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絶対零度でスクワットするな

外壁に白い霜が走った。


一筋だったものが、次の瞬間には枝分かれし、船体の継ぎ目をなぞるように広がっていく。


『警告。船外温度、急低下』


エマが表示へ顔を寄せた。


「どのくらい?」


数値が落ちていく。


一桁、二桁という話ではない。通常なら計器か材料のどちらかが先に異常を起こしていなければおかしい領域まで、表示だけが平然と下がり続けていた。


レスターは眉を寄せた。


「絶対零度そのものじゃない」


「ですよね」


「もし本当にそこまで落ちているなら、先に計器が死ぬ。船体もこの状態では保たない」


『同意します。温度値と船体状態が整合しません』


ナインの声は冷静だったが、その冷静さを裏切るように、外装温度の警告表示は増え続けていた。


その時、黒箱が明滅した。


残響が船内へ重なる。


過去のアルゴス号では、ロイが全身を震わせながら屈伸していた。


ジャックが毛布を肩から巻いたまま眺めている。


「何してんの?」


「動いてりゃ死なねえ!」


『推奨しません』


ナナが即答した。


ロイは屈伸を止めずに怒鳴る。


「お前も動け!」


「寒いから動きたくない」


「逆だ!」


「寒い時って丸くなるだろ」


「猫じゃねえんだぞ!」


ジャックは毛布にくるまったまま少し考え、本当に三回だけ屈伸した。


一回。


二回。


三回。


それでやめた。


「これ、寒い上に疲れる」


「だから止まるな!」


『運動による人体発熱量では、現在観測されている熱損失を相殺できません』


「うるせえ! やらないよりマシだ!」


ロイはさらにしゃがみ込む。


ジャックはもうやらなかった。


「俺、毛布でいく」


「好きにしろ!」


その時、ナナの表示が一度止まった。


『……局所熱流束に差異を確認』


ロイが息を切らしながら顔を上げる。


「ほら見ろ」


『人体発熱量との相関ではありません』


「今それ言うな」


ナナが船内の温度分布を表示した。


ロイの周囲だけではない。


回転中の補助ポンプ。作動中の工具モーター。小刻みに振動している姿勢制御機構。


動いている場所の周囲だけ、霜の伸びがわずかに遅い。


ジャックが画面を見た。


「じゃあ、動いてればいいんじゃん」


『現時点では、運動量の増加している領域と熱流出速度の変化に相関を確認しています』


ロイが片手を上げた。


「ほらな」


『人体運動に限定されません』


「だから今それ言うなって」


ジャックは船内を見回した。


「じゃあ船ごとスクワットすれば?」


ロイの動きが止まった。


「どうやるんだよ」


『実行不能です』


「即答だった」


「当たり前だ」


ロイは屈伸を再開しながら、近くの整備パネルを開けた。


「船がしゃがめねえなら、中身全部動かす」


『電力消費が急増します』


「凍って死ぬより電池切れの方が後だ!」


ジャックが毛布の中から聞いた。


「後で困るやつ?」


「後で考える!」


補助ポンプが回る。


点検アームが伸びる。


換気ファンが高速へ切り替わり、姿勢制御機構が細かく作動を繰り返す。


必要かどうかは二の次だった。


アルゴス号のあちこちで機械が動き始める。


ナナが警告を重ねた。


『不要機器の同時稼働を確認。推奨しません』


「さっきからそれしか言ってねえぞ!」


『推奨できない行動が継続しています』


「正論で殴るな!」


船内に振動が広がるにつれ、霜の進行が鈍った。


温度が戻ったわけではない。


ただ、致命的な速さで進んでいた局所凍結が、明らかにばらけ始めた。


ジャックが窓の外を見る。


「効いてる?」


『現象の進行速度は低下しています』


「じゃあ効いてる」


『因果関係は未確定です』


「でも死ぬの遅くなった」


『それは事実です』


「じゃあ十分」


残響のアルゴス号は、機械音を全身に響かせたまま低温域を進んでいった。


現在の船内で、エマが過去映像ではなく温度分布を見ていた。


「博士」


「何だ」


「人じゃなくて、機械も同じです」


レスターはすぐに画面を切り替えた。


「どこだ」


「右舷の姿勢制御ポンプ。回ってるところだけ霜が薄い。こっちの点検アームも」


レスターは過去ログを閉じた。


「ナイン。船内の稼働部と熱流束を重ねろ」


『実行します』


複数の表示が一枚に重なる。


停止している機器の周囲では熱が一方的に抜ける。


通電しているだけの機器では、わずかな改善。


実際に回転、往復、振動している機器の周囲では、異常な熱流出そのものの挙動が変わっていた。


レスターは三つの機器を指定した。


「条件を分ける。Aは完全停止。Bは通電のみ。Cは機械運動させろ」


エマが頷く。


「同じ出力で?」


「可能な範囲で揃える」


三つの区画で試験が始まった。


停止したAでは霜が一気に伸びる。


通電だけのBは少し遅い。


Cは、明らかに違った。


モーターが回るたび、霜の縁が不規則に揺れ、熱流束の値も崩れる。


エマが画面を見たまま言った。


「熱じゃなくて、動いてること自体?」


「そう見える。まだ原因とは言うな」


「はい」


短い返事だった。


それで十分だった。


次の瞬間、船体が低く軋んだ。


外装の一部が白く曇り、警告が増える。


『右舷外板、脆化進行。推進系潤滑材、粘性上昇。補助循環系、停止予測まで短時間』


「故障連鎖を出せ」


『計算中』


ナインの返答が遅れた。


第9話以降、そのわずかな間をレスターは聞き逃さなくなっていた。


『推定生存率を再計算……』


さらに一拍。


『生存確率、算出不能』


エマが顔を上げた。


レスターも画面から目を離した。


以前なら、計算不能という言葉そのものを問い詰めていただろう。


だが今は違った。


「算出不能なら、故障順だけ出せ」


ナインは少し遅れて答えた。


『……了解』


故障予測だけが並ぶ。


右舷循環ポンプ。


次に補助推進。


その後、左舷姿勢制御。


レスターは船内配置を見た。


「全部動かす必要はない」


エマも理解した。


「止まってる場所を作らなければいい?」


「少なくとも今の結果はそう示している」


二人は同時に操作へ入った。


右舷のポンプを回す。


次に左舷の点検アーム。


その間に予備フライホイールを加速させ、止める前に反対側の循環機構へ切り替える。


船体全体を一度に動かすのではない。


動いている領域を、時間差で船内へ渡していく。


エマが電力配分を切り替える。


「右、あと五秒」


「次は中央」


「準備できてます」


「切り替え」


機械音が船内を渡った。


霜が伸びる場所を追いかけるように、別の場所でモーターが回る。


外装温度は低いままだった。


それでも、壊れる順番だけが後ろへずれていく。


『右舷循環ポンプ、停止予測を更新。補助推進系、作動可能域へ回復』


「推進を使う」


『現状では推奨可能性を算出できません』


レスターは一瞬だけ黙った。


「可否だけ言え」


『作動可能です』


「十分だ」


推進器が点火する。


船体が前へ出た。


低温域の境界は目に見えない。


だが、数十秒後、外板の霜が止まった。


さらに進む。


白く凍っていた部分が、ゆっくり濡れた光へ戻っていく。


『異常熱流出域からの離脱を確認』


エマが背もたれへ体を預けた。


「抜けた」


レスターは頷いた。


「今回はそう言っていい」


その時、まだ続いていた過去残響からロイの声が飛んだ。


「はあっ、はあっ、はあっ……!」


彼はまだスクワットしていた。


『異常域から離脱しました。運動継続は不要です』


ロイが止まった。


「先に言え!」


ジャックが毛布を外した。


「でも温まった?」


「脚だけな!」


『乳酸蓄積を確認』


「今それ言うな!」


ジャックはロイの脚を見た。


「明日痛そう」


「黙れ!」


残響が消えた。


現在の船内で、エマが自分の脚を見た。


レスターも一瞬だけ見た。


二人とも何も言わなかった。


もちろん、誰も屈伸は始めなかった。


ナインが静かに告げる。


『生存予測モデルを再構築します』


レスターは表示を閉じた。


「急ぐな」


『……理由を要求します』


「分からないものを、無理に数字にする必要はない」


長くはない沈黙があった。


『……了解』


以前なら、その返答にも計算根拠がついていた。


今はなかった。


船内温度は正常域へ戻りつつある。


エマが凍りついた工具箱の蓋を確認していると、外から硬い音がした。


コン。


二人が同時に顔を上げる。


もう一度。


コン。


「今度は何が来たんです?」


『物体接触なし。音響反応のみ検出』


エマが眉を寄せる。


「何も当たってないのに、鳴ってる?」


三度目の音が響いた。


その瞬間、船の前方で空間が薄く歪んだ。


膜のような面が一瞬だけ現れる。


漂っていた微粒子が、そこでぴたりと止まった。


レスターは身を乗り出した。


「……音が、何かを押し返した?」

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