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怪獣にはタレをかけろ

窓いっぱいに、目があった。


正確には、目らしきものだった。


黒い宇宙を背景にしてなお黒い、巨大な楕円。その中心だけが淡く光り、ゆっくりと収縮している。船体の何倍もある生物の一部だと理解するまで、レスターには数秒かかった。


「ナイン。能動観測は」


『最低出力を維持しています』


「なのに見えている」


『対象が一度こちらを認識した後は、観測強度を下げても追跡状態が継続する可能性があります』


エマが乾いた声を出した。


「最悪ですね、それ」


巨大な目が、ほんの少し動いた。


こちらを見た。


そう思っただけで、レスターの背中に冷たいものが走る。


「調査船までの経路を出せ」


『推奨できません。大型生命体がアルゴス号周辺の空間安定域を遮っています。現位置から強引に離脱した場合、座標誤差が急増します』


「追い払うしかないってことですか」


「刺激せずに退かせる」


レスターは即座に方針を変えた。


「音響パルス。低出力から」


アルゴス号の外殻から、短い振動波が放たれる。


反応はない。


「熱源デコイ」


船体脇に高熱源を展開する。


巨大な目は動かない。


「電磁攪乱」


『効果なし』


エマが窓の外を見たまま言った。


「これ、追い払うより機嫌取った方が早くないですか」


「未知生物に機嫌という概念を持ち込むな」


「でも怒ってそうですよ」


「君の主観だ」


直後、船体が大きく軋んだ。


怪物の身体がアルゴス号へ押しつけられたらしい。床がかすかに傾き、壁面の工具が音を立てる。


『空間安定域、十二パーセント縮小』


レスターの表情が変わった。


「まずいな」


そのときだった。


足元のブラックボックスが、また勝手に光った。


ナインが即座に報告する。


『自発的出力を検出。残響再生が開始されます』


空間に過去のアルゴス号が重なった。


像はまだレスターには荒い。ジャックとロイの輪郭は崩れたり戻ったりする。それでも声は聞こえた。


『大型生命反応、再接近。退避を推奨します』


ナナの声だ。


過去の窓の向こうにも、巨大な影がいた。


ジャックが腕を組んで見上げる。


「食えるかな」


「焼けばだいたい食える」


ロイが答えた。


『食用適性を一切確認していません』


「じゃあ匂いで聞くか」


『何をですか』


ロイの足元で、何かが転がった。


前の記録で拾っていた調味料容器だった。


彼はそれを拾い上げ、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。


「タレ、まだいける」


『現在の危機と無関係です』


ロイは怪物を見た。


「肉なら、これ嫌いじゃないだろ」


『その推論に生物学的根拠はありません』


ジャックが頷く。


「俺は好きだぞ」


『あなたの嗜好は対象生物の根拠になりません』


現在の船内で、レスターが額を押さえた。


「まさか」


エマはもう笑っていなかった。


「博士。最後まで見ましょう」


「言われなくても見る」


過去のロイは機関区画へ走っていた。


タレの容器を片手に、排熱系のバイパスを開く。


ナナが警告する。


『食品を推進系へ投入しないでください』


「燃焼室には入れない」


ロイは即答した。


「排熱側だけ借りる」


『目的を説明してください』


「温めて撒く」


『説明になっていません』


だが手は速かった。


ロイは姿勢制御用の補助ノズルから細い配管を外し、排熱バイパスへ繋ぎ替える。タレを直接流すのではなく、噴霧器を間に噛ませ、熱で霧化させる構造へ変えていく。


レスターの目つきが変わった。


「雑に見えるが、燃焼系には触れていない」


「壊さない線は守ってますね」


エマが言う。


「しかも噴霧粒径まで調整してる」


レスターは返事をしなかった。


過去のロイが作業を終える。


「できた」


ジャックが窓の怪物を見た。


「腹減ってる顔だな」


『顔の構造すら確定していません』


「じゃあ余計に腹減ってる」


『論理が悪化しました』


「撒くぞ」


『待ってください』


ロイがスイッチを押した。


アルゴス号の後部から、淡い霧が噴き出した。


排熱に乗ったタレの粒子が、熱を帯びながら怪物の表面へ広がっていく。


何も起きない。


ジャックが首を傾げた。


「薄かったか?」


『効果は確認できません』


ナナがそう言いかけた、その直後。


怪物の動きが止まった。


巨大な影が、ゆっくりと縮む。


いや、身体を丸めている。


船の外で、途方もなく大きな生物が身を折り畳み、アルゴス号の脇へ漂った。


やがて、動かなくなった。


ロイが言った。


「寝たな」


ジャックが満足そうに頷く。


「やっぱ肉だったか」


『その結論は支持できません』


「でも寝たぞ」


『対象鎮静を確認しています。しかし原因は未特定です』


「タレだろ」


『その結論は保留します』


現在の船内に沈黙が落ちた。


エマが最初に口を開いた。


「……タレ、ですね」


「違う」


「まだ何も提案してませんけど」


「顔が言っている」


「またそれ言います?」


レスターは過去ログの表示を凝視した。


「ナイン。対象反応パターンを現在の生命体と比較」


『照合中。運動周期、接近時の空間歪曲、表面反応に高い一致を確認。同一種、あるいは極めて近縁である可能性が高いと判断します』


エマはすぐに床へしゃがみ込み、古い調味料容器を拾った。


「これ使えませんか」


第1話で見つけた、乾燥した容器だ。


レスターは中を確認して首を振る。


「残留物は劣化している」


「じゃあ、近いの作ります」


エマの目が技術者のものへ変わった。


「食料庫のソース類を混ぜて、成分と匂いを寄せます」


「味は要らない」


「怪獣に味見させる気はないですよ」


レスターは一瞬黙った。


巨大な目が、また窓の外へ寄ってくる。


『空間安定域、さらに縮小』


時間はなかった。


「ナイン。過去ログから散布条件を抽出しろ。排熱温度、粒径、流量、散布角」


エマが笑った。


「やるんですね」


「“タレをかける”のではない」


レスターは真顔だった。


「未知生物に対する揮発性混合物の熱拡散試験だ」


「名前を長くしてもタレですよ」


「作業しろ」


エマは調査船側へ必要な資材を要求した。


数分後、接続チューブを通って届いたケースを開ける。


甘口ソース、発酵調味液、香辛料抽出液。


レスターが中身を見て眉を寄せた。


「どう見ても調理だな」


「科学です」


「その言葉を今使うな」


エマは笑いながらも手を止めなかった。


過去のロイが作った噴霧機構を参考にしつつ、現在の機材に合わせて安全弁を追加する。排熱系へ直接繋がず、熱交換器を一段挟む。混合液の温度が上がりすぎれば自動遮断する構造だ。


「準備できました」


ナインが条件を読み上げる。


『過去ログ条件との一致率、七一パーセント。成功見込みは低値です』


「どの程度だ」


『一割前後です』


エマがレスターを見る。


「やります?」


レスターは窓の外の目を見返した。


「実行」


混合液が霧化される。


熱を帯びた香りの雲が、船外へ広がった。


巨大な目が止まった。


エマが息を呑む。


「効いた?」


『対象運動、低下』


だが、眠らない。


怪物は動きを止めただけで、まだこちらを見ている。


レスターは即座に言った。


「差分を出せ」


『主要差異を確認。過去の散布時は、現在より排熱温度が低値でした』


エマが首を傾げる。


「低い方がいい?」


「揮発成分の壊れ方が違う」


レスターはすぐに理解した。


「温度を落とせ。焦がしている」


「了解」


エマが熱交換器を絞る。


二度目の霧が広がった。


今度は香りが船内までうっすら漂ってきた。


「焼肉屋みたいですね」


「感想は後だ」


巨大な目が、ゆっくりと細くなる。


そして閉じた。


怪物の身体がアルゴス号から離れ、空間の中で丸まっていく。


ナインが報告した。


『対象鎮静を確認』


エマが小さく拳を握った。


レスターは動かなかった。


端末へ記録しようとして、指が止まる。


過去ログ。


同種と推定される対象。


近似した混合物。


近似した散布条件。


同じ結果。


「……再現した」


その一言だけだった。


エマは何も茶化さなかった。


ナインが続ける。


『過去記録との再現性を認めます』


レスターが訊く。


「原因は」


『特定不能です』


過去のナナの声が残響の向こうで重なった。


『対象鎮静を確認。原因……解析継続』


ジャックが笑う。


「タレだろ」


『その結論は保留します』


現在で、エマが口元を押さえた。


「似てますね」


「誰と誰が」


「言わないでおきます」


怪物が眠ったことで、アルゴス号の周囲に空間の安定域が戻り始める。


ナインが進路を表示した。


『調査船への帰還経路、確保可能です』


エマが息を吐いた。


「これで先へ行けますね」


レスターはすぐには答えなかった。


足元のブラックボックスを見る。


これまでなら、一度戻ってデータを整理するところだ。


だが今は違った。


「次の記録を確認する」


エマが横目で見る。


「帰らないんですね」


「安全域が確保された。確認できる情報を残す理由はない」


「はいはい」


レスターが端末へ手を伸ばす前に、ブラックボックスが淡く光った。


残響のアルゴス号が再び浮かぶ。


過去の船内で、工具箱が突然跳ね上がった。


いや。


上がったのではない。


天井へ落ちた。


ロイが見上げる。


「床、そっちになった?」


『重力方向が反転しました』


ジャックは天井に張りついた工具箱を見て、あっさり言った。


「じゃあ天井が床だな」

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