新しい生活
◇ ◆ ◇
「よーい、どん!」
青空の下、無駄に広い庭園を駆ける。
小さな背中が、あっという間にシャロンを突き放していく。
「へへっ、おれのかち!」
「すごい……早すぎるわ……!」
シャロンは汗を拭って、両手を膝についた。
獣人の潜在能力というのはすごいものだと、最近は日々実感している。
かけっこをしても勝てないどころか、向こうは息一つ乱していない。ベルシュに強請られてこれが五回目の勝負で、シャロンの方がもう限界だった。
二週間、世話を焼きに焼いた結果。
ベルシュは以前より顔色がよくなったし、性格も明るくなった。というより、この活発さが元々の彼の気質なのだろう。
太陽の下、手入れの行き届いた金髪が目映くなびく。肌荒れもすっかり治って、さらに可愛さに磨きがかかっている。
「もういっかい! もういっかい!」
「ちょっと待って、休憩! 休まないとさすがに走れないわ。あなたも水分をとらないと。もうすぐおやつの時間だから、お茶にしましょう」
「おやつ!」
休もうという提案には不満そうにしていたベルシュだが、おやつと聞いた途端、瞳を輝かせる。
「今日は、私が昨日焼いておいたクッキーも出してもらいましょう。チョコチップがたくさん入ったやつよ」
「やったぁ、たのしみ! シャロンのつくったおかしは、どれもすごくおいしいんだ!」
「ふふ、ありがとう」
まだ幼いのに、ベルシュは話すのもとても上手だ。
執事から聞いたところによると、やはり獣人族は人族よりも発達が早いらしい。
ベルシュも驚くほど周りをよく見ているし、気を遣うことができる。そういうところが、周囲の大人に助けを求められなかった要因でもあったのだろうが。
――まぁ、私がいる限り、今後二度と育児放棄なんてさせないけど!
どうしてあのような状況になっていたのかという点は、初めて執事と顔を合わせた時に追及していた。
屋敷の主人であるクラウディオから、ベルシュに関しての命令は一切なかったこと。そのため、教師を勝手に手配することもできず、最低限のマナー教育すらできていないこと。とはいえ王族のご落胤を完全に放置することもできず、あのように中途半端な扱いになってしまったこと。
言いわけを聞き終えたシャロンは、思いきり説教をかましてやった。
王族のご落胤が何だ。ベルシュに尊い血が流れていなかったら、見殺しにでもしていたというのか。ただ、いたいけな子どもを保護することもできなかったのか。大人が揃いも揃って現状維持でやり過ごそうとして、思考が停止しているとしか思えない。
これは命だけでなく、人が人として生きていくための尊厳の話。
どんな生まれの子どもであっても、安心して健康な生活を送っていく権利がある。それなのに、誰にも顧みられない状況に身を置いていた少年が、どれほど不安だったか。
使用人達に嫌われようと、シャロンは言葉を止められなかった。
あれから、執事とは会っていない。というより、メイサ以外の使用人と話していない。
部屋の掃除がされなかったり、食事に異物を混入されたりといった問題が起こっていないので、シャロンはもう開き直って暮らしている。
庭園から屋敷に戻ると、メイサが休憩の準備をして待っていた。
シャロンが作った素朴なチョコチップクッキーの他にも、果物で綺麗に飾り付けられたタルトなどもある。
そして、メイサがグラスに注いだのはレモネードだった。
よく冷えているから、ついごくごくと飲んでしまう。レモンの爽やかさとハチミツの甘さが、疲れた体に染み渡っていくようだ。
「ありがとう、メイサ。紅茶じゃなく、こういうのが飲みたい気分だったの」
「そりゃあ、何度も全力疾走しておりますからね。というか、貴婦人がドレスの裾を上げて全力疾走なんて、本当にあり得ないですよ」
専属侍女は相変わらず刺々しいが、これは執事との衝突以前からのことだから、ある意味安心できる。
シャロンはからりと笑って返した。
「スカートで早く走るこつが分かってきたから、結構楽しいのよ。それに、いざという時のための練習になるでしょ」
「どういういざを想定しているんですか」
「というか、畑仕事をしているのにドレスを着なきゃいけないなんて理不尽すぎると思うの。メイサは厳しすぎるわ。商会で働いている時はほとんどトラウザーズをはいていたのに」
「畑仕事をしているのがおかしいのであって、全く理不尽じゃありませんっ! 旦那様は公爵家嫡男というお立場こそ失いましたが、未だにウェインスターを名乗ることが許されておられます。つまりあなたは貴族婦人、ご自分の立場をご自覚ください!」
「上流階級がいる場ではちゃんと上品ぶるから、安心してちょうだい。まぁ、そんな機会はないと思うけど」
クラウディオは地位も爵位もないし、ウェインスター領から出ることもできない。あるのは裕福な実家の援助だけという、上流階級の離れ小島のような環境だ。
今のところ、平民出身という理由で困るような事態は起こっていない。
そう考えると、かなり幸せな状況ではあるのだが。
シャロンは、隣で一生懸命レモネードを飲んでいるベルシュを、ちらりと見下ろした。
問題は、彼にとっていい環境かどうかだ。
家庭教師を招こうにも、ここはウェインスター領の端。のどかな街をさらに西に進んだ、だだっ広い土地以外何もない場所。来てくれる人材は限られてくるだろう。
今はまだ小さいから、シャロンが読み書きを教える程度でいい。だが、これはいずれ直面する課題だ。
けれどベルシュにとって何より問題なのは――遊び場がないことだった。
――たくさん食べてたくさん寝て、元気いっぱいに遊ぶのが子どもの仕事と言っても過言ではないのに……街から遠いからお友達もできない!
せめて同年代の友人がいれば、少しは楽しめるだろうか。
ただ庭を駆け回るだけではシャロンが長く付き合っていられないし、これではベルシュにとって体力作りにもならないだろう。
どうしたものかと悩んでいると、ベルシュが心配そうにシャロンを覗き込んだ。
「シャロン、どうした? くるしいのか?」
「あぁ、違うの。このタルトが、すごくおいしかったから」
シャロンは適当に言いわけをしながら、慌ててタルトを頬張った。
チョコチップクッキーと一緒に用意されていたのは、イチジクのタルトだった。イチジクの瑞々しい甘さと、土台に使われているアーモンドクリームの絶妙な調和を楽しめる。
「うん。本当に、しみじみおいしい」
「そうか? おいしいけど、おれはシャロンのチョコチップクッキーのほうが、すきだ」
「嬉しいことを言ってくれるわね。でも、イチジクは今が旬だから本当に甘くておいしいわ。やっぱり、季節のものを新鮮な内に食べるっていうのは、何にも勝る贅沢っていうし……」
言っている内に、シャロンの中でひらめきが生まれた。
そうだ。おいしく体力作りができて、なおかつ広い土地を有効活用できる方法があるではないか。
シャロンは立ち上がり、興奮のままベルシュに向き合った。
「ベルシュ、畑を作ろう!!」
「………………へ!?」
トレーを落として驚愕するメイサのことなど眼中に入らず、シャロンは自身の企画をまくし立てる。
「果樹は収穫までに時間がかかるから、畑がいいと思うの! せっかくこれだけの土地があるんだし、旦那さまに許可をもらって! 野菜は鮮度が一番だし、何より自分で育てると、すごくおいしく感じるのよ! 収穫の時のあの達成感や充実した気持ち、ぜひベルシュにも味わってほしいわ!」
シャロンの家は商家だが、貧しい時には野菜も育てた。
それは生きるためだったけれど、採れたての野菜は本当においしかった。家族や知り合いがおいしいと笑う顔を見ると、誇らしい気持ちになった。
勢いに圧されて呆然としているベルシュの手を握り、シャロンはにっこりと笑った。
「ね、二人でやれば絶対楽しいわ!」
そこに強引に割って入ったのは、やはりメイサだった。
「いやいやいやいや! おかしなこと言い出さないでくれます!? ベルシュ様に、平民のように土をいじれっておっしゃるんですか!? しかも貴族の屋敷の庭園を畑に変えようなんて……常識をどこに置いてきちゃったんです!?」
「そういうわけだから、あなたは旦那さまへの許可取りをお願いね」
「あぁっ、もうっ、そう来ると思いましたよ! 絶対に嫌ですからね! 許可取りなんてめちゃくちゃ損な役回り、誰が……」
「――やってみたい」
ぎゃあぎゃあと騒がしくなったテーブルに、ぽつりと呟きが落ちた。
争いはピタリと収まり、シャロン達は揃って声の主へ視線を向ける。
呟いたのはベルシュで……彼は、きらきらと瞳を輝かせていた。
「おれ、やってみたい。じぶんでやさいをそだててみたい」
「まぁっ!」
これに慌てたのはメイサだ。
先ほどまでの凶暴さが一瞬で豹変し、しおらしい風情でベルシュの前に膝をつく。
「なんて恐ろしいことをおっしゃるのですか……あなたは尊い方、わざわざ肉体労働などせずともよいお立場ですのに。このお綺麗なお手が汚れてしまいます」
メイサだって他の使用人同様、ベルシュを放置していたくせに。
あまりの白々しさにシャロンは半眼になる。
心の清らかなベルシュはそういった悪態とは無縁のようで、きりりとした表情で首を振った。
「いいんだ。むしろ、だれかにたいへんなことをおしつけるだけなんて、ひととして、いちばんはずべきことだとおもう」
地頭がいいと、貴族としての矜持まで勝手に育つのだろうか。
決然と言い放つ姿には威厳すらあって、ベルシュは本当に格好よかった。
格好悪いのはメイサだ。今までの彼への対応を間接的に責められるようなかたちになり、特大の自業自得が返ってきて真っ赤な顔で震えている。ベルシュ自身に皮肉のつもりが一切なく、曇りなき眼差しで見つめられているからなおさらだった。
シャロンも煽るように、こっそりせせら笑っておく。彼が受けてきた仕打ちを思えばこの程度では足りないくらいだが、少しだけ胸が空いた。
「じゃあ、旦那さまに申し付けておいてね」
その間に、シャロン達は農具や野菜の種を準備しよう。まずは育てやすく、すぐに収穫できるものがいいだろうか。ベルシュと相談して決めよう。
「よろしくね、メイサ」
にっこり笑って念押しする。
ぐったりとした様子のメイサは、今度は反論しなかった。




