観測したから、向こうもこちらを見る
船の外を、何かが這っていた。
姿は見えない。
だが、音だけは確かにあった。
低く、重い摩擦音が、アルゴス号の左舷から船尾へ向かってゆっくり移動していく。外板がわずかに軋み、足元から細かな振動が伝わってきた。
レスターは窓の外を見たまま言った。
「ナイン。接触位置を出せ」
『左舷中央部から後方へ移動中。推定接触面積、三十二平方メートル以上』
「外部映像は」
『光学、赤外ともに対象を確認できません』
「レーダー」
『反応あり。ただし位置が固定できません』
エマが振り返った。
「固定できない?」
『光学推定位置、左舷後方。赤外推定位置、船首側。レーダー反応は船体下方です。三系統の観測結果が一致しません』
「でも触ってますよね」
『船体圧力センサーは接触を記録しています』
エマの顔から、さっきまでの笑みが消えていた。
レスターは外部センサーの一覧を開く。数字は揃っている。故障ではない。少なくとも、すべてが同時に同じ故障を起こしているとは考えにくい。
「存在しないんじゃない」
エマが言った。
「見えてないだけ?」
「違う」
レスターは即座に否定した。
「我々の観測系が、対象を一つの位置へ固定できていない」
「それ、見えてないより気持ち悪くないですか」
「感想は後だ」
外板を擦る音が止まった。
静寂が戻る。
ナインが報告した。
『大型生命反応、船体から推定四百二十メートル』
「さっきまでくっついてたのに?」
『距離推定値そのものが不安定です』
レスターは数秒考えた。
「観測系を同期させる」
エマが眉を上げた。
「全部ですか?」
「全部だ。光学、赤外、重力偏差、レーダー、空間位相。別々に見ているから像が割れている可能性がある」
「逆だったら?」
「逆とは」
「見ようとするほど、あれがはっきりする」
レスターは彼女を見た。
「安全確保には正体の把握が必要だ」
「はい。博士ならそう言うと思いました」
「ナイン、開始」
『了解。外部観測系を統合同期します』
モニター上に、ばらばらだった反応が並んだ。
最初は意味のない点群にしか見えなかった。赤外には細長い熱源。レーダーには楕円形の反射。重力偏差には、船よりはるかに大きな質量の揺らぎ。
ナインがそれらを重ねていく。
輪郭が生まれた。
巨大だった。
胴体らしきものだけでアルゴス号の数倍。鰭とも脚とも判別できない構造が、その周囲にいくつも伸びている。
ただし、まだ完全には見えない。
見ようとした部分だけが、一瞬ずつ現れる。
「出力を上げろ」
『五十パーセントへ上昇』
輪郭が濃くなる。
『大型生命反応、接近。推定三百メートル』
エマがモニターと窓を交互に見た。
「さっき四百二十でしたよね」
「観測精度が上がったせいで距離推定が修正された可能性がある」
「そうじゃなかったら?」
レスターは答えず、さらに指示した。
「七十」
巨大な影の頭部らしき形が現れた。
『推定距離、二百一十メートル』
エマが声を低くした。
「博士」
レスターも気づいていた。
観測出力を上げるたび、対象が近づいている。
偶然では片づけにくいほど、綺麗に。
「ナイン。観測出力と推定距離の相関を計算」
『計算中。観測出力と推定距離には強い負の相関を確認。ただし標本数不足により因果関係は断定できません』
「そうだ。相関と因果は別だ」
エマが横目で見た。
「じゃあ一回、切ってみません?」
レスターは答えなかった。
代わりに言った。
「観測出力を落とせ」
輪郭が薄くなる。
数秒後。
『大型生命反応、推定距離四百メートル以上』
船内に沈黙が落ちた。
エマは何も言わなかった。
レスター自身が端末を操作し、観測系を最低出力まで落とした。
『推定距離、四百七十メートル』
「……実験終了」
「博士が止めるんですね」
「必要なデータは取れた」
「はい」
「何だ」
「何も言ってません」
レスターは眉を寄せたが、それ以上追及しなかった。
そのとき、足元のブラックボックスが淡く光った。
誰も触れていない。
これまでは操作をきっかけに立ち上がっていた残響が、今回は勝手に再生を始めた。
『ブラックボックスから自発的な出力を検出。先ほどまで確認されなかった挙動です』
ナインの報告と同時に、空間へ過去のアルゴス号が浮かび上がる。ただし像は安定せず、レスターには人影の輪郭が何度もノイズへ崩れて見えた。エマの側だけが、辛うじて表情まで追えている。
窓の向こうを、巨大な影が横切った。
第3話で見たものと同じだ。
ナナの声が響く。
『大型生命反応との距離、六百十メートル。詳細観測を開始します』
過去の船内で、センサー表示が一斉に明るくなった。
ロイが操舵桿を握り直す。
「近づいてない?」
『距離、五百四十メートル』
ジャックは窓を見ていた。
「なんか、こっち見てない?」
『対象の視覚器官は確認できません』
「いや、そういう意味じゃなくて」
ロイが推進器を吹かし、船体を横へ滑らせる。
『距離、四百八十メートル。接近継続』
ナナの声が少しだけ早くなった。
『観測データを追加取得します』
ジャックが振り返る。
「待て。見たら来てるんだろ?」
『現時点では観測出力と接近速度に相関が確認されています。ただし因果関係は――』
「じゃあ見なきゃいい」
ナナが一拍黙った。
『安全確認のため、対象の観測は必要です』
「見たら来るんだろ?」
『……相関は確認されています』
「じゃあ見ない」
『その判断は科学的ではありません』
「でも離れてるぞ」
ロイが言った。
表示上の距離が、五百、六百と増えていた。
ナナが沈黙する。
ジャックは満足そうに座席へ戻った。
「ほらな」
『“ほらな”を判断根拠として記録することは推奨できません』
「じゃあ格好よく書いといて」
『拒否します』
現在の船内で、エマが小さく息を吐いた。
「同じことやってますね」
「同じではない」
レスターは即答した。
「彼らは理由を理解せず観測を切った。我々は観測出力と対象接近の相関を測定した上で、危険回避のため出力を下げた」
「見失うために?」
レスターは数秒黙った。
「……ナイン。能動観測を最低限まで落とせ」
『対象位置の推定精度が大幅に低下します』
「承知している」
レスターは窓の外を見た。
「見失うために下げる」
エマが目を丸くした。
「博士、それ――」
「ログを真似たわけではない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っている」
「顔では喋れませんよ」
どこかで聞いたようなやり取りだった。
ナインが外部観測を落とす。
船内のモニターが次々と暗くなった。
最後に残ったのは、最低限の受動センサーと船体監視だけ。
世界が急に静かになったように感じられた。
『大型生命反応、遠ざかっています』
「距離は」
『推定不能。反応強度のみ低下中』
外板を擦る音も消えた。
レスターは安堵しなかった。
時刻。観測出力。反応強度。船体振動。
ひとつずつ記録する。
「ナイン。仮説更新」
『内容を指定してください』
「観測行為が対象の測定値を乱す、では不十分だ」
レスターは一度言葉を切った。
「観測そのものが、対象の状態を局在化させている可能性を追加する」
エマが振り返る。
「つまり、見ようとすると、あれが“そこにいる”ことになる?」
「簡略化しすぎだ」
「でも近いですよね」
「比喩としてはな」
「博士」
「何だ」
エマは暗い窓の外を見た。
「こっちがあれを見つけたんじゃなくて、見たから向こうもこっちを見つけたんじゃないですか?」
レスターはすぐには答えなかった。
否定材料を探すように、暗いモニターを見た。
「比喩としては雑だ」
「否定は?」
少し間があった。
「……保留だ」
エマが笑いかけたが、その直後、残響の中からロイの声がした。
「行った?」
過去のアルゴス号でも、巨大反応は遠ざかっている。
ジャックは窓から目を離すと、急に腹を押さえた。
「腹減ったな」
『話題転換が不適切です』
「怖いと腹減らない?」
『一般的には食欲が低下する可能性があります』
「俺は増える」
ロイが床に転がった容器を足で止めた。
拾い上げ、ラベルを眺める。
「タレ、まだあるな」
『現在の危機と無関係です』
「肉もあったっけ?」
『冷蔵庫内に保存食があります』
ジャックが立ち上がった。
「じゃあ飯にするか」
『大型生命体との遭遇直後です』
「だからだよ」
『因果関係が不明です』
「腹減ったから食う。分かりやすいだろ」
ナナは返答しなかった。
現在のエマが呟く。
「ナナさん、たぶんこの辺から疲れてますよね」
「AIは疲労しない」
「博士もそういうこと言いそうです」
「私はAIではない」
『大型生命反応、消失』
ナインの声で、二人とも黙った。
「完全に?」
『受動観測範囲内に該当反応なし』
エマが、ようやく大きく息を吐いた。
その瞬間だった。
過去のナナが告げた。
『警告。大型生命反応、再接近』
ほぼ同時に、現在のナインも言った。
『警告。大型生命反応、再接近』
レスターが顔を上げる。
「観測出力は」
『最低値を維持しています』
「ではなぜ――」
エマが息を呑んだ。
窓の外。
暗闇の中に、何かが浮かんでいた。
最初は星かと思った。
だが、大きすぎる。
ゆっくりと開く。
巨大な瞼だった。
その奥に、アルゴス号そのものを映せそうなほど大きな眼球があった。
こちらを見ていた。
今度は、センサーではない。
レスター自身の目に、はっきりと見えていた。




