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言葉が通じないなら問題ない

ロイの声は、はっきり聞こえていた。


音量も、声の高さも、息の切れ方も分かる。口の動きも見える。彼が何かを必死に叫んでいることだけは、レスターにも理解できた。


だが、言葉にならない。


耳へ入った瞬間までは人間の声だったものが、頭の中で意味へ変わる直前にほどけていく。知らない外国語を聞いているのとも違う。単語として切り分けることすらできず、ただ切迫した音の並びだけが残った。


残響の中でロイが大きく腕を振った。


向こうへ行くな。


たぶん、そう言っている。


レスターは反射的にそう補いかけ、すぐに思考を止めた。


「ナイン。音声データ」


『波形正常。発声器官に推定異常なし。既知言語データベースとの照合率、測定不能』


「測定不能?」


『音韻単位の切り出しそのものが安定しません』


エマは残響のロイを見つめていた。


「でも、危ないって言ってる感じはします」


「感じで補完するな」


「分かってます。でも、顔はそう言ってません?」


「顔は言語ではない」


「だから見てるんです」


返す言葉が一瞬遅れた。


残響の中では、ロイの叫びにジャックが振り返っている。ジャックも何か返した。やはり音は聞こえるのに、意味だけが抜け落ちていた。


そして場面が切り替わった。


過去のアルゴス号。その前方通路に、三体の小さな影が立っていた。


人間の腰ほどの高さ。細い四肢。頭部らしい膨らみの側面に、青白く光る膜が幾重にも重なっている。口に見える器官はない。代わりに、胸部から硬いものを擦るような音が鳴った。


カチ、カチ、ギィ。


ナナの声が重なる。


『未知知性体の可能性。言語体系を特定できません。接触を避けることを推奨します』


ジャックは三体を見た。


「怒ってる?」


ロイは相手の手元を見た。


「怒ってる奴が、壊れた部品持って待ってるか?」


一体が両腕で何かを差し出している。円盤状の機械だった。中央が割れ、内部の軸が曲がっていた。


ジャックは指をさす。


「それ、直してほしい?」


異界の個体が、カチ、と鳴いた。


『肯定応答とは断定できません』


「じゃあ違ったら返せばいいだろ」


『その判断手順は推奨できません』


ロイはすでに膝をついていた。


円盤を受け取る。表裏を返し、軸を指で回し、腰の工具袋から細いレンチを抜いた。


相手の三体が一斉に身を乗り出す。


「見物料取るぞ」


返事は、ギィ、ギィ、カチ。


「値切られた気がする」


『会話は成立していません』


「ナナ、静かにして。今いいところだから」


『私は翻訳処理を継続しています』


「してない方が早いかも」


『その可能性を否定します』


ロイが曲がった軸を抜き、工具の柄で軽く叩いて戻す。接点を磨き、割れた固定輪の代わりに予備金具を削って噛ませた。


数分後、円盤の縁に青い光が走った。


三体の膜が一斉に明滅した。


ジャックが笑う。


「喜んでるな」


『感情表現であるという根拠は――』


一体が円盤を抱え、もう一体が通路の奥を指した。二本の通路のうち、左側を何度も示す。右側を指すと、三体とも激しく体を振った。


ロイが立ち上がる。


「左行けってことじゃね?」


ジャックも頷いた。


「右がヤバいんだろ」


『推測です』


「じゃあ左行ってみよう」


『意思疎通成立を確認できません』


ジャックは歩き出しながら振り返った。


「通じたじゃん」


『言語的意思疎通は成立していません』


「言葉が通じないなら問題ない」


『問題です』


「言葉以外が通じてる」


ナナは返答しなかった。


三体の異界生物は左の通路を指し続けていた。


残響がそこで薄れた。


レスターは何も言わず、記録端末へ視線を落とした。


その瞬間、自分の口から出た声が意味を失った。


「エマ、右舷の――」


そこから先が、自分でも分からなかった。


発声した感覚はある。舌も喉も正常に動いている。だが耳へ返った声は、知らない音の連なりにしか聞こえない。


エマが振り向いた。


何か言った。


聞こえる。


分からない。


『――――』


ナインの声まで崩れた。


レスターは端末を見た。警告文が表示されている。文字そのものは読める。だが一文として頭へ入ってこない。個々の記号が、意味を結ぶ前にばらばらになる。


通信障害ではない。


文字化けでもない。


それだけは分かった。


エマが指を二本立て、次に右舷側を示した。工具ケースを持ち上げる。


レスターは首を横に振った。


エマが眉を上げる。


レスターは端末上の船内図を開き、右舷区画を指した。そこに赤い警告表示が集中している。次に左舷を指す。


エマは一度船内図を見て、それから首を振った。


工具ケースを開き、中から導通計を取り出す。右舷壁の点検パネルを叩いた。


そこでレスターは理解した。


移動するのではない。境界を測るつもりだ。


彼は手を離し、代わりにセンサー系統の生データ表示を呼び出した。意味のある文字列は読めない。だが数値と波形は残っている。


エマがちらりとこちらを見る。


レスターは三本の波形のうち、一番上を指した。


エマが頷いた。


点検パネルを開ける。


二人の間に言葉はなかった。


エマが一系統ずつ回線を切り離し、レスターがそのたび波形の変化を見る。変化がなければ手を横に振る。変化が出れば拳を止める。


三回目で、右舷奥の区画だけ波形が大きく乱れた。


レスターはその区画を指す。


エマも頷く。


次に彼女は、普段ならレスターが「勝手に触るな」と止める補助中継器へ手を伸ばした。


レスターは止めなかった。


エマが一瞬だけこちらを見る。


やれ。


口には出せない。


だが彼女は、そう受け取ったらしい。


補助中継器を迂回させる。船内表示の一部が落ちた。意味を失っていた警告文そのものは変わらない。しかし、影響区画の境界だけは数値上はっきりした。


エマが左舷側を指す。


レスターは頷いた。


二人は安全索を確認し、影響の薄い区画へ移った。


途中、エマが足を止めた。


壁際の配線カバーが半分外れている。


彼女は工具を取り出した。


レスターは腕時計を指し、先を示す。


今は直すな。


エマが不満そうな顔をした。


先へ行け。


さらに指す。


エマは渋々工具を戻した。


言葉がなくても、そこまで伝わるらしい。


レスターは妙な気分になった。


研究では、曖昧さを嫌ってきた。条件を定義し、用語を揃え、誰が読んでも同じ意味になるよう書く。それが正しい。


今も、その考えを変えるつもりはない。


それでも、説明していないのに目の前の助手が正しく動くという事実は、どうにも居心地が悪かった。


いや、違う。


正しく動いたのではない。


何度も同じ現場で、同じ失敗をし、同じ手順を繰り返してきた。その蓄積を彼女が覚えていただけだ。


そういうことにしておく。


左舷区画へ入って数秒後、ナインの声が戻った。


『音声・文字情報の意味解析機能、復旧しました』


エマが大きく息を吐く。


「うわ。喋れる」


レスターも短く息を吐いた。


「原因は」


『不明です』


以前なら、その返答だけで問いを三つ増やしていた。


レスターは乱れた波形を保存する。


「それでいい。今は記録だけ残せ」


エマが横から顔を覗き込んだ。


「博士」


「何だ」


「さっき、私が何しようとしてるか分かってましたよね」


「作業手順から推定しただけだ」


「私のこと結構信用してます?」


「手順を信用している」


「人じゃなくて?」


「手順だ」


エマは少し笑った。


「はいはい」


レスターは端末へ視線を戻した。


なぜか、重力が反転した時より答えづらかった。


残響が再び立ち上がる。


過去のアルゴス号では、ナナが先ほどの接触記録を整理していた。


『言語的意思疎通は成立していない。しかし物品交換、および経路情報の取得には成功』


短い停止。


『矛盾を検出。再分類します』


ジャックが椅子の背にもたれている。


「直して、道教えてもらった。それでいいだろ」


『偶発的な一致では説明困難です』


「じゃあ通じたんだろ」


『言語的には成立していません』


「まだ言ってる」


表示が一度消えた。


そして、もう一度現れた。


『高度な非言語的交渉手順であった可能性――』


ジャックが顔を上げた。


「普通に指さしただけだぞ」


沈黙。


『……再解析します』


レスターの隣で、エマが小さく笑った。


「ナナ、ちょっと考えすぎじゃないですか?」


レスターは返事をしなかった。


残響の中では、ナナの解析表示だけが消えずに増え続けていた。

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