ウルバン(2)
後で聞いた話だが、ことの発端は旅の行商人との諍いだったらしい。酒に酷く酔っていたエッカルトが行商人を殴った。それだけなら珍しくもなかった。エッカルトは酒が入り、何かで機嫌を損ねると、すぐに手が出る男だった。しかし、なぜかその夜はいつもより酷かった。倒れた行商人が逃げようとすると追いすがり、その頭めがけて酒壺まで振り下ろそうとしたという。
酒場にいた者たちは手がつけられず、壁際まで退いて見ていた。日々の素行が悪いエッカルトは、領主様から可愛がられる息子ではなかった。それでも、余所者一人のために領主様の一人息子を取り押さえるほど肝の据わった者は、その場にいなかったらしい。やめろと声を張り上げる者もいたが、それで止まるようなら、そもそもあそこまでの騒ぎにならなかったはずだ。
知らせを聞きつけたベンノが酒場へ駆け込み、後ろからエッカルトを羽交い締めにした。すると、それまで余所者に注がれていた怒りが、今度は丸ごとベンノに向けられた。どうやって抜けたかは見ていた人によって話が違うが、ともかく次に気づいた時には、ベンノが床に倒れていたという。エッカルトは殴り、蹴り、倒れた老人を踏みつけた。それでも手を止めなかった。ベンノが動かなくなり、顔も服も血で酷い有様になって、ようやく酒場にいた者たちも我に返った。他所から来た行商人なら見て見ぬふりをしていた連中にも、城下で長く自警団をまとめてきたベンノが殺されかているとなれば話は別だった。一人、また一人と飛びかかり、その間にもエッカルトはベンノへ拳を振り下ろそうとした。最後には五人がかりで床へ押さえ付け、ようやく動けなくしたという。
ベンノは死にかけた。一週間ほど意識が戻らず、自分の足でまともに歩けるようになるまでにはひと月近くかかった。潰された耳は元には戻らず、腕にも後遺症が残り、その頃から畑に出る時間が減った。領主様はその夜のうちにエッカルトを勘当し、城から追い出した上、許しなく城門をくぐることを禁じた。ベンノの治療費も全て負担し、見舞金まで渡そうとしてくれた。ベンノは最初、それだけは頑なとして受け取ろうとしなかったが、娘のカーヤとウルバンが二人がかりで説得し、しまいには元の半額だけ受け取った。
それ以来、ウルバンは一度もエッカルトを見ていない。城下の外れに長く空いていた小屋を使って暮らしているとは聞いているが、わざわざ様子を確かめに行こうとも思わなかった。ときおり城下の酒場に来ることはあるらしい。以前ほど派手な喧嘩はしなくなったとも聞いた。だからといって、ウルバンの中で何かが変わったわけでもなかった。
「ここにいたか」
戸口の方で声がして、振り向くとマルコが立っていた。大工仕事の帰りらしく、短い髪にも上衣の肩にも細かな木屑がまとわりついていた。いつもなら人の顔を見るなり軽口とも悪口ともつかぬことを言う男なのに、今日は珍しく居心地の悪そうな顔で静かに詰所に入ってきた。
「どうした、マルコ。夜番の準備にはまだ早いと思うが」
つい先ほどウルバンが言ったこととそっくり同じことを、今度はマッツが聞いた。マルコは頭を掻きながらウルバンの隣へ腰を下ろした。
「ちょっとその件で、こいつに話がありまして。鍛冶場に行って見たらもう閉まってて、ずいぶん探したぞ」
「ああ、親方が腰を痛めてね。それで、僕に何か用?」
マルコはすぐには答えず、奥の長机で帳面を睨んでいるベンノをちらりと見た。その視線に気づいたベンノが顔を上げる。
「なんだ」
「いえ、その……」
普段ならベンノ相手にも口だけは達者なマルコが、妙に歯切れを悪くしている。それを見たマッツが口の端を吊り上げた。
「なんだ。女か?」
「なんでそうなるんですか」
「それじゃ借金か?」
「もっとありえないですよ、こいつに借金の相談なんて」
詰所に小さな笑いが起こったが、ベンノは笑わずに帳面から目を離してマルコを見ていた。その視線をまともに受けたマルコは、ますます落ち着かなくなって貧乏ゆすりをし始めた。用件の見当がついているウルバンには、この状況がおかしくて笑いが込み上げてきた。
「それで?」
吹き出しそうになるのを抑えてウルバンが促すと、マルコが咳払いをした。
「今夜の番、代わってくれないか」
「ほら、女だな」マッツがすかさず言った。
「だから違いますって」
ベンノの顔がさらに険しくなって、それに気づいたマルコは真面目な顔を取り繕った。
「西門から南の通りまでだ、頼む」
「勝手なことを言うな」
ウルバンが口を開くより早く、ベンノが低い声で言った。
「今は一人抜けるだけでも面倒なんだぞ」
「分かってます」
「分かっている奴が当日の午後になって交代を頼むか」
マルコは返す言葉を失ったようだった。少しだけ間を置いてから、ウルバンは口を挟んだ。
「分かった、代わるよ」
「良いのか?」
「今日は早く上がれたし、どうせ夜も暇だし」
そう言って頷くと、マルコはようやく生気が戻った顔でベンノを見た。自警団の団長はまだ不満そうだったか、それ以上マルコを問い詰めることもしなかった。
「ならそうしろ。ただし次はマルコ、お前がウルバンの番を引き受けろ」
「もちろんです」
「ふん、どこで遊び歩くつもりなんだか知らんが、面倒ごとは起こすなよ」
最後の小言を吐き出して、ベンノは再び帳面に目を戻した。その姿を見たマルコはウルバンの耳元で「助かった」と小さく囁いた。ウルバンは目だけで「ばれるなよ」と答えた。夜番を抜けて密会する相手が自分の娘であるカーヤだとベンノが知ると、マルコだけでなくそれを庇おうとしたウルバンにまでとばっちりが来るのが目に見えた。
「しかし、また交代か。最近こんなのばかりだな、無理もないけど」
ずっとやり取りを聞いていたマッツが、誰にともなく呟きながら壁際を見た。ウルバンとマルコも釣られてそっちを見た。
詰所の壁には、その日の夜番を示してる板が掛かっている。名前を書いた小さな木札を、持ち場ごとの釘に引っ掛けるだけの粗末なものだ。持ち場に比べ板の数が微妙に足りない。ひと月前に三人が一度に欠けてしまったため、うまく回すことができず、各々の都合で番の順番を代わってもらう頻度が増えた。
欠けてしまった三人は、北の森に入った捜索隊に参加していた。三人ともそこそこ森歩きに自信があるという理由で、騎士のラルド殿から話が来た時に軽く引き受けた。森に何か危険な獣がいるかもしれないという話だったが、腕の立つ猟師も同行すると聞いたため、何かあるはずもないと思っていた。
けれど、ひと月が経った今でも誰一人として帰ってこない。
「そういえば、領主様が呼び寄せたって人は今どうしてるんですかね?」
ウルバン自身はまだ見れなかったが、熊のように大きな男が領主様の屋敷に入ったってことは聞いた。城門で門番をしている兵士はあの男のことを物語に出てくる魔物狩り——ラントヴァルクだと言ったが、本当なのか揶揄われているのか分からない。
「さあな、何か調べ物をするらしい」
ベンノはあまり期待してなさそうな顔で答えた。どうやら自警団の団長といえど、そこまで詳しい話は伝わってこないらしい。
「なら、もうすぐ解決できるんですかね」
夜番の板を見ながらウルバンはぽつりと呟いた。答える人は誰もいなかった。ウルバンもそう言ったものの、何が解決するというのか、自分でもよく分からなかった。ただ戻ってくるはずだった人たちのことが分かれば良いと思った。
三人分の木札が、板の端の釘にまとめて掛けられている。彼らが戻ってきた時にすぐ使えるように、誰かがそうしておいたのだろう。
しかしもう随分と長い間、誰の手も触れていないように見えた。




