エッカルト(3)
森に入ってからどれほど歩いたのか、そもそも今どちらへ向かっているのか、エッカルトにはそろそろ分からなくなっていた。
正しく分かっているのは、先頭を行くヨストぐらいだろう。彼は数十歩ごとに足を止め、地面を覗き込んだ。膝をついて落ち葉を払い、湿った土へ顔を近づけ、折れた枝を拾って地面を確かめる。ときには樹皮についた擦れ跡を指でなぞり、何も言わずにまた歩き出した。エッカルトにはどれも似たような痕跡にしか見えなかったが、その大半は鹿の蹄跡や狐なんかが掘り返した跡らしい。ヨストはそれらを見分けながら、人間が残したものだけを拾い上げていた。
「まだか」
一番後ろを歩いていたクーノが聞いた。槍の先で土を突きながら歩いていて、退屈を隠そうともしていない。
「何が」
ヨストは地面を見たたま答えた。
「何でもだよ。そろそろ死体の一つでも出てきておかしくないだろ」
「不謹慎なことはやめてくれ。中にはヨストの師匠もいたんだ」
エッカルトと並んで歩いていたアルヴィンが顔をしかめて振り返った。クーノは特に悪びれる様子もなく、大きく鼻を鳴らした。
「不謹慎も糞もあるかよ。まだ生きてるかもしれないと思ってる奴なんていないだろ」
それはその通りだった。アルヴィンは不快そうに口を閉じ、ヨストもこれといった反応を見せなかった。
森へ入る前までは、もう少しましな空気が流れていた。誰の荷がもっと重いのだの、干し肉が足りないだの、クーノが森へ行くと告げたとき妻が見せた殺気の凄まじさだのと、くだらないことを言い合う余裕があった。しかし木々が深くなるにつれて、そうした軽口も少なくなった。
神経が逆立っている。
エッカルトは森に入ってから、ずっとそんな感覚を抱いていた。何かを見たわけではない。獣の唸り声を聞いたわけでも、血の跡を見つけたわけでもない。それなのに、背中を絶えず冷たい風に撫でられているような気がした。
他の三人も似たようなものらしい。アルヴィンは先ほどから何度も後ろを振り向いている。クーノはあからさまに退屈そうにしているが槍を持つ手には力が入っている。ヨストが無口なのはいつも通りだが、ここまでそっけない態度も珍しい。
妙に静かな森だと思った。
風が吹けば梢が鳴る。足元では枯葉が潰れ枝が折れる音が時折聞こえる。何の鳥かは分からない鳥の鳴き声が断続的に聞こえてくる。しかしなぜか静かという感覚を拭えない。しかしその理由が分からなかったエッカルトは、退屈そうにしているクーノを見てある考えが頭をよぎった。
ふりをしている。
木が、草が、鳥が、落ち葉から枝に至るまで、この森全部がまるでまだ息をしているようなふりをしている。どこか芝居くさいせいで却って静寂のように感じられる。もう死んだ森が生きているふりをしながら、こちらをじっと見つめている。
そんなありもしない考えがいきなり頭に浮かんで、エッカルトは密かに身震いした。
「ここで止まった」
ヨストの声がして、エッカルトはハッと現実に戻された。いつの間にか一番後ろを歩いていたらしい。アルヴィンとクーノは特に訝ることもなくすぐ前に止まって、さらに先で止まっているヨストを見ていた。
緩い斜面だった。周りを木々に囲われている。ヨストはその真ん中で膝をついていた。近づいて見ると、落ち葉を払ったところに浅い窪みがいくつか現れていた。雨を吸って輪郭は崩れているが、足跡らしいことはエッカルトでも分かった。
「捜索隊の?」
エッカルトが聞くと、ヨストは「おそらく」と頷くと立ち上がって斜面の向こうを見た。
「村長が言っていた仮小屋の方に向かったようだ」
その言葉で、エッカルトはホルツドルフで出会った老人を思い出した。
*
村長の家はホルツドルフ村の入り口のすぐ隣にいた。自分を探す声に慌てて出て来た七十は優に超えていそうな老人は、この村のどこにそこまで食べ物が溢れているのかと疑うぐらい太っていた。いつか顔を覚えられていたのだろう、村長は目の前の男がこの地を治める領主の息子であることにすぐ気づいた。
「森に入るって、男爵様からのご命令で?」
エッカルトが勘当されたことを知らないのか、知っていたが忘れているのか、知らないふりをしているだけなのか。村長は目をしょぼしょぼさせながら聞いてきた。
「いや、親父とは関係ない。個人的な事情で捜索隊を探したい。森のどこから入ったのか教えてくれ」
「それは……いや、しかし……」
老人の顔色が青くなって、森の方とエッカルトたちを何度か交互に見ては、激しく首を横に振った。
「ダメです、男爵様から森に入るなと厳命が下されています」
一つ舌打ちをして、エッカルトは一歩進んで村長に凄んでみせた。
「良いから教えろ。お前じゃなくても聞き出せるやつはいっぱいいるだろ?若い連中相手ならこっちも何も遠慮することなく聞き出せる。それを望んでいるのか?」
太った下顎を揺らせながら、村長は唾を飲み込んだ。後ろでアルヴィンが何か言おうとする気配がしたが、エッカルトは無視してじっと村長を睨みつけた。
しばらくして村長は痛みを我慢するようなため息を漏らしてから、ボツボツと語り出した。
村の北へ道なりに進むと井戸があり、そこから左に行くと木こりの家がある。その裏手にいつも木こりと狩人が行き来していた森の入り口があるという。腕だけで戻ってきた狩人はいつも通りその入り口で森に入った。捜索隊も狩人の動線を追うべくその入り口に向かったという。エッカルトたちも、捜索隊の行方を追っている以上まずはその入り口で入らなければならない。
「もう一つ」それまで黙って聞いていたヨストが口を挟んだ。「木こりや狩人が森で夜を越す仮小屋なんかがあったはずだが」
「ええ、森の少し奥まったところに、小さな滝と泉があって、その隣に小屋があります」
その仮小屋に行く道筋も聞き出すと、ヨストは満足そうに頷いた。森で夜を越す可能性を考えると、知っておくべき情報だった。アルヴィンが捜索隊にもそれを伝えたのかと聞くと、村長はそうだと答えた。
それ以上聞き出すことも特になかったため、エッカルトたちはいつの間にか遠巻きに集まって来ていた村人から警戒の眼差しを受けつつ、教えられた道なりに森へ向かった。
村長を含め誰も、無事を祈る挨拶なんて渡してこなかった。彼らの顔はまるでこれから棺に入る死体でも見ているようで、不愉快だった。その中でただ一人、村人から少し離れたところでこっちを見ている男だけが、目で挨拶をしているような気がした。この村には似合わない小綺麗な身なりをした、若い男だった。
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