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音は壁になる

低温異常を抜けた直後、船体の外から規則的な衝撃音が響いた。


一度。


少し間を置いて、もう一度。


エマが顔を上げる。


「今度は何が来たんです?」


『物体接触なし。音響反応のみ検出』


ナインの報告と同時に、三度目の音が鳴った。


船の前方で、空間が薄く歪んだ。


膜のようなものが一瞬だけ現れ、漂っていた微粒子がそこへぶつかって止まる。


レスターは表示を拡大した。


「……音が、何かを押し返した?」


「今度は耳で殴るんですか」


「まず測る」


エマは少し笑った。


「否定しないんですね」


「否定する材料がない」


さっきまで白く曇っていた外板は、ようやく元の色へ戻りつつある。だが息をつく暇はなかった。


レスターは音響センサーと外部粒子観測を重ねた。


「再現する。小さいところからだ」


エマが整備用の小型工具で、近くの隔壁を軽く叩いた。


甲高い音が鳴る。


何も起きない。


もう少し強く叩く。


今度は船外に、ごく薄い揺らぎが一瞬だけ走った。


「出ました?」


「出た。弱い」


『持続時間、極短。面強度、測定下限付近』


次はテスト音を流した。


低音。


高音。


短い警告音。


複数の周波数を重ねた音。


ある程度以上の音圧になると、船外のどこかに薄い面が立ち上がる。ただし位置も角度もばらばらで、同じ音を出しても再現しない。


エマが顎に手を当てた。


「声でもやります?」


「必要ならやる」


「即答なんですね」


「実験だ」


エマは小さく息を吸った。


「あー」


船の前方に、頼りない光の面が一枚だけ生まれた。


「出た」


「次、博士」


レスターは同じつもりで声を出した。


「あー」


何も起きなかった。


エマがすぐ言った。


「博士、音程外れてます」


「現象と関係ない」


『音程偏差は観測されています』


レスターが天井を見た。


「ナイン、お前は今それを報告する必要があるか」


『観測事実です』


エマが吹き出した。


レスターは無視して表示へ戻る。


「最も成功率の高い音響条件を出せ」


『確認済み事実。音圧上昇時に面形成率上昇。特定周波数帯で持続時間増加。位相同期との弱い相関。以上です』


返答は即座だった。


レスターが眉を寄せる。


「推奨条件は?」


『現時点では提示しません』


「理由」


『観測事実と予測を分離します』


エマの表情から笑いが少し消えた。


レスターも何も言わなかった。


ナインは遅れていない。


迷って黙ったわけでもない。


自分から結論を引っ込めた。


「分かった。事実だけ出せ」


『了解』


船はそのまま低速で進んだ。


やがて前方の空間に、大きな断裂が現れた。


視界だけなら裂け目に見える。だが粒子を流すと、途中で信号が消えた。向こう側まで連続した空間として繋がっていない。


エマが唸る。


「進路、ないですね」


『通常航法で接続可能な経路を確認できません』


その時、船内で警告音が一度鳴った。


断裂の手前に、また薄い面が生じる。


流していた微粒子の一部が、その面に沿って留まった。


エマが指差した。


「壁っていうより、足場ですね」


「持続時間が短すぎる」


「じゃあいっぱい出します?」


レスターはすでに音源を並べていた。


「試す」


複数のスピーカーから音を連続で出す。


一枚。


二枚。


三枚。


面は生まれる。


だが位置が揃わない。


一枚は斜め上。


一枚は船体すれすれ。


もう一枚は断裂の奥へ向いたまま消えた。


「橋にはならないですね」


「規則が足りない」


その時、後方の黒箱が光った。


『ブラックボックス出力上昇。残響投影反応を確認』


過去のアルゴス号が、現在の船内へ重なった。


向こう側にも、同じような断裂があった。


『未知の音響反応を検出しています。静粛航行を推奨』


ナナの声が響く。


ロイは工具箱を抱えたまま歩いていた。


「静かにしろって言われると、急に全部うるさく感じるな」


「じゃあ黙れば?」


ジャックが言った。


「お前に言われたくねえよ」


ロイが工具を一つ落とした。


金属音。


拾おうとして、今度は足を船体の出っ張りへぶつける。


「痛ええええっ!」


大声が船内へ響いた。


同時に、断裂の上へ分厚い面が形成された。


ジャックが窓へ顔を寄せる。


「道できた」


ロイが片足を押さえたまま振り返る。


「俺の悲鳴で!?」


『音圧・周波数・位相の複合条件による一時構造形成と推定』


ジャックがロイを見る。


「もう一回」


「嫌だよ!」


「さっきの上手かった」


「褒めるな!」


ロイは仕方なく息を吸った。


「痛ええええっ!」


さっきと似た声量。


似た音程。


だが今度の面は薄い。


ジャックが首を傾げた。


「下手になった」


「演技で悲鳴出して上手いも下手もあるか!」


『前回音声との差異は限定的です。形成強度差の説明には不十分』


「じゃあ何が違うんだよ」


『未観測条件が存在する可能性があります』


ジャックが納得したように頷いた。


「やっぱ本気じゃないとダメなんじゃない?」


「何を本気にすんだよ!」


「痛がるの」


「もう痛くねえんだよ!」


「じゃあもう一回ぶつける?」


「ぶつけねえよ!」


「じゃあ殴る?」


「うるせえ!」


ロイが本気で怒鳴った。


その瞬間、断裂の上へ再び厚い面が生じた。


二人とも黙った。


ナナも数秒、何も言わなかった。


ジャックが先に口を開く。


「ほら」


「何がほらだ」


『直前音声と構造形成強度の間に未説明差異を確認。原因は特定できません』


「ナナも分かんねえのか」


『現時点では』


ジャックは面を指した。


「でも道あるよ」


ロイが顔をしかめる。


「お前、そういう時だけ話早いな」


残響のアルゴス号は、面が残っているうちに断裂へ進んだ。


現在側で、エマが過去の音声波形を呼び出す。


「かなり取れてます」


レスターは頷いた。


「ナイン。ロイの二回目と三回目を再現」


『実行します』


スピーカーから、ロイの怒鳴り声が再生された。


音圧。


周波数。


位相。


可能な限り揃える。


薄い面が出た。


だが、過去残響で見たものほど厚くない。


エマが画面を見比べる。


「かなり似てますよね」


「似ている。だから困る」


「じゃあ、こっちでも色々やります?」


「やる」


エマが声を出した。


短く。


長く。


低く。


高く。


次は子音を強める。


レスターも付き合わされた。


「もっと腹から」


「なぜ君が指導側なんだ」


「博士の声、研究発表みたいなんです」


「声に研究発表も何もない」


『抑揚の変動幅は小さいです』


「ナイン」


『記録には残します』


エマが笑いながら操作を続ける。


「逃げ道、覚えましたね」


『表現の変更です』


「そこは認めるんだ」


レスターは口を挟まなかった。


少なくとも、船内の空気は、あの暗い区画にいた時よりずっとましだった。


だが断裂は待ってくれない。


空間の裂け目が少しずつ広がり、船体前方の粒子流が乱れ始める。


『断裂境界、拡大中。現在位置では船体前方の粒子流乱れが増加しています』


「面の発生位置を固定できない?」


エマが聞く。


『固定条件を特定できません』


「じゃあ出た場所を使うしかない」


レスターは簡易作業索を伸ばした。


エマが外部点検アームを使い、音源ユニットの位置を少しずつ変える。


一枚出る。


消える前に次を出す。


だが三枚目が大きくずれた。


「近づけます」


「待て」


エマはすでに操作へ入っていた。


点検アームが断裂ぎりぎりへ伸びる。


薄い面が一枚だけ生じた。


「取れた」


次の瞬間、その面が消えた。


アームが沈む。


安全索が一気に張った。


エマの体が操作席から前へ引かれる。


「エマ、戻れ!」


レスターの声が船内を打った。


同時に、断裂の上へ大きな面が形成された。


これまでで最も厚い。


最も長く残る。


エマが操作を戻し、アームを引き上げた。


船内が一瞬、静かになった。


「……今のです」


「分かっている」


『直前音声は既試験条件と一致しません。差分要因を特定できません』


レスターは面を見た。


「特定は後だ。今は使う」


エマがすぐ頷く。


「面が残ってるうちに、次ですね」


「音源を右へ」


「了解」


レスターが短く声を出す。


面が一枚。


エマが別の位置で続ける。


もう一枚。


ナインは意味づけをしない。


『形成位置、右前方。持続中』


『次、左前方。強度低』


『中央。利用可能』


それだけを即座に告げる。


三人の作業が噛み合い始めた。


完璧な条件はない。


同じ声でも出たり出なかったりする。


それでも、出た面だけを拾って進路へ組み込む。


一枚。


二枚。


三枚。


船が断裂の上を渡っていく。


最後の一枚だけが薄かった。


船首が届かない。


レスターが歯を食いしばる。


「いいから、出ろ!」


空間が震えた。


真正面に厚い面が立ち上がる。


エマが推進を入れた。


船体が最後の面へ乗り、断裂の向こうへ滑り込む。


数秒後、背後で面がまとめて消えた。


『断裂領域からの離脱を確認』


エマが息を吐いた。


それから、横目でレスターを見る。


「今の、だいぶジャック寄りでしたよ」


「聞かなかったことにしろ」


「それは無理です」


『音声記録は保存されています』


レスターが目を閉じた。


「ナイン」


『削除指示であれば受け付けます』


「しない」


エマが今度は声を立てて笑った。


しばらくして、レスターは記録を整理した。


「成功条件をまとめろ」


『確定条件。音響入力が必要。高音圧は形成率を上げる。周波数・位相のみでは形成強度を説明できません。未観測要因あり』


「推奨モデルは?」


『構築を保留します』


レスターはナインの表示を見た。


以前なら理由を問い詰めたかもしれない。


今はしなかった。


「記録だけ残せ」


『了解』


断裂の先には、三本の進路が伸びていた。


ナインが航法表示を開く。


三本とも、同じ太さの線だった。


エマが首を傾げる。


「どれが安全?」


『安全性の順位付けを行いません』


レスターがナインを見る。


「できないのか」


『いいえ』


返答は速かった。


『今は、しません』

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