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床が天井になっただけだ

最初に落ちたのは、工具箱だった。


金属製の箱は、床から天井へ向かって跳ね上がった。蓋が開き、レンチやドライバーが銀色の群れになって宙を走る。続いて固定の甘かった椅子が浮き、壁際の収納ケースが軋みながら留め具を引きちぎった。


最後に、飲みかけの水がカップから飛び出した。


透明な塊になった水は、一瞬だけ船内中央に浮かび、そのまま天井へ叩きつけられた。


ロイは反射的に梁を掴んだ。


「床、そっちになった?」


『重力方向が反転しました』


ナナの声は平静だったが、警告表示は一気に増えている。


ジャックは、天井に張りついた工具箱を見上げた。


「じゃあ天井が床だな」


『構造上の床面は変化していません』


「でも落ちた先、あっちだろ」


『重力方向と構造区分は別概念です』


「面倒だな」


ジャックは安全帯を外し、天井側の梁へ足を掛けた。


ナナが即座に止める。


『移動を推奨しません』


「なんで」


『重力場の安定性が確認できていません』


「今はこっちが下なんだろ?」


『現在の荷重方向は船体基準軸上方です』


「じゃあ上が下か」


『違います』


「どっちだよ」


ロイは二人のやり取りを無視し、安全索を取り出した。まず自分の腰へ固定し、もう一本をジャックへ投げる。


「喋ってないで付けろ。次また変わったら飛ぶぞ」


ジャックは素直に受け取った。


「了解」


その返事だけは妙に早かった。


ロイは天井へ移った工具箱を回収し、開いたままの収納を一つずつ閉めていく。燃料系の点検パネルも開き、固定具の向きを確認する。


『船体姿勢に変化なし。外部質量源に有意な変動なし。局所重力ベクトルのみ百七十六度変化』


「船を回せば戻る?」


ロイが聞いた。


『検証します』


姿勢制御ノズルが短く噴いた。


アルゴス号がゆっくり回転する。


だが、工具も二人の身体も、天井側へ押しつけられたままだった。


ジャックが首を傾げる。


「船が回ってるのに、下は動かないな」


『外部基準に固定された重力場とも一致しません』


「じゃあ、どこ基準?」


ナナは答えなかった。


代わりに、船内の重力ベクトル表示がわずかに揺れる。


ジャックが前方の壁を指さした。


「次、あっちが下になりそう」


ロイが笑った。


「勘か?」


「なんとなく」


『根拠を提示してください』


「ない」


『即答しないでください』


その直後だった。


重力が横へずれた。


完全ではない。だが天井へ押しつけていた力が斜めに傾き、二人の身体が前方壁へ引かれる。


ロイが安全索を短く巻き取った。


「本当にそっち行ってるぞ」


『局所重力ベクトル、前方へ二十三度偏向』


ジャックは少し考えた。


「じゃあ、あっちが下ってことでいいか」


『よくありません』


「でも近づいたぞ」


『偶然です』


「便利な偶然だな」


ナナの返答が、一拍遅れた。


現在の調査船で、レスターは残響を見ていた。


正確には、見ようとしていた。


過去の像はまだ不安定で、ジャックの輪郭は肩から先がノイズへ溶け、ロイの顔も表情までは拾えない。それでも、工具が天井へ飛び上がった瞬間だけは妙に鮮明だった。


エマが天井を見上げる。


「嫌な予感しかしませんね」


「予感を判断材料にするな」


レスターが言い終えるより先に、ペンが飛んだ。


机上から真上へ。


続いて端末ケースが浮き、壁の点検用カバーが音を立てて持ち上がる。


レスターの身体も椅子から引き剥がされた。


彼は咄嗟に座席横の固定バーへ腕を絡める。エマは手すりへぶら下がるような格好になった。


『警告。船内重力ベクトル反転』


ナインの声が響く。


レスターは宙吊りのまま言った。


「反転ではない。局所場の再配向だ」


エマが天井側から返す。


「落ちる先が変わったなら、反転でよくないですか」


「名称は現象理解に直結する」


「今、名称より着地先の方が大事です」


正論だった。


レスターはそれが気に入らなかった。


「ナイン。船体姿勢、外部質量、空間位相、推進系」


『船体姿勢変化なし。外部質量分布に有意差なし。空間位相は局所的に変動。推進系異常なし』


「船体の向きとは無関係か」


『現時点では、その可能性が高いと判断します』


エマが安全索を伸ばしながら天井へ移る。


「過去の二人、どうしたんでしたっけ」


「確認する」


レスターは残響へ視線を戻した。


過去のアルゴス号では、重力方向がまた変わっていた。


今度は右舷側。


ジャックは壁から壁へ移り、ロイはそのたび安全索の支点を付け替えている。


『局所重力場の変動周期を解析します』


ナナが言う。


ジャックは右舷壁に足をつけた。


「直す必要ある?」


『重力場の異常です』


「歩けるだろ」


ロイも隣へ移動する。


「固定し直すのが面倒なくらいだな」


『重大な航行異常を“面倒”で処理しないでください』


「でも動けてるし」


『原因不明です』


「分からないなら、そのままでよくない?」


『よくありません』


ジャックは少しだけ考えた。


「ナナって、分からないもの全部直したがるよな」


『正常な判断です』


「俺は分からないままでも歩けるぞ」


『それは判断基準になりません』


ロイがハッチを開ける。


その先の通路でも、床と呼ばれていた面は壁になり、壁だった面が足場になっていた。


二人は安全索を付け替えながら進んでいく。


重力は戻らない。


原因も分からない。


解決もしない。


ただ、二人は通り抜けた。


残響が途切れた。


レスターはしばらく無言だった。


エマが期待するように待つ。


「……参考にならん」


「博士がとうとう口に出した」


「原因も対策も記録されていない。やっていることは安全索の付け替えだけだ」


「でも生き残ってます」


「そこが一番腹立たしい」


レスターは端末を開いた。


画面上では、船内各所の重力ベクトルがばらばらに揺れている。


過去より状態が悪い。


数秒ごとに荷重方向が変わり、固定された棚や配管にも横方向の力がかかっていた。このままでは、人間が移動できるかどうか以前に、船内設備がもたない。


レスターはブラックボックスの表示を閉じた。


「ログは終わりだ」


エマがちらりと見る。


「自力で?」


「最初からそのつもりだ」


「今さっき最後まで見てましたけど」


「確認と依存は別だ」


言いながら、レスター自身にも少し苦しい理屈だとは分かっていた。


なぜ私は、過去の無計画な二人組に攻略法を期待していたのか。


その事実の方が、重力異常より認めたくなかった。


「ナイン。全区画の重力ベクトルを同時表示」


『表示します』


船内図の上に無数の矢印が現れた。


揃っていない。


一見すると完全な乱雑。


レスターは拡大し、時間軸を重ねた。


「船体基準でもない。外部基準でもない」


エマが自分のヘルメット表示を見ながら眉を寄せた。


「博士」


「何だ」


「これ、表示が切り替わる時に少しだけ引っ張られてません?」


レスターは顔を上げた。


「何が」


「重力です。姿勢マーカーが上を示し直した直後、その方向へ数度寄ってる」


「ナイン。照合」


『解析中』


短い沈黙。


『船内表示系の基準方向変更と、局所重力ベクトルの偏向に弱い相関を確認』


レスターは画面を睨んだ。


「表示系と同期している?」


エマが言う。


「偶然にしては、揃いすぎてません?」


「相関と因果を混同するな。試すぞ」


レスターはそれ以上、結論を口にしなかった。


代わりに命じた。


「ナイン。船内の姿勢表示を全部消せ」


『視覚基準を失います』


「だから消す」


表示が落ちる。


床も天井も、画面上の矢印もなくなった。


数秒後。


重力ベクトルの揺れがわずかに小さくなった。


エマが息を呑む。


レスターは続ける。


「照明を一面だけに集中。最も構造強度の高い隔壁を基準面Aとする。全端末のUI、警告方向、姿勢マーカーをそこへ統一」


『了解』


船内の光が変わった。


今までばらばらだった上下表示が消え、一つの面だけが明るく照らされる。


新しい姿勢マーカーが、その面を下として示した。


エマが安全索を調整し、身体をそちらへ向ける。


レスターも同じ向きへ姿勢を揃えた。


重力がまた動く。


だが今度は、乱暴ではなかった。


ばらばらだった矢印が、少しずつ同じ方向へ寄っていく。


『局所重力場の分散低下を確認』


「継続」


『基準座標統一後、偏差さらに低下』


やがて、二人の身体がゆっくり基準面Aへ押しつけられた。


落下ではない。


重力が、そこを下だと認めるように収束した。


エマが足をつく。


「床ですね」


「基準面Aだ」


「踏めますよ」


「基準面だ」


「歩けますよ」


「エマ」


「はい」


「それ以上言うな」


レスターも立ち上がった。


ナインが報告する。


『観測者間の基準座標統一後、局所重力場の分散低下を確認。再現性あり』


レスターは端末へ記録を残す。


「過去ログではなく、こちらの実験結果だ」


エマが横から覗いた。


「そこ強調する必要あります?」


「ある」


「そうですか」


「ある」


自分でも二度言う必要はなかったと思った。


だが、そこだけは譲りたくなかった。


再びブラックボックスが淡く光った。


過去の残響が短く戻る。


ロイは壁面を歩きながら、ジャックに聞いていた。


「で、床はどこだ?」


ジャックは自分の足元を見る。


「今踏んでるとこ」


『構造図上は壁面です』


「歩けるなら床だろ」


『その定義では船内のほぼすべてが床になります』


ジャックは頷いた。


「便利だな」


『褒めていません』


残響が消える。


レスターは何も言わなかった。


エマも、さすがに笑わなかった。


その直後だった。


ナインの声に、わずかな処理遅延が混じった。


『警告。船内音声データに意味解析不能領域を検出』


「音声障害か?」


『いいえ。音は正常に記録されています』


エマが振り返る。


「じゃあ何が壊れたんです?」


『意味です』


レスターは眉を寄せた。


『音声信号は存在します。しかし、一部区間で言語としての意味だけが認識できません』


ブラックボックスがもう一度光った。


残響の中で、ロイが何かを叫んでいる。


口は動いている。


声も聞こえる。


それなのに、何を言っているのかだけが分からなかった。

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