ジークムント(2)
男爵は領地の北端にある小さな村を指した。
「初めから話そう。ここネバルハイムから北にホルツドルフという村がある。わたしの領地では一番小さい村で、五、六十人ほどが住んでいる。この村に住むハンスという狩人がいつも通り、ここ」村とほぼ近接した北西の森を指す。「グラーヴァルトという森に入った。数日が経っても戻って来ないので村人たちが心配していた頃、村の周縁を流れる小川で右腕が見つかった。腕は獣の牙に喰い千切られたように切断面がぼろぼろだったという。ふた月ほど前のことだ」
「腕を見つけたのは?」
「川で遊んでいた村の子供だ。腕は森の奥に続く上流から流されてきたらしい」
「なぜ狩人のものだと分かった」
「あの男にはわたしも何度か狩りの案内をしてもらったことがあるから分かっているのだが、右の腕にこう」男爵は自分の手首から肘にかけて指でなぞった。「古語による刺青があった。先祖の名が刻まれていると、いつか聞いたことがある」
ラントヴァルクは何かを考える顔をして目を細めた。男爵は何かを問うとして、先を促すジークムントの視線に気付き、その疑問を麦酒で紛らした。
「村の長はとりあえず自分たちで狩人を探そうとしたが、奥深くまで入ることは流石に怖くなったのだろう。森の周辺を探してみたが、狩人の残りは見つからなかった。彼らは狩人が狼か熊に襲われたと考えた。それで村の狩人一人が死んだことを一々領主に報告するものなのかと考えた」
「普通の判断だ」
「そう、普通の判断だ。実際、理由が何であれ領民の死を一々気にするような領主はない、わたしを含めてだ。ただ今回は少し事情が違った。わたしの騎士の中にラルドいう者がいる。おまえに比べられるほどではないだろうが、わたしの配下では最も剣の腕が立つ男だった。そのラルドが狩人のハンスと旧知の仲で、ひと月ほど前に定期巡回でホルツドルフに寄った時に、狩人のことを知った」
「村人を責めたのか」
「村人の態度に憤慨しているようではあったが」男爵は苦笑をした。「それで責め立てるほど分別の無い男ではない。彼はわたしに森に何があるか確認しておくべきだと言い、ついでに狩人の遺骸を回収したいと申し出た」
それもまた普通の判断だと、ジークムントは思った。森を熟知していたはずの狩人が森で何かに遭い殺された。それが村や街にまで脅威になるか、ならないか。それを判断するためには、森を捜索するほかない。
捜索隊には騎士ラルドの他に、このネバルハイムで腕の立つ猟師が一人、兵士二人と、街の自警団から三人が自発的に加わった。自警団員の中には木こりもあったはずだという。この七人に、一週間分の食料と縄や斧などを持たせたと男爵は言った。そして、一週間が過ぎてもこの七人全員が森から戻って来なかった。
「森に住むものが何であれ」男爵は暗い顔で言った。「武装した騎士を含む七人が誰一人、生還できなかった。わたしはそこでようやく、これはわたしの手に負えるものではないと判断した。間違っているか、ラントヴァルク」
「いいえ、閣下。正しい判断だ」
仮に森に凶暴な熊や狼などがいるとしても、七人もの人間が一度に消えることはおかしい。中には森に慣れている者もいた。普通の獣ならこの人数であれば対処できる。何らかの理由で対処できなかったとしても、一人ぐらいは大して広くもない森から逃げてきたはずだ。しかし誰一人、それができなかった。
「それで、どう思う?これは人ならざるものの仕業か?おまえたちが魔物と呼ぶものが、あの森にいるのか?」
ラントヴァルクは首を振った。
「分からない。何かしら普通ではない獣がいるかも知れないし、魔物がいるかも知れない。しかしそのどちらでも、説明できないことがある」
「それは何だ」
「普通すぎる。事件そのものを言っているのではない。例えば、森にいつも通り入った狩人。狩人の死をただの不幸な出来事として受け入れた村人。森へ捜索に入ることを怖気なく決めた騎士。それを許した閣下の判断。いずれも、あの森を特別に警戒していない」
それのどこが問題だというのか分からないという顔で、男爵は首を傾げた。
「それは当然だ。あの森に何か危険なものがあるような話を、少なくともわたしは聞いた覚えがない。わたしも何度かあの森に入ったことがある」
「その通りだ、閣下」ジークムントは頷いた。「あの森に極めて凶暴な獣がいれば、それを狩人が気づかないずはない。獣の群れが住み着いていれば、村人が気づかないはずがない。魔物がいるとしたら、村人はもちろん閣下、あなたもすでにご存知のはずだ。それなのに、あなたたちは普通にあの森に入り、狩りをし、採集をし、生活をしてきた。なんら警戒することなく、ごく普通に」
男爵は口を塞いで、ラントヴァルクが言った言葉を咀嚼していた。やがて自分の無知を恥じるような口調で、ゆっくりと訊いた。
「……魔物がどこかから急に現れたとは考えられないか?例えば、新たなものが生まれた」
「考えられない」ジークムントは躊躇なく言った。「魔物は土地の先史に起源するものだ。限られた条件を持ち、極めて悲劇的なことが起こった場所で、魔物は生まれる。そのような場所はそこに住む人々には古くから畏怖され、忌避されるのが常だ。閣下がすでにご存知のはずだと言ったのは、こういう理由だ。あの北の森に魔物が生まれるほどの血生臭い歴史があれば、あなたを含め誰も、ここまであの森を軽々しく出入りしなかったはずだ」
「他所から移ってきた可能性は?」
「魔物は独立した生命体ではない。先史に起源する現象のようなものだ。起源を離れて一人歩きする魔物の話を、わたしは聞いた事がない」
口を塞いだまま、男爵は考えに耽っていた。その視線は地図上の北の森に注がれていたが、頭の中は自分の領地の歴史を振り返っているのは自明だった。しかし思い当たることは何もないらしく、男爵は目をきつく閉じて、口を塞いでいた手を離した。
「それだと、おまえの考えは何だ?あの森には何がある?」
「まだ分からない。ただの獣の仕業だと思うのも不自然なことは確かだ。だからまずは調べたい」
「調べたい」男爵がおうむ返しに聞いた。
「領地の歴史に詳しい者がいれば、紹介して欲しい。伝説や伝承、愚話、宗教などに詳しいほど良い」
心当たりがないらしく、男爵は横に立ってずっと黙っていた家令を見た。クレメンスは「心当たりがあります」と、初めてこの会話に口を添えた。
「城下の西の方に、少し変わった老人がいます。ここネバルハイムだけでなく周辺の村を回りながら家々に伝わる古い日記や、礼拝堂に残っている記録なんかを集める男です。古い道や廃村の記録も探していると聞いたことがあります」
適任だろうと思った。クレメンスは案内を付けると言ったが、ジークムントは一人の方が楽だと断り詳細な場所を聞いた。滞在中は館に泊まっても良いという男爵の提案も丁重に固辞し、席から立ち上がった。男爵は座ったまま、足元だけを見ながら口を開いた。それはやけに疲れたような声だった。
「ラントヴァルク、おまえに子供はいるか?」
「いいえ、閣下」
「……わたしには一人だけいる」男爵はジークムントの分で出されていた麦酒に手を伸ばしかけ、やめた。「愚行を繰り返したため、この城から追い出した。それでも城の近くに住んではいた。その愚息が、おまえが来るという話を聞いたらしく、北の森に向かうと言い出したそうだ」
「連れ戻して欲しいか?」
男爵は答えなかった。ジークムントはしばらく黙り込んで答えを待っていたが、男爵は長椅子に背を預け目を閉じだ。横でクレメンスが苦しそうな顔で己の主を見ていた。
答えはそれで十分だった。ジークムントは静かに館から辞した。




