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ここから先は記録がない

黒箱の残響は、音もなく途切れた。


さっきまで船内へ重なっていた過去のアルゴス号が、そこで消えた。ノイズも乱れもない。ただ、そこから先だけがきれいに空白になっている。


エマが再生位置を少し進めた。


何も出ない。


さらに進める。


それでも、何も出ない。


「ナイン」


『記録データ、ここから先が欠落しています』


「欠損範囲は?」


『以降、連続して記録なし』


エマが黒箱へ身を寄せた。


「ファイルが壊れたんじゃなくて?」


『破損データではありません。記録領域そのものが生成されていません』


レスターは黒箱を見た。


小さな筐体は、今までと何も変わらない。


ただ、もう何も見せない。


「……ここから先は記録がない」


その言葉だけが、妙に船内へ残った。


レスターはすぐ表示を切り替えた。


「記録系統の状態を追え。停止直前まで」


『記録装置、電源供給正常。記憶領域、致命的エラーなし。ナナ基幹系にも停止直前の致命故障は確認できません』


「停止命令は?」


『完全な命令ログは残っていません』


エマが眉を寄せる。


「故障でも命令でもない?」


「どちらとも言えない、だ」


レスターは即座に訂正した。


「物理的に壊れて止まったなら、その痕跡がある。誰かが止めたなら、その命令が残る可能性が高い。今は、そのどちらも決め手がない」


『他要因の可能性も排除できません』


「順位は要らない」


『了解』


ナインはそれ以上、可能性を並べなかった。


船は低速のまま先へ進む。


妙なくらい静かだった。


巨大な目も出ない。床も天井にならない。何かが見えるわけでも、音が壁になるわけでもない。


ただ空間が暗く、前方の構造物だけが薄く照らされている。


エマが呟いた。


「静かですね」


「静かなだけなら歓迎する」


「そういう顔してませんけど」


「顔は測定項目ではない」


「便利ですね、それ」


レスターは返さなかった。


だがエマの言う通りだった。


異常がないことが、かえって落ち着かない。


これまでは、何か起きれば黒箱が反応した。過去のアルゴス号が現れ、ジャックかロイが何か余計なことをし、ナナが頭を抱え、その結果だけが役に立った。


今は、それがない。


前方の暗い構造物を、こちらだけで見るしかない。


『人工加工痕を検出』


ナインの声で、エマが顔を上げた。


「どこ?」


『前方百八十メートル。構造材表面に擦過痕。加えて、非現地由来の補修材を確認』


「寄せます」


船を近づける。


外部カメラに、黒ずんだ金属壁が映った。


表面には長い擦り傷が走り、その途中に灰色の補修材が盛られている。きれいとは言い難い。必要な場所へ必要な量だけ押しつけたような仕事だった。


エマが材質データを重ねる。


「これ……」


『過去アルゴス号で確認された補修材と成分一致率、高』


レスターは表示を拡大した。


補修材のすぐ横に、小さな金属片が固定されている。


そこには手書きで矢印が描かれていた。


雑だった。


思い切りがいい、と言い換えることもできる。


「これ、どっちが書いたんでしょうね」


「断定できない」


「博士、そこは夢なく言いますね」


「工具痕も出せ」


『加工時期、材質、固定方法、工具痕。過去アルゴス号由来である可能性は高いと評価できます』


エマが少し笑った。


「記録はないけど、通ってはいる」


「ああ」


それだけで十分だった。


映像はない。


声もない。


だが、あの二人がこの先へ進んだ証拠は残っている。


船は矢印の方向へ進んだ。


人工痕は断続的に続いていた。擦った跡。急場しのぎの補修。外れかけた構造材を留めた金具。そのどれも、過去残響で見てきたアルゴス号の仕事と似ている。


やがて通路のような空間が二方向へ分かれた。


右にも左にも、うっすら人工痕がある。


エマが無意識に黒箱を見た。


黒箱は沈黙している。


レスターが先に言った。


「待っても出ない。こちらで決める」


エマはすぐ前を向いた。


「了解」


「ナイン。予測じゃなく、確認できる差だけ出せ」


『右経路。人工痕は二百四十メートル先まで断続。左経路。人工痕は七百メートル先まで継続。左側の補修材は右側より後に使用された痕跡があります』


「左だ」


「早いですね」


「新しく、長く続く。十分だ」


「昔なら三十分くらい検討してません?」


「昔の私を増やすな」


エマは小さく笑って船を左へ向けた。


黒箱は、その間も何も映さなかった。


しばらく進むと、人工痕が突然途切れた。


本当に、そこで終わっている。


補修材もない。擦過痕もない。手作業で取り付けた金属片もない。


代わりに、前方の空間がゆっくり揺れていた。


『局所空間変動。範囲、およそ九十メートル』


エマが速度を落とす。


「ここから、どうしたんでしょうね。あの二人」


「分からない」


「ですよね」


レスターは前方データを見た。


「だが、ここまで来た痕跡はある」


エマが横目で見る。


レスターは黒箱を見なかった。


「ナイン。変動周期」


『主周期十四秒。副周期、約五秒。中央部は観測精度が低下します。外縁部は連続観測可能』


「通過可能な幅は?」


『確定できるのは外縁側十二メートル。そこから先は遮蔽により確認不能です』


「そこを使う」


「結構ぎりぎりですね」


「見える範囲を使う。見えない部分は増やさない」


エマが操船桿を握り直した。


「はい」


十四秒周期の揺らぎが広がる。


五秒ごとに外縁が薄くなる。


ナインが位置だけを読み上げ、レスターが進入の瞬間を決める。


エマが船を滑らせた。


派手な現象は起きなかった。


一度、船体が横へ押された。


二度目で進路が少しずれた。


だが三人はそのたびに修正した。


やがて揺らぎを抜ける。


『局所変動域から離脱』


エマが肩を落とした。


「普通に抜けましたね」


「普通の定義が広くなったな」


「博士のせいですよ」


「なぜだ」


答えず、エマは前方を見た。


黒箱はまだ黙っている。


少しして、エマが言った。


「あれ、見ないんですね」


「何をだ」


「黒箱。さっきから」


レスターは一度だけ視線を向けた。


「見ても記録は増えない」


「そうですね」


それ以上、エマは何も言わなかった。


『後方より大型反応』


ナインの声が船内の空気を変えた。


複数の探査反応が、今度は明確な艦影として表示される。


エマの表情が消えた。


「来ましたね」


『識別パターン、プロメテウス重工系。距離、急速に短縮』


通信要求が入った。


レスターは迷わず接続する。


画面にヴァルターの顔が映った。


変わらず整った軍人のような姿勢で、こちらを見ている。


『レスター博士。これ以上進む必要はない』


「ずいぶん遅かったな」


ヴァルターの表情は動かなかった。


『遠回りをする趣味がないだけだ』


「その割には、よく追いかけてくる」


『君が余計なものを持っているからだ』


エマが黒箱を見る。


ヴァルターは続けた。


『黒箱と、採取した残留物を引き渡せ』


レスターは短く答えた。


「断る」


『これは交渉ではない』


「なら最初からそう言え」


ナインが前方に新しい反応を表示した。


小型機が複数、こちらの進路へ回り込んでくる。


『前方経路に無人機。進行方向を封鎖しています』


エマが舌打ちした。


ヴァルターの声だけが静かだった。


『黒箱を渡せ。あとは私が処理する』


「断ると言った」


『君はまだ、これは研究対象だと思っている』


通信越しに、ほんの短い間があった。


『私は、使える力だと言っている』


レスターは画面の向こうを見た。


「それが一番、信用できない」


通信は切れなかった。


前方の無人機も、退かなかった。

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