抜けするほどあっさりと終わった。
彼の第一印象は物腰柔らかな理性的な大人だった。余計な口を挟むことなく男ーーエドルの話を聞いていた。
さっきまでエドルがやけに突っ掛かってきたのと対照的に、少佐はいいよ、とその一言でグレウの加入を認めた。
彼の話によると、この第二連隊は最北端の街へ向かう道中、エンテの避難所に寄る予定だったそうだ。
それに加え、今の第二連隊は全体的に人が少ない。記憶喪失とはいえ一人の兵士の加入は、むしろ歓迎すべきことだったのだ。
「君は医療班に入ってもらうよ。記憶喪失に銃を持たせるわけにはいかないからね」
「あ、はい。分かりました」
少佐は落ち着いた声色でそう言った。
医療班。妥当な判断だろう。欲を言えば大佐に近いポジションが良かったが、まずは疑われずに連隊へ潜り込めただけでも十分だった。
「あと、エドルには二人の付き添い人になってもらうよ」
グレウの口があんぐりと開いた。すぐに閉じ直したものの、少佐に食ってかかりたい衝動で胸がいっぱいになる。
「……そうしてくれると、ありがたい」
マリシャが口を挟んだ。
彼女にとっては、グレウが見張られていた方が都合がいい。
グレウは余計なことを言うなと怒りたかったが、この場でそんなことができるわけもなかった。
「俺がですか?……理由を聞いても?」
露骨にいやそうな顔をしたエドルが尋ねる。少佐は淡々と返した。
「単純に二人だけじゃ危ないからね。それに、この後は捕虜奪還作戦も控えている。その時までは、君が二人の面倒を見てあげて」
「……分かりました」
渋々承諾したエドルを横目に、グレウは引っかかった言葉を口にした。
「……捕虜奪還作戦?」
疑問を呈したグレウに対し、少佐は頷いて眼鏡の位置を正すと、その瞳をこちらに向けて説明を始めた。
「そう。ここからしばらく歩いた所に、ヴァルダの捕虜収容所があるんだ。収容人数は三百人以上。民間人に加え、エンテ軍人の天使もそこに捕らわれている」
「民間人って、どこにいた人達?」
突然、マリシャが前のめりになって声を発した。少佐は不思議そうにしながらも返した。
「ちょうど、この周辺の街に住んでいた人々だよ」
「……もしかしたら、その中に私のお父さんもいるかもしれない」
マリシャは服の裾をギュッと握りしめながら、か細い声でそう言った。少佐は変わらず落ち着いた態度だったが、マリシャの不安げな瞳をまっすぐ見つめながら言った。
「分かった。必ず救うと約束しよう」
マリシャは意を決したように、固い表情で頷いた。
ふとグレウは、疑問に思っていたことついて尋ねる。
「……あの、奪還っていうのは、具体的にどうやってやるつもりですか?収容所には常に見張りがいるはずだし、相手はきっと奪還しに来ることを見越してるはずです」
質問に答えたのは、隣に立っていたエドルだった。不機嫌そうな態度のまま、淡々と解説する。
「収容所側と作戦を共有して内外から一斉に仕掛けるんだよ。収容された天使を通じて、俺達は計画を立ててきたんだ。1ヶ月以上もな」
「と言っても、手紙でのやり取りだけどね」
少佐が補足する。グレウは怪訝そうに眉をひそめた。
「……収容された天使?一体どうやって外部とやり取りするんですか」
「羽だよ、天使だけが持つ羽。その天使は上手く隠しているのか、ヴァルダ側は天使に対する対策をしていないみたいでね。隙を見て、収容所からほんの一瞬脱出しているんだ。天使のことを視野に入れていないヴァルダは、まさか捕虜が空を飛ぶなんて思ってもみないだろうからね」
グレウは目を見開いた。こんなところで、天使の便利さと祖国の隙を痛感させられるとは。
エドルが続けた。
「脱出した天使が、あらかじめ決められた場所に作戦内容の書かれた手紙を置く。俺たちはそれを回収し、見張りを叩くタイミングや合図について細かく打ち合わせしてきたってワケだ」
「それに、戦争はもう終盤まで来ている。追い詰められたヴァルダがいつ暴挙に出てもおかしくない」
少佐は静かにそう告げた。彼の言う「暴挙」が何を意味するか、グレウはすぐに理解できた。捕虜の一斉処刑――戦時下において、敗色が濃厚となった側が取る典型的な惨劇だ。
……今は捕虜がどうなろうと、どうでもいい。俺の目的は、大佐を殺すことだ。
そのために、グレウは自身の正体がバレないよう今回の捕虜奪還では目立たずにいる必要があった。
「とりあえず、この事はヴィルトス中佐に伝えておくよ。君は後で医療班の班員と挨拶でもしておきな」
背の高い塹壕の中を、四百人余りの兵隊が隊列をなして行進していた。幾度となく踏み固められた土の上を、兵士たちは黙々と歩いていた。周囲には土の匂いと、微かに鼻を突く血の生臭さが充満していた。
グレウがふと後ろを振り返ると、マリシャが下を向いたまま、力なくとぼとぼと歩いていた。
「おい」
無反応。グレウはため息をつき、歩調を緩めてマリシャの隣まで戻った。グレウが近づいても、少女は顔を上げようとしない。
マリシャの手を掴み、無理やり引っ張る。
「早く歩け。置いてかれるぞ」
「……疲れた」
マリシャはとがらせた唇から、小さく不満を漏らした。
「疲れたって……」
グレウが面倒そうに頭を掻いた。
すると、遅れている二人の様子を確かめにエドルがやってきた。
「おい、何してんだ」
「コイツが疲れたって。なんとかしてくれ」
「は?いや、俺に子供の扱いができるわけねぇだろ。お前が連れてきたんだから、お前がなんとかしろ」
「はあ?それは今関係ねえだろ。どうすんだよ、俺も子供は苦手なんだぞ」
二人は恨み言を言いながら睨み合っていたが、埒が明かないと判断したのか先にエドルが目線を外し、前を進む赤毛のおさげ髪に声をかけた。
医療班の班員、ラミーだ。
「ラミー、到着まであとどれくらいかかりそうだ?」
エドルが尋ねると、彼女は髪を揺らして振り返り、唇に指を当てながら答えた。
「うーん、多分もうちょっとだと思う。どうしたの?もしかしてへばった?」
グレウはマリシャを指差しながら「コイツがな」と返す。
ラミーは微笑みながら歩み寄り、マリシャの前で屈んで目線を合わせた。
「あらー。マリシャさんか。そりゃそうだよね、まだ子供だし。それに今の先頭、ヴィルトス中佐でしょ?あの人歩くの速いんだよ」
「……中佐か。そういえば、今大佐はどこにいるんだ?」
グレウは意識的に声のトーンを一定に保ち、何気なさを装って尋ねた。
「これも忘れてんのかよ。あの人なら今は南方の街にいるはずだ。他の隊の応戦でな」
「うちの医療班長もね」
ラミーがグレウの顔を見上げながら付け足した。
「でも、今回の作戦前には合流する予定だよ。班長は……そうじゃないけど、大佐はこの連隊の主戦力だからね」
つまり、もう少しであの男の姿をまた拝めるってことか。
無意識に噛みそうになった唇を離して、ラミーに向かって声を落とした。
「ラミー、ソイツをおんぶしてやれ。どう見たって子供の扱いはお前が一番上手い」
ラミーは明るく返事をすると、マリシャに手を差し出した。「いい?」小声で尋ねると、マリシャは数秒沈黙していた後、コクリと小さく頷いた。ラミーの手をそっと掴んだ。
ラミーは優しく笑いながら、しゃがんでマリシャを背中に乗せた。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
小さな重みを背負ったラミーは、そのまま軽やかな足取りで隊列の前方へと戻っていった。
グレウは、自分たちが歩いてきた果てしない土の道を振り返る。すでに相当な距離を歩いてきた。遠くが見えないほど細くなった道と、足の裏に蓄積した鈍い痛みがそれを証明している。
もう少しで、あの大佐に会うことになる。
グレウは軍服の中に隠した金属ケースの存在を確かめるようになぞった。
収容所は暗い灰色の壁の、無機質で不気味な建物だった。100メートルほど先のそれを見て、グレウはヴァルダらしいと思った。
生物の気配が一切感じられない、しんと静まり返った場所。
その時、前方の兵士から緊迫した叫び声が上がった。
「中佐! 見張りが……見張りが一人もいません!」
声を発したのは、収容所の方向から駆け戻ってくる兵士だった。息を荒らげながら報告していた。
敵の状況を偵察するために先行していた者だろう。
予期せぬ報告に、周囲の兵士たちの間で動揺が広がった。
隣で立っていたエドルが険しい表情で呟いた。
「どういうことだ……?見張りの注意を逸らすってのは作戦内容にある。が、順番がおかしいしそもそも時間もーー」
突如、目の前が真っ白になった。
そして、鼓膜を裂くような爆音が鳴り響いた。
凄まじい突風で体がよろめき、雷が落ちたような地響きを肌で感じた。
エドルの驚きの表情を見るよりも速く、グレウは咄嗟に体を低くし、音の出所へ目を向けた。
収容所だ。
収容所が爆発した。
嫌なほど目を引く赤い炎が、黒い建物から立ち登っていた。風に靡き、不安定に形を変えながらも存在が消えることは無い。
炎。それしか視界に入らなかった。
炎の光景がフラッシュバックする。
「ーー落ち着け!」
突如、肩を力任せに激しく揺すられ、グレウはハッと我に返った。
「……え?」
狐につままれたような顔で目の前を見ると、そこにはエドルがいた。いつもの不躾で嫌味な態度は消え失せ、真剣な眼差しでグレウの体を突き放すように叩く。
「おい、お前今……。いや、なんでもねぇ。それより、まずは落ち着け。頭冷やせ」
肩から手を離したと思ったら、今度は喝を入れるように力強く叩かれた。
「いいか?落ち着いてよく聞け。これは俺達の合図だ。作戦開始のな。だから、捕まってた仲間が今ので死んだとか、そういうことじゃねえ。分かったか!」
なぜこれほどまでに自分に対して念を押すように言ってくるのか。エドルの気迫に圧せられたグレウは、「……分かった」と頷くことしかできなかった。
その時、少し離れた場所に立っていたシルフ少佐の、僅かに焦りが混ざったような声が聞こえてきた。
「……予定より一時間早い」
少佐は手元の懐中時計に冷たい視線を落としたまま呟いた。その静かな一言が、やけに響いたように感じた。




