第1話 復讐者
グレウは額から血が流れていくのを感じながら目を覚ました。
ぬるい血液が重力に従って頬を伝い、地面へと落ちていく。虚ろな意識のまま目を開くと、視界に飛び込んできたのはぼやけた灰色の空とレンガの壁だった。
――空?
妙に明るさすら感じる曇り空が、グレウをはるか高みから見下ろしていた。
眼球だけを動かしてみると、自分は赤茶色のレンガの壁に挟まれた影の中に倒れていた。そこでようやく、ここがどこかの薄暗い路地なのだと理解する。
意識がはっきりするにつれて、全身をズキズキとした激痛が襲う。後頭部の痛みはさらに酷く、割れるようだった。起き上がろうとしたが、口から漏れたのはかすれた呻き声だけで、全身から力が抜けた。
……ここはどこだ。俺は今どうなってる。
必死に頭を働かせようとするも、頭痛で思考が掻き消されていく。頭の中で何かを考えようとしても、うまく言葉にならなかった。
そこでグレウはあっさりと考えるのをやめた。
頭が痛かった。考えるのは疲れる。
――そして何かを思い出さないように、考えないようにしていた。それは無意識のうちに働いた、人間の本能だったのかもしれない。
少し冷たい空気を吸い込む。
胸が静かに上下し、新しい酸素を取り込むと、ほんの少しだけ体が軽くなった気がした。
しばらくそうしていたが、ようやく重い体を持ち上げようと力を込めた。
その時。
「……大丈夫?」
控えめな少女の声が聞こえた。
グレウは驚いて反射的に振り返ったが、急に頭を動かしたせいで脳が揺れるような激痛が走った。彼が苦しげに声を漏らして頭を押さえるのを見て、目の前にいた少女は慌てて駆け寄ってくる。
少女は横たわるグレウの顔を覗き込んだ。
ダークブラウンの長い髪がベールのように流れ落ち、グレウの頭を囲む。その中心にある、大きくて丸い琥珀色の瞳と目が合った。
「頭が痛むの? 大丈夫? ……あ、血が出てる」
少女は自分の手に付着した赤い血を見て、僅かに目を見開いた。彼女はあまり感情を表情に出すタイプではないらしく、その真意を読み取るのは難しい。
血とグレウの傷口を交互に見比べたあと、少女は数秒ほど沈黙した。
だが直後、彼女は立ち上がると、自身のスカートの裾を固く掴んだ。そして路地の隅に落ちていた鋭利な石を拾い上げると、薄い布地に押し当てて切れ込みを入れる。破くきっかけを作ると、そこからは迷いのない動作で一気に布地を切り裂いていった。
「これ、頭に巻くよ。あまり綺麗じゃないけど、止血しないよりはきっといいから」
少女はグレウの体をゆっくりと起こした。
破いた布を手にする彼女の顔は、先ほどと変わらず淡々としている。
「……なんで」
グレウがようやく絞り出した声は、酷く掠れていた。
「なんでって……あなた、エンテ軍人でしょ? 私もエンテ人。助けるのは当たり前だよ」
エンテ――約500年前、天使と契約を結ぶことで大きく発展した西洋の国家だ。
少女は地面に膝をつき、破いた布を差し出した。
グレウは沈黙したまま彼女を見つめ返す。少女はその視線に違和感を覚えたのか、首を少しだけ傾げて「どうしたの?」と尋ねた。
「……俺が、エンテ軍人?」
その言葉が、やけに響いたように聞こえた。少しの静寂のあと、少女は頷いた。
「……うん。だってエンテの軍服を着てるし……なんでそんなこと聞くの」
グレウは考えるように頭に手を添えた。指先に血がつく感触があったが、気にする余裕はない。
「……ねえ、まさか記憶が無いの?」
少女が不安げに発した言葉に、しばらく二人の間には沈黙が流れた。
グレウが目を細めて頷くと、少女が口をぽかんと開けた。
「……そんな。どうしよう。えっと、自分の名前は分かる?」
グレウだと短く返すと、少女の唇の端がほんの少しだけ上がり、安堵の色がうかがえた。
「よかった。……じゃあ、今の状況は分かる? あなたは多分、ヴァルダ軍との戦闘で怪我をしたんだと思うんだけど」
ヴァルダ――かつてエンテに支配・弾圧されていた国であり、エンテが天使と契約して力をつけたあと、追うように悪魔と契約して発展した国である。そして今、その二大国は激しい戦争の渦中にあった。
「……あぁ。多分、そのはずだ」
「うん。でも、もう大丈夫だよ。きっともうじき戦争は終わる。エンテの勝利でね」
少女は立ち上がり、グレウの手を握りしめた。大きな仕草はないものの、その手からは確かな温もりが伝わってくる。
「ここじゃ暗くてよく見えないから、少し移動する。そこで布を巻くよ」
少女の手を支えに痛む体を持ち上げ、なんとか歩き出した。やはり全身に重たい疲労と傷の痛みが広がっていく。少女はグレウのペースに合わせてゆっくりと歩いた。
路地を出ると、曇り空の光が思いのほか眩しく感じられ、何度も瞬きを繰り返す。
「……うん、ここなら見える。じゃあ、屈ん……」
少女の言葉が途中で途切れた。
手にしていたスカートの切れ端が、静かに地面に落ちる。常に落ち着いていた彼女が、初めて瞳を大きく見開いた。
「……それ、何」
グレウは少女の視線の先――自身の額へ手をやった。
そこにあったのは、本来の人間には存在するはずのない突起物の感触。
――悪魔しか持たないはずの、角。
少女が声を上げるより早く、身体が動いていた。
グレウは少女の細い身体を突き飛ばして押し倒し、その首元に軍服から取り出したナイフを突きつけた。背中に強い衝撃を受け、少女が苦しげに呻く。
「――騒いだら殺す。動いたら殺す」
先ほどまでの負傷兵の弱々しい声とは一転し、低く威圧的な声が喉から漏れた。
少女はまぶたを震わせながら、怯えた目でグレウを見つめる。
「俺はヴァルダの悪魔だ。……死にたくなかったら、大人しく従え」
少女は真一文字に口を結んだまま、小さく頷いた。
グレウは無抵抗の少女を引き摺るようにして、すぐ脇の民家へ押し入った。
幸いにも中に人の気配はなかった。
そこは一般的な民家で、テーブルには飲みかけのワインが置かれ、暖炉が音もなく佇んでいる。
リビングの大きな木の棚を開け、強盗のように荒々しく漁る。不要なものを床に転がすと、あっという間にカーペットの上が散らかった。
ようやく救急箱を見つけ出したグレウは、包帯を取り出してそばにあった鏡の前に立った。
鏡に映っていたのは、傷だらけでくたびれた男だった。
額からは血が流れ、頬にはいくつもの擦り傷がついている。そして乱れた硬い黒髪からは、角が突き出ていた。忌々しげに角へ触れ、舌打ちを漏らす。
完全に気を抜いていた。しかも、まさかあんな子供に見られるとは……。
振り返ると、少女は部屋の隅で身体を丸め、じっとグレウを見つめていた。抵抗する気配はなく、ただ静かに立ち去ってくれるのを願っているようだった。
……いや、あんな子供だからこそ、利用できるかもしれない
目線を鏡に戻し、頭に包帯を巻きながら角を引っ込め、皮膚に完璧に同化させた。本来、悪魔は完璧に人間に擬態できる存在だ。ただ、負傷時や気を抜いた時にはつい元の体の一部が出てしまう。
次からはあんなミスは無いよう気を付けねばならない。
気を引き締めて包帯を巻き終えたグレウは、少女の前にしゃがみ込んだ。少女は切り取ったスカートの布を強く握りしめたまま、視線を逸らさなかった。
「今から俺が聞くことに、すべて正直に答えろ」
少女が頷くのを確認し、問い詰める。
「今の戦況はどうなってる? 戦争がもうじき終わるというのはどういう意味だ?」
「……もう、ヴァルダの国土の約8割は制圧したと、エンテ軍が言ってた。残っているのは最北端の街だけだって」
最北端の街――その単語だけで理解できた。聞くまでもない、グレウの故郷だ。
早朝の空の色、家の暖炉、窓ガラスの冷たさ。忘れるはずもない光景が脳裏をよぎり、グレウは強く唇を噛んだ。すると、それに引きずられるようにして赤く染まった昔馴染みの友の顔が浮かび、はっと呼吸が止まる。
「……」
部屋の中に、シンとした静寂が広がった。
心臓の音だけがやけに主張してくる。
少女は、瞳を不安げに揺らして突然黙り込んだグレウを見つめていた。
「……大佐だ」
「え?」
グレウがぼそりと漏らす。
「確かアージェントとか呼ばれていた。コイツを知っているか」
グレウの淡々とした声が部屋に響く。
少女は不意に呼ばれたその名に動揺しながらも、コクリと頷いた。それを見て、グレウは声を荒らげそうになるのを必死に抑えながら尋ねた。
「そいつは今、どこにいる」
「……わ、分からない。ここの連隊をまとめてる人だけど、今はいないみたいで……」
「……」
頭を冷やそうと、必死に目をつぶって思考を止めようとした。だが、あの時の映像が頼んでもいないのに勝手に脳内で再生される。
突然の爆発音、一瞬で辺りが炎に包まれ、すぐ隣で寝ていた友は、生きたまま体を焼かれて死んだ。あの抗いようがない熱気と炎の渦。皮膚が焼け爛れていく痛み、焦げた匂いに、原型をとどめていない焼死体。そして、その炎を見下ろす白い羽と冷たい目。
背中に冷や汗が流れた。あの無機質で白い不気味な目。
人が死ぬことに対してなんの感情も抱いてないような、見るだけで暗闇に落ちていくような不安を駆られる目。
あの男は、人を爆殺しておきながら凪のように静かだった。
思い出したくない記憶だった。そして、もう戻れなかった。
心が黒く濁った感情に侵食されていく感覚だった。ただ荒んでいくさまを眺めることしかできなかった。
「……その連隊は、今ここに駐屯しているのか」
おぞましい記憶からなんとか意識を引き戻し、声を絞り出して少女へ尋ねた。
「うん。すぐ近くに……」
「だったら好都合だ。お前を安全な場所まで送り届けるという名目で、エンテ軍内部に潜入できる」
「……潜入? 何をするつもりなの」
少女の声に警戒心が混じり、僅かに刺々しい響きを帯びた。
少女と目が合う。
「大佐を殺す」
少女は勢いよく立ち上がり、険しい表情で言い放った。
「――そんなこと、できない! あの人は天使だし、きっとあなたの何倍も強い! そんな無駄なことは、するべきじゃない!」
少女はその小さい体から大きな声を出して主張した。
だが、グレウはその言葉に思わず黒い憎悪を漏らした。
「……お前は目の前で仲間を焼き殺されたこともないくせに」
自分でも驚くほど低い声が出た。
知らないくせに。俺たちがエンテ人にどうやって殺されたのか。
少女は口を開けたまま絶句した。言葉が出てこない様子だった。
グレウは逃げるように少女を置き去りにして玄関先へと向かう。子供相手に何を言っているのか、自分でも馬鹿らしいと思った。
振り返りざま、奪った軍服のポケットから鉄製のケースを取り出し、手榴弾を掲げて見せる。
少女の顔が驚愕に染まり、後ずさった。
「これはエンテ軍人の死体から剥ぎ取った軍服だが、中にはこんな物が入っていた。これを起爆しても俺は死なないが、お前や周囲の奴らは簡単に死ぬ。知ってるだろ? 悪魔に再生能力があることくらい」
もっとも、それは天使も同じことだ。だが、今の言葉で意図は伝わったはずだった。
「だから、大人しく俺に従うんだ」
少女は威嚇するような強い眼差しを向けたが、小さく「わかった」と返し、グレウの元へ足を進めた。
「私はマリシャ。あなたに従う。だから……私の大切な人たちを傷つけないで」
覚悟を決めたように真っ直ぐ自分を見つめてくるマリシャの瞳に、グレウは目を合わせることができなかった。
「……それでいい」
それだけ吐き捨てると、グレウは静かに玄関の扉を開けた。




