気になる存在
「――お、おいしい!」
屋敷の南側の畑から、今日も突然大きな声が聞こえてくる。
読書をしていたクラウディオは、立ち上がって窓際に歩み寄った。
庭の方からは、毎日シャロンとベルシュの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
そうすると、つい彼らの会話に耳を澄ませてしまう。
「きゅうりって、こんなにおいしいんだ! にがいし、あおくさいし、たねがにゅるってして、ずっとにがてだったのに!」
「ふふふん。そのままでもいいけど、お塩をかけるともっとおいしいのよ」
「……ほんとうだ! おれがそだてたきゅうりが、こんなにおいしくなるんだな!」
畑仕事の最中に、洗っていないきゅうりを……と思わなくもない。だが、直接声をかける勇気もない。
クラウディオはもうとっくに、暇潰しの読書などする気がなくなっていた。
「……あれ!? 今気付いたんだけど、これってもしかして素晴らしい試みなんじゃない!?」
そうこうしている内に、今度はシャロンの声が轟いた。
「自分で野菜を育て、それを味わう過程で『生きる力』を育む――つまりこれは、『食育』という一つの学術的専門分野になるんじゃないかしら! 特に貴族の子女こそ学ぶべき事柄だわ! これを学園の教育課程に取り込んでもらえば、主導するヘッセン商会の利益になるかもしれない! 上流階級との関わりも増える! いいことずくめじゃない!?」
「シャロン! きょうはブロッコリーとにんじんのたねをまいて、トマトのしちゅうもたてなくちゃなんだろ! あそんでるひまはないぞ!」
「あっ、ごめんごめん!」
夏の盛りに炎天下の元で、よくあれだけ元気でいられると感心する。
クラウディオには眩しくて、僅かに目を細めた。
畑で作業している様子を見に行ってから、二ヶ月が経った。
二人はますます仲よくなっているようだ。
最近では、屋敷内でも明るい笑い声をよく聞く。時々は喧嘩の声も。
その響きが、決して不快ではない。
ずっと領主になるための教育を受けていた。両親には厳しく育てられ、甘やかされる弟を羨ましく感じていた。
今は、それらから解放されている。
領主となる道を断たれ、ウェインスター領の片隅で漫然と過ごす日々。煩わしく思っていた両親の干渉も、弟への負の感情も、今となっては遠い過去のものだ。
それなのに、数年が経っても心は晴れなかった。
読書をしていても、ヴァイオリンを弾いていても、何も楽しくない。いつも何かが足りなくて、ひどく空虚だった。
それは、愛した人が側にいないからだと思っていた。会えなくて辛いだけなのだと。
けれどシャロンとベルシュの笑い声を聞いていると、なぜか虚しさが和らいだ。心なし、視界が明るくなった気さえする。
彼らの様子を眺めているだけで、思考にかかっていたもやまで晴れていくようで不思議だった。そのため最近は毎日のように、物陰から彼らを観察することをやめられなくなっている。
そうして改めてシャロンを――妻となった人を観察すれば、何というかすごかった。
まず、貴族の屋敷の敷地内に野菜畑を作ろうと思うだろうか。
戸惑っている内に怒涛の勢いで押し切られ、思わず頷いてしまったけれど、貴族に対する畏敬などあったものではない。
――いや、そもそも夫への態度としてあり得ないのか……。
以前に一度、屋敷の陰から眺めていたら、はっきりと目が合ったことがある。
けれどシャロンは目を逸らした。ものすごく気まずそうな顔で。
おそらく、彼女はクラウディオを夫とは思っていない。むしろ関わりたくないと避けられている気すらする。
それは、自分のこれまでの行いに原因があるのだと理解している。
王家から預かったベルシュという尊い血筋の子を、長らく放置していたことが原因だ。
というか、血筋どうこうは関係なく、彼女はただ育児放棄をしていたことに対して心底軽蔑しているのだろう。そういう愛情深さを持っている人だと今なら分かる。
それに気付いた時の衝撃といったらなかった。
なぜなら、漫然と時が過ぎていく中で、自分が育児放棄をしている意識など全くなかったからだ。
だが、振り返ってみれば、自分の所業はまさに育児放棄そのもの。
何年も放置し、衣食住を気にかけたことなどなかった。顔を合わせたのは引き取った時の一度きりで、容姿もおぼろげにしか覚えていなかった。シャロンと笑い合うことで初めて彼の声を聞いたのだから、もう救いようもない。
改めて、罪悪感に打ちひしがれた。
過去の自分は、なぜこれほど非道なことができたのか。
――シャロンが怒っている理由を想像して、ようやくそんなことに気付くとは……本当に終わっている……。
どうにかして関係を修復したい。
わだかまりをなくす方法はないかと、最近のクラウディオはそればかり考えている。
彼らが収穫した野菜は食べさせてもらった。
本来、銀狼族は肉食の性質を持っているから、野菜が苦手だ。ベルシュも金狼族の血を継いでいるから得意ではないはず。
それなのに、驚くほどおいしいと感じた。甘さすらあって、苦手だった水菜もシャキシャキとした食感を楽しめたほど。
執事においしかった旨を伝えさせたが、それでは味気ない。できることなら、シャロンとベルシュと食事を共にして、直接感想を伝えたかった。謝罪と感謝も。
……勇気がなくて未だに実現していないが。
「いっっっ、いやぁーーーー!!」
「!!」
その時、平和な空間を切り裂くような悲鳴が聞こえてきた。
それをシャロンのものだと認識した瞬間、体が反射的に動いていた。
クラウディオは、二階に位置するバルコニーから飛び出した。
手近な木の枝を掴んでくるりと一回転して、身軽に着地する。
その勢いのまま南の畑に駆けつけると――座り込んで呆然とするシャロンがいた。




