ウルバン(1)
その日の鍛冶場は、陽が西へ傾かないうちに火を落とした。
親方のハイコは昼前にはすでに腰を押さえ唸り始めていたため、こうなることをウルバンは予感していた。もしかしたら残りの仕事を任せてもらえるかもと期待したが、親方は苦虫を噛み潰した顔で後片付けをしろと言った。ウルバンは炉の火を落とし、床に飛び散った鉄屑を箒で掃いた。
「明日はもっと早く出ろ」
片付けを一通り終え、牛皮の前掛けを脱いで壁にかけようとするウルバンに、ふと親方が声をかけた。親方は作業台に片肘をついたまま火が消えた炉をじっと眺めるばかりで、ウルバンの方へ振り向く様子はない。
「その腰では明日も仕事にならないのでは?」
六十を過ぎた親方の腰痛は日によってむらがあるが、年々酷くなっている。ひと月前は立つことすらままならないほどだった。今日の痛み方はその時と似ている。これではしばらく店仕舞いだろうと思っていたウルバンには、親方の言葉が意外に思えた。
「明日もこのままだったら、そんときはお前が好きにやれ」
「本当ですか?」
ウルバンは両の拳を強く握った。心臓が激しく鳴っている。子供の頃に父親を亡くし、ハイコの鍛冶場に見習いとして拾われてから十年間、親方に一日の仕事を全て任されたことなど一度もなかった。
「頑張ります」
思わず大声で言って、深々と頭を下げる。親方は相変わらず苦虫を噛み潰した顔で、炉を睨んでいるだけだった。
鍛冶場の外の空はどんよりとしていた。雨になりそうではなかったが、薄い雲がかかり全体的に灰色だった。晩夏のこの街はこういう日には少し肌寒く、先程まで鍛冶場の熱に慣れていたウルバンには一層寒く感じられる。いつもなら少し沈んだ気分で帰路に就いたはずだが、今日のウルバンは上機嫌だった。
通りでは魚屋が店先に桶の水を撒いて魚の血を洗い流していた。鼻歌混じりにそれを避けつつ角を曲がると、自警団の詰所が見えた。今日は番ではないのでそのまま家に帰っても良かったが、こんな時間に顔も出さずに素通りしたことがバレると後が怖い。団長のベンノは三ヶ月前のあの夜以来、畑に出ることがグッと減り詰所で帳簿と睨み合いしている時間が増えた。今日も詰所にいるはずだ。
詰所の戸は少し開いていた。中を見ると長机の向こうでベンノが帳面を捲っている。部屋の真ん中の丸卓の前にはマッツが座って暇そうな顔で革帯をいじっていた。ベンノと同じく普段は畑で働く彼がこの時間に詰所にいるのは珍しい。
「おや、ウルバンじゃないか」戸の隙間から顔を出したウルバンを見つけたマッツが声を掛けてきた。「どうした、こんな時間に」
「いや、仕事が早く上がりまして、帰り道にちょっと寄ってみただけです」
詰所に入りマッツの向かいに座る。ベンノが帳面から顔を上げてウルバンを見た。
「何かあったのか?」
「親方が腰を痛めました。長引きそうな感じでしたよ」
「またか。今年だけで何回目だ?あいつももう潮時だな」ハイコと幼馴染というベンノは愉快そうに口角を上げた。「それじゃしばらく鍛冶場は休みか」
「いや、それが、明日は僕の好きにして良いって言われました。痛みが引かなかったらの話ですけど」
ベンノは片眉を上げてウルバンの顔をじっと見ていたが、すぐに破顔した。
「そりゃ良かったじゃないか。ハイコの奴はどうしてた」
「仏頂面で炉を睨んでました」
「そうか。ご機嫌で何よりだ」
親方のハイコはいつもしかめ面をしているが、炉をじっと見ながら話すのは照れ隠しをしている時が多い。ベンノも当然それを知っているから、楽しそうに話しているのだろう。ウルバンは胸の内がくすぐったくなるような気がした。幼いウルバンをハイコに引き合わせてくれたのは、ベンノだった。恩義を感じているウルバンとしては、少しずつ一人前として認めてもらっている自分を伝えられて嬉しかった。
「そういやマッツさん、今日はどうしたんですか?夜番の準備にしても時間が早いような」
「朝から娘が熱を出してな、昼過ぎに上がらせて貰ったんだが、家に帰ってみるとけろっとしてたんだ。九歳児なんてそんなもんだとかあさんに怒られたんだけどよ、畑に帰るのも癪なんでこっちに来た。ところでウルバン、クーノを見てないか?」
久しぶりに聞く名前だ。できれば、特にベンノの前ではあまり口にしたくない名前だった。
「いや、僕しばらく自分の家より先に出たことがなくて、見たことないですね。どうかしたんですか」
ウルバンの家は南の城門を出てすぐの通りにあるので、畑区域で暮らす人と顔を合わせる機会は、このところあまりなかった。
「エッカルトのやつが来てなんか話し合ったみたいだが、その後に仕事サボってどっかに行っちまったらしい。今週中には畑の整理を終わらせたいのに、身重の妻も置いて何してるんだか」
エッカルト。
やはりクーノの話が出れば、その名前が出てくると思っていた。ウルバンは固唾を飲んで横目でベンノを見た。
ベンノは特に反応も見せず、聞き手ではない左手で帳面に何かを書いていた。マッツはまだ何か愚痴を言いたいらしかったが、ウルバンの視線に気付き、ようやく自分の口が滑ったと悟ったのか、気まずそうな顔をした。
「ここでサボってる奴が言っても説得力がないな」
帳面から顔を上げず、ベンノがぽつりと言った。
マッツは「仰る通り」とわざとらしく大きな声で答え、一つ頷いた。その目はウルバンに余計なことを口にしたことを詫びていて、ウルバンも小さく頷き返した。
改めてベンノを見る。顔の傷はほとんど治っているが、右耳は潰れたまま元の形に戻っていない。鼻も少しだけ曲がっているように見える。右腕はあまり力が入らず、肩より上まで動かすこともできなくなったという。跛行というほどではないが、歩く時には左足を引き摺るようにもなった。
全てエッカルトに負わされた傷だ。
三ヶ月前のあの夜、ウルバンが酒場へ駆けつけた時にはもう遅かった。椅子と卓が倒れ、酒壺が割れ、床板の隙間には血が流れ込んでいた。ベンノは死んだように倒れていた。エッカルトは何人かの男たちに取り押さえられていたが、それでもまだ興奮して暴れようとしいてた。血走った目で、自分を押さえつける者たちを殴ろうと足掻いた。
それは人間というより獣に近かった。




