歩み寄る夫婦
その日の夜は風もなく、とても静かだった。
ベルシュが眠りについた夜更けすぎ。
シャロンは足音を立てずに邸内を歩く。今ばかりはメイサも連れていない。
目指すは、屋敷の主の間。
部屋の主が寝ているかどうかなど構いもせず、シャロンは扉をノックする。
不躾であることは重々承知。
それでも肩書き上、シャロンはクラウディオの妻だ。夜中に突然部屋を訪ねたって罪にはならないだろう。
ノックからさほど待たずに、扉が内側から開かれる。
クラウディオは、シャツにトラウザーズという寝起きとは思えない格好。まるでシャロンが訪ねることを分かっていたかのように、落ち着いた面持ちで迎え入れた。
月明かりに照らされた室内は、書斎のような造りだった。
ずらりと壁面を埋め尽くす本棚に、重厚な書き物机。足元は毛足の長い絨毯。質実な気風が反映されているのか、余分なものが一切ない。
窓辺に進んでいくクラウディオの背中に、シャロンは早速切り込んだ。
「私が来ることを分かっていながら逃げ出さずにいた勇気は、認めてあげましょう」
「? 何のことだ? 俺はただ、君の足音に気付いただけだが」
……何かが激しく食い違っている。
もしかしたら獣人族の聴覚の前には、足音を忍ばせることなど無意味だったのかもしれない。
シャロンは己の勘違いに恥ずかしくなったが、辛うじて不遜な態度は崩さなかった。
「私の足音だと気付いたのは、きちんと話さなきゃいけないことがあると、あなたも自覚していたからで……」
「話? いや、単純に君の足音だから聞き分けられるというか」
「え、それはちょっと気持ち悪いんですけど」
「はっきり言うな。まぁ、変に取り繕ったり遠慮したりする君よりずっといいが」
以前と比べて、クラウディオが前向きすぎやしないか。他人行儀に徹していた頃のことをさらっと貶されたし。
黙り込むシャロンに、彼はゆっくりと歩み寄った。
「だが……話といえば、そうだな。俺は、君にも謝らなければいけないな」
クラウディオが深く頭を下げる。
月明かりにも目映い銀糸の髪が、さらりと肩口を流れていく。
シャロンはますます言葉を失った。
「俺の態度は、ひどく不誠実なものだった。以前君に言った言葉は、婚姻を結んだ相手にぶつけていいものじゃなかった。本当に申し訳ない」
これは、屋敷に着いた当日、少しも歓迎されなかったことについての謝罪だろうか。
確かに傷心中だったのか、クラウディオは呆れるほど自分に酔っていた。別に好きでもないのに謎にふられるという経験もした。
公爵家の者に謝罪されるという状況にこっそり動揺していたが、あのクラウディオの迷言の数々を思い出せば自然と冷静になれた。
「いいんですよ、本気で特に気にしていなかったので。むしろああいう下地があったからこそ、少しも敬意を払わず会話することができますし」
「少しもか? 夫への敬意を求めるのは不可能でも、人への最低限の敬意を求めることは許されるのではないだろうか?」
「あの出会いで?」
「うん、まぁ、ぐうの音も出ないな」
クラウディオの頭上の耳が、ぺたりと力なく垂れる。
「……だが、いつか君に信頼されたい。そういう自分になりたいと、今は思っている」
「ぐぅっ! 急な殊勝な態度、ずるいですよ!」
思わずベルシュにするように慰めたくなってしまうが、ここは我慢だ。
まずは、わだかまりを取り払ってからでないと。
シャロンは咳払いをしてから、クラウディオを鋭く見据えた。
「そういった未来の話をするためにも、一度腹を割って話しませんか? 私はそのためにここに来たんです」
ベルシュの前では話しづらいこともある。
だから深夜に改めて、クラウディオの元を訪ねたのだ。
「訊きたいことも、恨みつらみを込めた罵詈雑言もあります。今後のためにもお付き合いくださいますよね?」
判断を委ねるかたちだが、実質は強制に近い。
その気迫が伝わったのか、クラウディオはごくりと喉を鳴らした。
彼は覚悟を決め、続きの間へと歩き出す。
そこは、事務的だった先ほどの部屋とは異なる雰囲気だった。
装飾的な照明やカーテンに、目を和ませる絵画。ゆったりとくつろげるソファもある。廊下に繋がる扉もあるので、人を招き入れることが多いのはこちらの部屋なのだろう。
シャロンは無遠慮にソファに座り、足を組んだ。
「では、早速訊かせてください。――何でベルシュを放っておいたんですか?」
一番気になっているし、何より許せないのはそこだった。
ベルシュはそもそも、王室のご落胤。どう考えても放っておいていいはずがない。
彼の身に何かあれば、クラウディオ一人の責任ではなくなる。生家のウェインスター公爵家だって罪に問われるだろう。そんなのは平民のシャロンにだって分かる。
「せめて使用人達に任せておけば、あんなことにはならなかったはずです。使用人というのは、主の命令がなければ自分達で考えるしかなくなる。『もしクラウディオ様が、愛した人と別の男との間に生まれた子どもを疎ましく思っていれば』。……それが間違っているのか、正しいのかはともかく、主の意向を汲むために考えた結果が、あの育児放棄なんですよ」
だから、全ての責任はクラウディオにある。
周囲にいくら多くの人がいたとしてもだ。
シャロンはやや荒っぽくテーブルを叩いた。
「説教したいわけじゃないので、もっとはっきり文句言っていいですか。――よくあんな小さな子を、放置できましたよねぇ?」
歯を食い縛って聞いていたクラウディオの肩が、ずどんと落ちた。
「血が繋がってないとか、思うところがあったとしてもあり得ない。小さな命を守るって大人としての責任じゃないですか? いや、人として当たり前の優しさ? 失恋の痛みで最低限の情も忘れましたか? あぁ、恋のついでに心まで失っちゃった感じです?」
これまで溜め込んできた鬱憤を、一気にぶちまける。
青ざめているクラウディオも、ずけずけと罵るシャロンに反論はしない。当然、思うところがあるためだろう。ないとしたら今度こそ許さない。
そう。これは許すための手順だ。
シャロンはこれまで頑なだった。
そしてクラウディオは、そんなシャロンを一度も責めなかった。いつもどこか申し訳なさそうに、所在なげに耳を伏せていた。
彼自身が、十分に罪を自覚していたからだ。
それならなおさらシャロンが怒る筋合いはないのに、どうしても嫌味な態度をとってしまう。これまではその繰り返しだった。
だが、このままではいけないと思った。
ベルシュは、しっかりと向き合うまで、芯の部分でクラウディオを信用していなかった。
それは、シャロンの態度にも原因があったかもしれない。
周囲の機微に敏感な子だ。
シャロンがクラウディオを疑っているから、写し鏡のようにその感情を反映した。同じように父親を信用しきれなかった。
子どもとは、親の背中を見て育つものだという。
ベルシュに悪い影響を与えてしまったなら、シャロンは親として反省しなければならない。
そしてクラウディオと、新たな関係を築き上げる必要があると考えたのだ。
「あぁーすっきり。これである程度不満を発散できました。おかげで気持ちに区切りをつけられるし、今後について建設的な話し合いができます」
「これである程度……手加減をしてくれたことに感謝すべきなのか……」
もはや瀕死の体のクラウディオが、力なく笑った。
自嘲混じりの笑みだった。




