こいつら、ロケット花火のつもりで来ている
ブラックボックスは、こちらの操作を待っていたかのように次の記録を開いた。
薄暗い船内に、過去の操縦室が重なる。エマには裂けた座席の縫い目や、指紋で曇った計器盤まで見えているらしい。だがレスターの視界にあるのは、輪郭の甘い人影と、ときおり欠ける光の帯だけだった。
「前より見えますね、博士」
「表示条件が安定しただけだ」
答えながら、レスターは観測端末へ一瞬だけ目を落とした。前回より接続している機器は少ない。
その事実については、何も言わなかった。
残響の中で、操縦席に座った男――ジャックが前方を指さした。
「で、向こうに何があると思う?」
隣で工具箱を足元に押し込んでいたロイが、少し考える。
「金目のもん?」
『再度申し上げます。航行計画が存在しません』
女性の声。ユニット-7、通称ナナだ。
ジャックは楽しそうに笑った。
「じゃあ作りながら行こう」
レスターの眉間に皺が寄った。
そして、残響の光景が過去へ沈んだ。
その頃、地球側ではまだ「異界の門」などという名称すら存在していなかった。
通常航路の外れ。交通管制も資源探査船も寄りつかない宙域で、アルゴス号は速度を落としていた。
前方には、星のない場所があった。
黒いのではない。黒ならば光がないだけだ。そこは背景そのものが抜け落ちたように見えた。縁だけが淡く揺らぎ、ときおり細長い亀裂の形を作っては消える。
『再確認します。観測データ不足。救難圏外。航路未登録。保険契約上、当該宙域への進入は補償対象外です』
ナナが淡々と読み上げる。
ジャックは正面の亀裂を見たまま言った。
「つまり、まだ誰も取ってないってことだな」
『私は「危険です」と説明しています』
ロイが操舵席横の表示を確認した。
「でも、先客はいない?」
『確認できません』
「じゃあ、いないことにしよう」
『確認できないことを都合よく確定しないでください』
ナナの声色は変わらない。なのに、なぜか疲れて聞こえた。
ロイは推進器の状態を確認しながら肩をすくめた。
「危ないのは分かった」
『理解していただけたなら撤退を――』
「で、入れる?」
ナナが一瞬黙った。
ジャックが答える。
「入れる」
ロイは顔を上げた。
「根拠は?」
「ない」
「了解。じゃあ試すか」
『了解しないでください』
レスターが残響を睨んだ。
「この時点で止めるべきだった」
エマは笑いをこらえながら答えた。
「ナナさんも同意見だと思います」
過去のアルゴス号では、ナナがなおも正規手順を提示していた。
『未知領域への進入前に観測ブイを先行投入。帰還座標を固定し、救難ビーコンを最低三基配置してください。その後、遠隔観測を――』
「ブイならあるぞ」
ジャックが一本だけ取り出した。
『最低三基です』
「一個で様子見る」
『その一個を失った場合、様子を見る手段がなくなります』
「その時考える」
『その時点では遅い可能性があります』
ジャックは返事をせず、観測ブイを射出した。
銀色の小さな機体が亀裂へ近づき、縁の揺らぎへ触れる。
次の瞬間、通信表示から消えた。
ロイが言う。
「消えたな」
「通ったな」
『「通過した」とは確認できません。通信が途絶しただけの可能性があります』
ロイは計器を一巡させた。
「少なくとも、入口では爆発してない」
『安全基準をそこまで下げないでください』
「じゃ、最低ラインはクリアだな」
『下げたのはあなたです』
ロイが推進系出力を一段上げる。エンジン音が腹の底へ響く低さに変わった。
ジャックは座席へ深く腰を沈め、花火へ火をつける子供のような顔で指を三本立てた。
『撤退を推奨します』
「三」
『船長』
「二」
「点火準備よし」
『ロイも聞いてください』
「一」
アルゴス号が加速した。
レスターは思わず額を押さえた。
「こいつら、ロケット花火のつもりで来ているのか」
「ナナさんが聞いたら怒りそうですね」
「すでに怒っているだろう」
残響のアルゴス号は、そのまま亀裂へ飛び込んだ。
船体が大きく軋む。
次の瞬間、星図が消えた。
正確には、ナナの航法表示が「正確さ」を失った。
現在位置、進行方向、速度。すべての数値が同時に表示されているのに、それぞれが互いに矛盾している。
『警告。航法座標を確定できません。姿勢制御補正を開始。帰還経路を再計算します』
ジャックは窓の外を見ていた。
そこには星も惑星もなかった。ただ暗闇の中を、淡い光の筋がいくつも流れている。
水の流れにも、雲にも見えた。
「こっちだ」
ジャックが左前方を指す。
ロイが聞いた。
「何が?」
「道」
『航路として認識できる構造は存在しません』
「じゃあ俺らが最初だな」
『その結論に至る論理を確認できません』
「よし。左」
「了解」
ロイはためらわず操舵を切った。
ただし雑ではなかった。スラスターを細かく吹かし、船体へかかる異常な横荷重を読みながら角度を逃がしている。壊れかけた民間船とは思えないほど操作は滑らかだった。
レスターの表情がわずかに変わる。
「操船はまともだな」
「ロイは整備屋でもありますからね」
エマは残響に目を凝らした。
「二人とも、何も分かってないわけじゃないんですよ。分かった上で、判断の仕方がおかしいだけで」
「それを一般には無謀と言う」
過去のナナが報告する。
『船体への空間応力、進路変更前より十二・四パーセント低下』
ロイがジャックを見る。
「当たり?」
「だろ?」
『偶然の可能性があります』
「じゃ、次も当てる」
ジャックは今度は右上を指した。
理由を尋ねる者はいなかった。ナナ以外は。
『進路選定基準を開示してください』
「なんとなく」
『感覚情報ではなく、判断基準を要求しています』
「だから、なんとなく」
再び進路が変わる。
数秒後、船体を揺らしていた振動が目に見えて弱まった。
『……空間応力、さらに八・一パーセント低下』
ナナが黙った。
ジャックはそれだけで勝ったような顔をした。
『船長。進路選定基準を再度開示してください』
「なんとなく」
『感覚ではなく、基準を要求しています』
「だから、なんとなく」
数秒の沈黙。
『……再現不能な独自判断と記録します』
ロイが笑う。
「急に賢そうになったな」
「だろ?」
『賢くはしていません』
現在の船内で、エマが吹き出した。
レスターは笑わない。
「こんなものを航海計画と呼べるか」
その瞬間、残響の音声が一度だけ飛んだ。
ぶつり、と短いノイズ。
そして過去のロイが、妙な間でこちらを向いた。
「呼ばなくていいんじゃない?」
レスターの手が止まった。
エマがゆっくり博士を見る。
「いま返事しましたよね」
「記録だ。偶然、発話位置が重なっただけだ」
残響のジャックが続けた。
「そうそう。細かいことは記録しとけばいい」
エマはとうとう声を上げて笑った。
レスターは無言で再生を停止する。
「博士?」
「時刻コードを出せ。音声遅延もだ。再生キャッシュの位置ずれを確認する」
「気味悪がるより先に検証するんですね」
「当然だ」
数分後、レスターは本当に偶然だったことを証明した。
それなのに、なぜか証明前より不機嫌になっていた。
ナインが解析結果を表示する。
『残響内に含まれる航法変動データと、現在観測中の異界空間偏差を比較。複数箇所で高い相関を確認しました』
レスターの表情が戻る。
「一致率は」
『局所的最大値九二・八パーセント。偶然一致として扱うには低確率です』
「ブラックボックス側が現在データを参照して再構成している可能性は?」
『該当する通信経路を確認できません』
「残響生成時の補完処理」
『既知の補完アルゴリズムでは説明できません』
レスターは一つずつ可能性を潰した。
捏造。外部データ流入。再生装置の誤補正。ナインの認識エラー。
どれも残らなかった。
長い沈黙のあと、レスターは言った。
「記録内容の妥当性は認めない。だが、実在した航海記録である可能性は高い」
エマがにやりとする。
「博士、ずいぶん長い言い方で“本物”って言いましたね」
「言っていない」
「ほぼ言いました」
「言っていない」
残響が再び動いた。
異界の奥を進むアルゴス号。
ジャックの笑い声も、ロイの軽口も消えた。
窓の外を、何かが横切ったからだ。
最初は影に見えた。
次に、それが影ではなく巨大な物体なのだと分かる。
アルゴス号の船体など、その一部にすら届かない。
『警告。前方に大型生命反応。既知分類との一致なし』
ロイが窓を見上げる。
「でかいな」
ジャックも見ていた。
「食えるかな」
『接触回避を優先してください』
「食えないなら避ける」
『判断順序が逆です』
ジャックが笑う。
だが次の瞬間、巨大な影が船窓いっぱいを覆った時、その笑顔が消えた。
操舵桿を握る手に力が入る。
ふざけているのではない。
危険は、ちゃんと分かっている。
その上で進んでいるのだ。
残響が暗転した。
同時に、現在のナインが警告音を鳴らす。
『警告。アルゴス号外周に大型生命反応を検出』
エマが反射的に窓の外を見た。
何もいない。
暗い異界空間が広がっているだけだ。
「ナイン、位置は?」
『算出不能。反応距離が連続的に変動しています』
レスターも立ち上がった。
次の瞬間、低く長い音が船内を這った。
ゴォォォ……。
金属の外板を、途方もなく大きな何かがゆっくり擦っている。
エマの笑みが消えた。
レスターは窓の外を見た。
何もいない。
それでも音だけは、船の端から端へ移動していった。
姿だけが、見えなかった。




