冬の訪問者(2)
「名を言った覚えはない」
「宿でご主人に聞いたのですよ」
「あの男が俺を名前で呼んだ覚えもない」
「そう言われましても。聞いたものは聞いたとしか」
テオは始終穏やかな笑みを絶やさなかった。最後には少し困ったような顔をしたが、どうにも嘘臭かった。しかしこれ以上問答する気にもなれなかった。この男が自分をわざと訪ねてきたことを、老人は最初から気づいていた。
「これも宿で聞いたのですが、あなたはかつて傭兵だったとか」
「それがどうした」
「その手の話に興味がありまして」
学者は戦争、正確には戦場での経験譚について調べていると言った。六十年ほど前、大陸の南方にあった王国で内乱が起こり、幾つもの領主が王座を巡って争った。テオはその戦争が今は冬椿戦争と呼ばれていると言った。二十年あまり続いたその戦争でバーデンはある傭兵団に属して戦った。その傭兵団は何度も雇い主を変えたため、彼もいろんな戦場を転戦した。
老人は酒を呷りながら学者の問いに答え続けた。久しぶりに飲むまともな酒は滑らかにバーデンの身体中を回り、早く酔わせた。単に飲む速度が早いせいかもしれないと思いつつも、彼は酒を飲みながら酔った分だけ滑りやすくなった舌で語り続けた。話はバーデンが参戦した一番大きな戦から小さな戦の話へと順に移り、学者は鞄から出した革装丁の本に時折何かを書いていた。バーデンが覚えている限りもっと古い戦の話をすると、テオがふと尋ねた。
「故郷には海がなかったのですか」
「なかった。だから海を見るのはそれが初めてだった」
「大きな川はあったのでしょ?」
「なんのことだ」老人は眉を顰めた。
「森が多いところでしたね」
卓に酒の瓶を置く手に力が入り、陶器が木にぶつかる鈍い音が鳴った。バーデンはテオの顔をまじまじと見た。故郷の話をしたことがあったか。記憶になかった。ならなぜこの男はさも知っているように言ったのか。それを聞くのは簡単なことのはずで、しかしバーデンはそれができなかった。自分をじっと見つめる目の前の学者が得体の知れないものに感じられ、喉が異様に乾いてきた。
「知らん」やっと吐き出すように言ったのはそんな言葉だった。
「六十年も経つと、そんなものでしょうか」テオが含み笑いをした、ような気がした。それはこの男が初めて見せる、丁寧さ以外の感情らしいものだった。
薪が弾ける音がして、肌を焦がすような熱を感じ、バーデンはハッと暖炉に目を向けた。そして暖炉の火がいつの間にか消えていたことに気づいた。なのに、匂いがした。炭と鉄の焼ける匂いだった。槌で鉄を打つ音が聞こえた。等間隔で、強く、弱く。肌を焼かれるような熱に汗が流れる感触がした。
声が聞こえる。自分を呼ぶ女の声。明るく笑う声が、悲鳴に変わる。名前を呼ばれ、叫ばれ、目を瞑って開けると、小屋の中は静寂に包まれていた。
バーデンは暖炉から目を離し学者を自称する男を見た。その男は変わらず穏やかな笑みを浮かべ老人を眺めていたが、その微笑みの中にあるあざけりを隠そうとしなかった。震える手で酒を手に取り、残りを一気に飲み干す。空瓶を床に乱暴に捨て椅子から立ち上がった。
「出て行け」戸を指差す。テオは困ってるような顔をした。
「吹雪がまだ止んでないですよ」
その言葉でやっと老人の耳にもあばら小屋を揺らす風の音が戻ってきた。テオの言う通り、吹雪は止むどころが、さっきよりも強くなっているようだった。しかしどうでも良かった。バーデンは鉈を手にして男を睨んだ。
自称学者は別に怯えもせず、肩をすくめて立ち上がった。ゆっくりとした動作で革装丁の本をたたみ鞄に入れ、外套をまとい、頭巾を被ると、戸の方へ歩いた。男が戸板を開けると激しい吹雪がそのまま家の中へ雪崩れ込んだ。敷居を一足だけ跨いだ男は相変わらず寒さを全く感じていない顔で振り向くと、バーデンを見つめた。
「あなたで最後です、————」
謎の名前を残して男は去っていった。戸が閉まっても老人はしばらく立ったまま戸板を睨んだ。膝が震えていた。手が揺れていた。寒さや酔いのせいではないのは確かで、しかし理由は分からなかった。やがて老人は倒れるように椅子に座った。同時に、男が言った謎の名前が、記憶の泥底に沈めたはずのかつての自分の名前だということを思い出した。
バーデンは家から飛び出した。猛烈な吹雪が全身を叩く。見えるのは雪と闇だけで、一寸先も見えなかったが、老人は必死に男の姿を探した。目を凝らすと村の中心部から灯が滲むように見えたが、男の姿は見えなかった。
「おい!どこだ!」
老人は叫んだ。ありったけの声で叫びながら吹雪の中を進んだ。酔いが回った体は向かってくる強風と地面に積まれた雪に足を取られ何度も転んだ。しかしバーデンは這いずるように立ち上がり雪まみれとなった顔で男を探し続けた。
「戻って来い!お前は誰だ!なぜ俺を知っている!」
足が凍るように冷たかった。そこでやっと老人は自分が靴も履かず外着も着ないまま外にいることに気づいた。自覚するのと身体が崩れるのは同時だった。肺の奥がひゅうひゅうと鳴る。雪の上で跪き、老人はかろうじて顔だけを上げ、男を呼び続けた。
「お前は誰だ!なぜ俺を探してきた!俺が最後とはどう意味だ!」
肺が凍ったのか、叫びは声よりも血で吐き出された。しかし老人は叫ぶことを止まなかった。何に怯え、恐れているのかすら分からず、バーデンは血反吐を吐きながら答えを求めた。
足音がした。雪を踏む丁寧な足音。
疲れ果てた老人は音のする方へ顔を向け、闇の向こうから来る影を見つめた。




