穏やかな日常の裏側で
ウェインスター領にも、秋が近付きつつあった。
夏のきつい日差しが少しずつ和らぎ、頬を撫でる風もひんやりとしている。
秋になったらじゃがいもを植えたいから、種芋を手に入れよう。そんなことをベルシュと喋りながら畑に向かう道中、たっぷり水の入った木製バケツを横から取り上げられる。
「重いだろう。俺が持とう」
水の重量を全く感じさせない腕の持ち主は、クラウディオだ。
「クラウディオ様、執務の方は大丈夫なんですか?」
彼が任されているのは、ここから一番近い街の維持管理のみ。広大なウェインスター領とは、比較にもならないほどの規模だ。
とはいえ、領政など畑違いすぎて一から理解できないシャロンとしては、規模だけでは推し量れない難しさがあるのだろうとも思うのだ。
それなのに最近のクラウディオときたら、畑に入り浸ってばかり。
シャロンは若干不安になっていた。腑抜けていては、マリーシュカを好きだった頃と変わらないではないか。
そんなこちらの胸中など気付きもせず、クラウディオははにかむように笑った。
「執務も大事だが、家族で過ごす時間はもっと大切だ」
「……」
あの夜から、クラウディオは好意をあからさまに主張するようになった。
そういうことを訊いているんじゃないと言い返したいのに、頭の上でぴこぴこ動いている耳が可愛くて、シャロンもあまり無下にはできない。
「手伝わせてほしい。毎日力仕事をして、君の白く細い腕が折れてしまわないか心配だからな」
「……甘い言葉を囁いてるつもりでしょうけど、超健康優良児な私には何一つ当てはまってませんからね」
こちとら生まれてこの方ど根性庶民でやってきたのだ。貴族令嬢向けの美辞麗句など一切受け付けない。
クラウディオが提げていたバケツを、今度はベルシュが取り上げる。
「おれがてつだってるから、シャロンはだいじょうぶだ! じゅんばんこってきめてる! ちちうえは、じゃましないで!」
幼いながら、彼の顔には明らかな敵対心が浮かんでいた。
ベルシュはクラウディオに対して、以前よりも素直な感情をぶつけるようになった気がする。これは断然いい兆候だった。
「じゃ、邪魔? 俺は、よかれと思って……」
「じゃま!」
「何だと!?」
なぜかバケツを奪い合っている二人を、シャロンは後ろから眺める。
こうしていると、本当の親子のようだ。
以前の彼らの関係を考えれば、劇的な変化ではないか。
少しずつでもいい。
こうして歩み寄り、互いを知っていければ、きっと大丈夫。
ベルシュとクラウディオは、もう大丈夫だ。
力では敵わないと気付いたのか、ベルシュがむくれて地団駄を踏む。
「もうっ! ちちうえはやめて! かあさまとおれだけで、だいじょうぶだから!」
不満が爆発した叫びに、シャロンは一瞬心臓が止まった。
今、ベルシュは何て言った?
彼自身も一拍遅れて気付いたようだ。慌てて口を押さえている。
「ベル……今……今……」
「あう、今のは、その……」
ベルシュは恥ずかしそうに頬を染め、ちらちらとシャロンの反応を気にしている。
……可愛すぎてもう駄目だった。
「ベルゥゥゥゥゥッッッ!!」
「うわぁ!?」
シャロンはベルシュを、飛び付くような勢いで抱き締めた。
動揺でピンと立った、ふわふわの耳としっぽが可愛い。
「ベル、初めて『母様』って呼んでくれたわね!!」
じわじわと、心の底から喜びが湧き上がってくる。
呼び方は無理に変えるものではない。
母と呼ぶことに抵抗があるならずっと『シャロン』のままで構わないと納得していたはずなのに……『母様』と呼んでもらえたことが、母として認識されていることが何より嬉しい。
涙が込み上げてきて、シャロンはぎゅっと目を閉じた。
「もうっ、可愛い! 可愛すぎる! 大好き! ベル、ベルシュ、大好きよ!」
もはや語彙も崩壊して、シャロンはただ思うままに愛情をぶつけた。
赤く熟れた頬を隠すように俯いていたベルシュが、腕の中でもぞもぞと顔を上げる。
「……ほんとに? かあさま、いやじゃない?」
「嫌じゃないどころか、とっても幸せよ! ベルのことが大好きだもの!」
答えつつも、ベルシュがシャロンにも気を遣っていたことを理解した。
父親の再婚相手だから、シャロンとは血が繋がっていないのは明白だ。だからこそ、母と呼んでいいものか悩んでいたのだろう。
三歳の子どもの、いじらしい気遣い。
そこに気付けなかったことをまず反省すべきなのだが、ベルシュがとにかく可愛くて今は無理。うちの子天使。
――クラウディオ様のことは『父上』って呼んでるのに、私は『母様』。ベルから甘えられてる感じがまた嬉しい……!
シャロンは抱き締める腕をゆるめると、ベルシュの頭を撫でた。
その際さらさらの金髪だけでなく、もこもこの獣耳の付け根に少し触れてしまったのは、不可抗力のご愛嬌というやつだ。一瞬だが、柔らかく夢のような手触り。
シャロンはでろでろにゆるみそうな頬を引き締め、あくまで慈愛溢れる笑みを装った。
「私を母様と思ってくれて、すごく嬉しい。これからもたくさん一緒にいましょうね。ずっとずっと、ベルと笑っていたいわ」
「ずっと……? ずっと、いっしょ……?」
「もちろん。だって私は、あなたの母様だもの。ずっとずーっと一緒よ」
頷きながら、小さな手をぎゅっと握る。
ベルシュは、大きな目を丸くした。空色の瞳が宝石のようにきらきらと輝いている。
そして驚きはやがて、弾けるような笑顔に変わった。
「うんっ、かあさま! おれ、ずっとかあさまと、いっしょ!」
「……ベルゥゥゥゥゥッッッ!!」
胸に込み上げる可愛さの衝撃のまま、シャロンは再び愛息子を抱き締めた。
今度はベルシュも楽しそうに笑い声を上げる。
「一緒というなら、俺もずっと一緒だが!?」
ずっと存在感を失っていたクラウディオが、ここで急に割り込んできた。
しかも強引にシャロン達を引き離そうとするから、慌てて腕の中のベルシュを庇わなければならない。
「ちょっと、やめてくださいよ」
「ベルシュの言う通り、俺が邪魔なのか!? 俺のどこがいけないか教えてくれ! 今すぐ君達に相応しい男になるから!」
「それ、どっちに妬いてるんですか」
夫としても、父親としても相応しくなりたいということか。
以前の彼とは比べようもない取り乱しっぷりに、シャロンは思わず笑ってしまった。こんなにむきになって家族の輪に入ろうとするなんて、おかしな人だ。
「……もう大丈夫だと思ったけど、まだまだですね」
シャロンの呟きは、自分でも驚くほどの温もりが籠もっている。
けれどクラウディオ達の口喧嘩に掻き消され、それは誰の耳にも届くことなく消えた。
◇ ◆ ◇
冷たい石造りの、暗くて狭い部屋。
ここはまるで牢獄みたいだ。
朝早くに起床して、掃除をして、信じてもいない神に祈りを捧げて、味気ないごはんを食べて。
敬虔な暮らしなんて何の刺激もない。
退屈で窮屈で、もううんざりだった。
周りに女性か年寄りしかいないのも不満の一つだ。
やはり、男がいないと。
彼らはちやほやしてくれるし、競うように貢いでくれる。特別扱いしてくれる。彼らがいるだけで心も体も気持ちよくなれるのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。
「大体、乙女ゲームの世界なのに、腹ボテバッドエンドとかない。絶対ないから」
腹痛と偽り奉仕活動を抜け出してみたけれど、辺鄙な土地には時間を潰す娯楽もない。
憂鬱な気分でベッドに寝転がっていると、小窓の方から物音がした。
明かり採りのための窓は縦に細長い。そこが、黒く塗り潰されて見えた。
まだ昼間なので、外の方が暗いなんてあり得ない。
よく目を凝らしてみると、黒い影がもぞもぞと動いていた。
「――マリーシュカ、迎えに来た」
淡々とした声を聞き、マリーシュカは心の中で喜びの声を轟かせた。
やった! まだ終わってない!
マリーシュカは修道院を飛び出した。
黒い外套をまとった男性の足元には、監視役の騎士が転がっている。
それらを積年の恨みを込めて踏みつけながら、マリーシュカは彼に抱き着いた。
「デルオン! 会いたかったわ!」
「ずいぶん、待たせた」
「いいの……私のこと、忘れてなかっただけで嬉しい」
彼が好む健気な女性を演じる。
せっかく、数年ぶりに再会したのだ。ここで幻滅されては困る。
「デルオン……私をここから、連れ出してくれる?」
潤んだ瞳で上目遣いという、あざとすぎる仕草。
それでもあっさり頷いてくれるのだから楽勝だった。
マリーシュカは自由を手にした気分で笑う。
何もできなくても、何も持っていなくても、これまでは男達が全てを差し出してくれた。喜んでマリーシュカに尽くしてくれた。
あの輝かしい日々が再びはじまると思うと、たまらなく嬉しかった。
まずは、可愛いドレス。修道服もいいけれど、こういう禁欲的なコスプレは誰かと有意義に楽しまないと。欲にまみれた男の視線がなければ興奮も半減だ。
それに甘いものも食べたい。流行の最先端の、庶民が列を作って買うようなもの。
宝石も欲しいし、旅行もしたい。
とにかくハッピーエンドに相応しい、とびきりの贅沢がしたい。
マリーシュカは、より一層抱き締める腕に力を籠める。あなただけが頼りなのだと言わんばかりに。
「でも私達、これからどうすれば……みんな、幽閉されたり強制労働させられたり……バラバラになっちゃったわ……」
「一人、いる」
意外な答えが返ってきて、マリーシュカは顔を上げた。
「全員の動向を、把握している。クラウディオ・ウェインスターは、次期当主の座を追われた。だが、領地から出ることを、許されていないだけ。監視もない。比較的自由が利く」
「そうなのね! クラウディオが……!」
マリーシュカは笑顔の下で計算を働かせる。
公爵家の次期当主でないなら財力には不安があるけれど、一先ずの潜伏先としてはちょうどいい。
どうせ、ここを抜け出せば追っ手がつく。それらの目を掻い潜って、攻略対象達を救い出さなければならない。
それが不可能だったとしても、また別の男に近付けばいいだけだ。
マリーシュカに相応しい、極上の男に。
絶対にここから逆転してみせる。
マリーシュカの胸元には、禍々しいほど紅い宝石のネックレスが輝いていた。




