確率はもう信用できません
三本の進路は、画面の上でほとんど同じに見えた。
距離も、空間歪曲の強度も、検出される粒子密度も大差がない。違いがあるとすれば、ナインがいつまで経っても一本を強調表示しないことだった。
「どれが安全?」
エマが訊いた。
『安全性の順位付けを行いません』
レスターは表示から目を離さなかった。
「できないのか」
『いいえ。今は、しません』
その返答には遅れがなかった。
レスターは数秒だけ黙ったあと、言った。
「理由を説明しろ」
三本の進路表示の横に、別の記録が並んだ。
ミサイル群。低温異常域。音によって生じた面。そして、同じ条件を再現したはずなのに同じ結果が出なかった複数の試験。
『私の確率モデルは、既知条件から未来状態を推定するためのものです』
ナインの声はいつもと同じだった。
『しかしこの領域では、同一条件と判定した入力から異なる結果が継続して発生しています。高い失敗率を算出した行動が成功し、再現可能と判定した条件が再現せず、低い優先度を与えた経路が結果的に有効となった事例もあります』
「だからモデルを捨てるのか」
『いいえ』
即答だった。
『確率計算機能そのものは保持します。ただし、この領域に対して確率値を信頼可能な判断基準として提示することを停止します』
エマが小さく息を吐いた。
「思ったより大ごとですね」
「大ごとかどうかを決めるのは後だ。まず三本を調べる」
レスターは三機の無人プローブを切り離した。
Aへ入った一機目は、そのまま前進した――ように見えた。だが帰還信号は船の左後方から返ってくる。
「後ろ?」
『送信方向は左後方。機体座標はA内部です』
Bへ入った二機目は、すぐ消えた。
「ロスト?」
『断定できません』
三秒後、出発位置へ戻ってくる。
「帰ってきた」
「戻された、だな」
Cの三機目だけは何も起きない。通信も映像も正常だった。
エマが少し身を乗り出したところで、ナインが告げる。
『内部時計に〇・七秒の差異』
「……それだけ?」
『現時点では』
エマは三本を順に見た。
「全部ハズレに見えるんですけど」
「全部ハズレなら進路はない」
『進路が存在しないとは断定できません』
「じゃあ全部アタリ?」
『それも断定できません』
エマがレスターを見る。
「便利ですね、断定しないって」
「今のは正しい」
「博士がそっちにつくんですか」
その時、黒箱が明滅した。
船内へ過去のアルゴス号が重なる。
向こうでも、三本の経路が表示されていた。
『経路A、生存可能性二十三パーセント。経路B、十九パーセント。経路Cは算出中です』
ナナの声に、ロイが露骨に嫌な顔をした。
「全部低くねえか?」
「一番近いのでいいんじゃない?」
ジャックが言った。
『距離は生存可能性を保証しません』
「じゃあロイ、どれ?」
「俺は右が嫌だ」
「なんで?」
「なんかムカつく」
『判断根拠を提示してください』
「今言っただろ」
『判断根拠として不適切です』
ジャックはあっさり頷いた。
「じゃあ左で」
『選択根拠が不足しています』
「右がムカつくから」
『それはロイの主観です』
「じゃあ二票」
「勝手に増やすな」
アルゴス号は左へ進んだ。
ナナは最後まで警告を続けていたが、数分後、船は何事もなく異常域を抜けた。
『経路選択結果を再評価します』
ナナの表示が一気に増える。
『ロイの危険回避直感が周辺空間の微小変動を非言語的に捉えていた可能性。ジャックによる即時多数決は意思決定遅延を抑制し――』
ロイが眉を寄せた。
「待て。俺、ムカつくって言っただけだぞ」
『その発言が高次の空間認識を圧縮した表現である可能性があります』
「ない」
ジャックが言った。
「でも当たったよ」
『結果との整合性はあります』
「ほら」
「何がほらだ!」
ナナはさらに説明を重ねようとしていた。
残響がそこで薄くなった。
現在側で、エマが半分笑い、半分呆れた顔をした。
「ナナ、すごい勢いで後付けしてません?」
「結果を既存モデルへ押し込んでいる」
「ナインならどれを――」
「選ばせるな」
エマが口を閉じた。
レスターはナインの表示を見た。
「こいつが今やっているのは逃げじゃない。使えない尺度を使わないと言っている」
『補足します。尺度そのものを否定しているわけではありません』
「分かっている」
エマは少しだけ笑った。
「息合ってきましたね」
「その評価は不要だ」
「はいはい」
レスターは三経路のデータを並べ直した。
「安全率は要らない。各経路で、壊れた時に何が残る」
『Aは通信が継続します。空間接続は変動しますが、信号自体は帰還しています。Bは位置関係が巻き戻ります。Cは時間基準に差異が生じています』
「観測を続けられるのは?」
『Aです』
エマが理解した。
「失敗しても情報が残る道?」
「そうだ。安全かどうかじゃない。何が起きたか追える方を選ぶ」
「昔の博士なら絶対言わなそう」
「昔の私を勝手に作るな」
「わりと最近ですけど」
レスターは聞かなかったことにした。
進路Aへ船を向ける。
『観測継続性はAが最も高い。進入後の帰還点は保証できません』
「保証は求めていない。変化を出せ」
『了解』
船がAへ入る。
一度、視界が暗転した。
次の瞬間、前方にあったはずの粒子雲が背後へ移っていた。
「接続変化」
エマが操船桿を握る。
『周期を三種類検出。短周期、十一秒前後。中周期、二十七秒前後。長周期は未確定。船体損傷なし。現在の帰還点は前回と一致しません』
「次の短周期に合わせる」
「推進、何秒?」
「四秒。変化直前で切れ」
エマが頷いた。
後方探査表示に、新しい反応が灯った。
ナインが追加する。
『後方より複数の探査反応。識別パターン、プロメテウス重工系と一致』
エマが舌打ちした。
「追いついてきた」
「なら止まる理由が一つ減った」
「前向きですね」
「事実だ」
推進器が噴く。
空間が切り替わる直前に出力を落とす。
景色が反転し、今度は船が別の接続点へ飛ばされた。
『通信継続。船体損傷なし。接続変化周期、短周期系列と一致』
「次」
エマが操作する。
一度。
二度。
三度。
同じ場所へ戻されたと思えば、別方向へ抜ける。距離という概念が役に立たない。
エマが画面を睨んだ。
「今なら、どれくらいで抜けられそう?」
ナインはすぐ答えた。
『確率はもう信用できません』
エマの手が止まりかけた。
レスターも一瞬だけナインの表示を見る。
声に乱れはなかった。
故障音も、ノイズもない。
『少なくとも、この領域において、私が算出した確率値を判断理由として提示することは適切ではありません』
レスターが訊く。
「なら、何を出せる」
『変化。再現した条件。再現しなかった条件。現在確認可能な状態』
「十分だ」
それだけだった。
ナインも、それ以上の説明を足さなかった。
『次の接続変化まで八秒。前回と同型の粒子偏向を検出』
レスターが表示を見る。
「エマ、右推進二秒。次に前を五」
「了解」
『三、二、一』
右推進。
船体が滑る。
空間が折れる。
前方推進。
粒子雲の位置が変わった。
『通信継続。帰還点変化。後方探査反応との距離、拡大』
「もう一回」
「博士、これ抜ける方向分かってます?」
「分からん」
「即答」
「分からないから測っている」
エマが笑った。
「それなら安心しました」
「どこがだ」
『次の変化まで六秒』
三者の役割は完全に分かれた。
エマが船を動かす。
レスターがどの変化を使うか決める。
ナインが余計な順位をつけず、起きていることを出す。
四度目の接続変化で、突然、前方の星明かりが固定された。
五秒。
十秒。
十五秒。
戻されない。
『空間接続の安定を確認。後方異常域から離脱しています』
エマが背もたれへ沈んだ。
「抜けた……でいいですよね」
「今度はいい」
ナインが続ける。
『確率計算機能は維持されています。通常空間へ復帰した場合、従来運用へ戻すことが可能です』
レスターは前方を見たまま答えた。
「必要になったら使え。今は使えるものを使え」
『了解』
後方のプロメテウス重工系反応は、異常域の向こうで途切れていた。
完全に振り切ったわけではない。
ただ、今だけは距離ができた。
その時、黒箱が勝手に明滅した。
「また?」
エマが振り返る。
残響が立ち上がる。
ジャックが何かを言っている。
ロイが船内を走っている。
ナナの表示も動いている。
だが、数秒後。
映像が唐突に切れた。
音も消えた。
黒箱の光だけが残る。
エマが眉を寄せる。
「壊れてる?」
『記録データ、ここから先が欠落しています』
「黒箱の故障?」
『いいえ』
ナインは短く答えた。
『記録そのものが存在しません』
レスターは黒箱を見つめた。
これまでどれだけ意味不明でも、記録だけは続いていた。
その先が、ない。
「……ここから先は、誰も記録していない」




